甘やかな片想い




高校三年の夏休み。真っ黒の髪を、薄い茶色に染めた。長期の休みは学校の規則の外だ。他にも金髪に染める者や、ピアスを空ける者だっている。だが、夏特有の浮かれた空気に誘われた訳ではなかった。親には髪を染めるなんてこと言えるはずもなく、貯めたお小遣いを財布に突っ込んで、黙って美容室へと向かう。安上がりだから自分で染めようかとも考えたが、ドラッグストアに並ぶ染料には理想とする色はなく、自分で失敗するのも怖い。美容師を困らせるくらいに自分の理想とする色を熱く説明した甲斐があって、そのガラス戸を再び潜る頃には髪の毛は綺麗な茶色に染まっていた。陽の光に当たると、透けて薄い金色に輝く。校則を破ることにドキドキしていた胸が、今度は違う意味で大きく脈を打つ。お気に入りの洋服に身を包んでいるときのような高揚感。大好きな色になった髪は、軽やかに肩の辺りで揺れている。家に帰ったらきっと親に怒られてしまうだろう。この高揚した気分に水を差されたくはない。このままどこかへ行ってしまおうと思いついて、ジリジリと焼け付く太陽の下を歩き出す。日焼け止めは塗ってきたけれど、それでも肌を焼かれそうだ。歩き出して十分も経たないうちに日差しとアスファルトからの照り返しに負けて、通りにあったコンビニに駆け込んだ。自動ドアが開いた瞬間、中の冷気が熱くなった身体を包んで冷やしてくれた。

「は〜〜……」

アイスを買おう。コンビニの奥にあるアイスの冷凍庫の前で立ち止まる。どれにしようか。安くて美味しいソーダ味にも惹かれるが、普段買わないお高いアイスクリームもいい。今日はいつもとは違う、特別なのだ。ガラスケースに映った自分の髪は、キャラメルみたいな薄い茶色。よし、キャラメルのアイスにしよう、と冷蔵庫に手をかけたところで。

「……?」
「木葉……」

横からかけられた、よく知った声に、思わず弾かれたように手を引っ込めてしまった。どうしてここに、なんて言葉は愚問だろう。中学の頃から同じ学校に通っているのだ。彼と自分の行動範囲はそれほど変わらない。部活帰りなのか、ジャージ姿の彼の肩にはナイロンバッグがかけられている。懐かしい。中学の頃から、彼はずっとそのバッグを使っていた。そこについているバレーボールのキーホルダーも、昔のままだ。そして。そのキャラメルみたいな、色素の薄い髪も。

その髪は、私の恋と同じ色をしている。

中学に入学したばかりの頃、全校生徒の中でも色素の薄い彼の髪の毛はよく目立っていた。最初の頃は目つきの悪さも相俟って、不良なのではないかと疑っていて、どこか気怠げに見えるところも近寄りがたい雰囲気に拍車をかけていた。それでもクラスが同じになることもなかったから、彼と話すことも近付く機会もなかったのだが。三年のクラス替えで、同じ教室に彼がいて。三度目の席替えで、彼の後ろの席になった。ちょうど窓側の、一番後ろ。夏も間近で、太陽の光が燦々と降り注ぐ窓際はとにかく暑い。一番後ろの席は嫌いではないけれど、窓際は勘弁願いたい季節だ。しかも前の席は、苦手な男の子。重たい気持ちを抱えて、鈍い足取りで窓際の席へと移動した。くるり。席に着いた途端、前の大きな背中が振り向く。驚いて、思わず身を竦めてしまったこちらを気にもせず、彼は気怠げな笑みを張り付けたまま話し出した。

