青春の海に溺れる




及川がまたひとりの女の子を虜にして、告白されて、断った。それだけで高校内を駆け巡るようなニュースになるのだから、女子高生とは暇な生き物だ。今皆の関心があるのは、遠くの戦争よりも、自分の未来に年金が貰えるかどうかよりも、流行りの歌とドラマと化粧品と、ずっと近くにある恋の話。誰が好き、誰と誰が付き合っている、誰が人気、誰が告白した、された。そんなニュースの方が、四角い画面の中で名前も知らない政治家が叫ぶ言葉よりも、ずっとずっと意味のあることだ。少なくともこの青城で、及川徹に興味のない女の子は、あまりいない。
ところで、青城の屋上は立ち入り禁止である。何年前に飛び降りがあっただのなんだの噂が飛び交うが、これに関しては単純にこの学校の話ではなくて、全国的なそういう流れに乗っただけだ。だから、立ち入り禁止の屋上にわざわざ近付く人間など稀で。屋上に続く扉は固く鍵がかかっているけれど、その横の鍵が固定された窓の立て付けが悪くて開くようになってしまっていることも、知っている人間はいないだろう。及川と、自分以外には。

「及川、またフったんだって?」
も、もう知ってんだ」

屋上の扉を背もたれに座りながら、二人で空を眺めた。今日は入道雲が立ち昇り、空が青く青く澄んでいる。もうすっかり、夏だ。及川とは、一年のときにこの屋上で出会ってからたまに話す。ここは周囲から完全な死角で、同じクラスになったことがない二人の接点など普通はないに等しいから、噂になることもない。誰とゴシップになるわけでもない普通の女子生徒と、