「なぁ」
「え、なんでしょう?」
「なんでしょうって、なんで敬語?別にいいけど……俺のが背高いけど、前見える?」

身を竦めてしまったのが申し訳なくなるくらい、木葉の声は柔らかい響きをしていた。

「あ、うん。黒板見るとき斜め向くから、たぶん大丈夫」
「あ、そっか。確かに大丈夫だな」

木葉が前を向いて、黒板の位置を確かめるように眺め、もう一度こちらを振り向いて微笑んだ。キツイ印象の吊り目が細く、優しくなる。どくん。心臓が、いつもと違う音を立てる。なんだ、思ったよりも良い人なんだな、と思ったのが最初だった。その髪の色が地毛であることを教えてもらう頃には、木葉はいつも体半分をこちらに向けているようになっていた。昨日のドラマ、宿題の答え合わせ、部活の話。話題はなんでもよかった。他愛もない話をして笑い合う。夏服の半袖から伸びた木葉の右腕が、私の机に投げ出されている。バレーをしているだけあって、細くても筋肉のついたしなやかな腕だ。横顔はやはり気怠げで、目元には影ができていた。睫毛が長いのだろう。その睫毛もやはり、髪と同じ色をしている。夏の日差しを受けた後頭部の髪が、キラキラと透けて金色に輝く。

「木葉の髪って、綺麗な色だよね」
「そう?俺は、あんまり好きじゃない」

そう言って、少しだけ傷ついたみたいに笑う彼の顔に、胸が軋んだ。何か、彼だけの持つ傷に無遠慮に触れてしまった気がして、言葉が継げなくなる。傷つけてしまった、嫌われたかもしれない。そう考えただけで悲しかった。

「あー、そんな深い意味じゃないから!気にすんなって」
「うん、ごめんね」

結局、好きじゃない理由は聞けないまま。けれど、彼の表情に胸が刺すように痛んだ理由には、気付かざるを得なかった。自分の気持ちに、見て見ぬフリは出来ない。いつの間にか、そのキャラメル色に恋をしていた。そして、その気持ちを表に出すことは出来ないまま、席替えで木葉とは離れてしまった。高校に入ってからは、クラスも同じになったことがない。遠くにいてもすぐに見つけることのできる彼のキャラメル色を探して、そっと胸の奥に潜む恋心を確認するだけの日々。たまに遠くで彼が振り向いて、目が合ったような気がするだけで、その日一日は幸せな気分でいられる。けれど、話すような機会もない。彼は私のことなんて、もう忘れてしまっているだろう。気持ちを打ち明けようとは思わなかった。勝算のない賭けをするよりも、たまに見かける彼の姿にときめいていた方が良かった。それだけで満足できた。気の済むまで、片想いをしていよう。そう決めたのだ。そして高校最後の夏休み。木葉の姿を見ることも出来ない長期間の休みに、自分の髪を初恋の色に染めた。鏡を見るたび、彼の色に染まった髪に心が弾んだ、はずだった。

「……髪、染めたの?」
「うん……夏休みだし、ね」

精一杯の言い訳は、控えめに言っても苦しい。染めるだけなら、茶髪でも金髪でもこんなふうに困ることなんてなかった。陽に透けると淡い金色に輝く、キャラメルみたいな甘い色。木葉の、色。本人に出会う可能性もないわけではなかったが、そんなこと、染めている最中には頭に過ぎりもしなかった。何を話してこの場を凌げばよいのだろう。弾んでいた心は、コンビニの冷房で冷やされた体みたいに、急速に冷えて萎んでいく。不自然な沈黙を破ったのは、木葉が先だった。

「買わないの、アイス」
「え……買う」
「これ、俺のオススメ」

彼が指差したのは、さっき買おうと思っていたキャラメルのアイス。

「それにする」
「俺も」

どくん。また、あの頃みたいに心臓の音が大きく聞こえる。同じアイスを一緒に買う、ほんのそれくらいのことでも嬉しい。この髪のことがなければ、もっと純粋に彼と鉢合わせてこうして会話できたことを喜べただろうに。外に出ると、隣のレジで一足先に会計を済ませた木葉がキャラメルアイスを片手に立っていた。冷房で冷やされた体が夏の日差しの元、早くも体温を上げ始める。パッケージを開けて、冷たいアイスを口に含んだ。甘くて冷たいキャラメル味が、舌の上で溶けていく。

「美味しい」
「だろ」
「うん。木葉は、部活帰り?」
「そーそー。今年は俺スタメンだから」
「うん、すごいよね。うち強豪なのに」
「あ、スタメンになったの、知ってたんだ」

しまった、と思ったときには遅い。三年も前にたった一度同じクラスになったクラスメイトのスタメン入りなんて、あまり知っている人はいないだろう。クラスも離れているし、バレー部の知り合いだっていない。それでも、木葉に関する情報だけは拾っていた。中学の頃から、努力していたのを知っている。試合も、たまに観に行っていた。スタメン入り、おめでとう。本当は、誰よりも早く伝えたかったけれど、そんなことすら伝えにいける間柄ではない。

「なんて、な。そりゃ知ってるか。たまに試合観に来てくれてるし」
「え?」
「あれ?俺の見間違い?」

まるで何でもない、普通のことのように木葉はそう言った。どうして。いつもバレー部の試合を観に行くときは、応援席の端っこで目立たないようにしていたのに。どうして、木葉がそれを知っているのだろうか。

「見間違いじゃ、ない」

そう答えると、木葉はまた、目を細めて優しい顔で笑った。心臓が煩い。もしかしたら、なんて淡い期待が胸を過りそうになる。隠れたりしていたわけではないから、もしかしたら客席を見渡したときに、たまたま元クラスメイトを見つけただけかもしれないのに。

「俺さ、この色のせいで偏見受けたりしてたから、あんまり自分の髪の色、好きじゃないんだけど」

チャラいとか、不良とか、さ。言い捨てるような木葉の言葉に、彼が過去にそんな偏見の目を向けられて、どれだけ傷ついていたのかが伺える。もしかしたら、好きな子にそんなふうに言われたことがあるのかもしれない。考えただけで、胸の奥が痛くなる。

「でもは、綺麗って言ってくれたよな。この色、そんなに好き?」

やはり、髪を同じ色に染めたことを言われているのだろうか。大好きな色。でも、木葉の好きじゃない色。

「……陽に透けると、キラキラするの。木葉の髪」

夏の太陽に透けて、陽の光みたいにキラキラと輝く髪に、ずっと憧れていた。自分の髪をその色に染めてしまうくらい、彼の色が好きで。大好きで、どうしようもなくて。

「ごめんなさい。私も最初、木葉のこと不良みたいって思ってた。でも全然違ったから……木葉と話したら、皆ちゃんとわかってくれるから。おひさまみたいな髪と同じ、あったかい人だって。だから、この色、好きじゃないなんて言わないで」

でも本当にすきなのは、彼の優しい笑顔なのだけれど。告白みたいな言葉は、声に乗せることができないまま。でもせめて、彼がこの色を、少しでも好きになってくれればいい。それだけで充分、この片想いは報われる。

「……外で見ると、そんな色になんだ、この髪。知らなかった」
「木葉?」
「俺多分、が言うほどあったかい人じゃないけど」

あと、チャラくもないけど。真剣な顔で言い添えて、木葉はまた、やわらかく微笑んだ。

「好きな子にそう思ってもらえてんなら、この髪も悪くないかもね」

夏の日差しが降り注いでいる。アスファルトからの照り返しを受けて、日が傾き始めても気温は一向に下がらない。茹だるような暑さで、ついに聴覚がイカレたのかもしれない。けれど、目の前には、木葉が少しだけ目元を赤く染めた優しい笑顔で立っている。もしかしたら、なんて、淡い期待が胸を過る。舌に残るキャラメルアイスと同じくらい甘い、彼の言葉が耳に溶けた。





(2016/8/16)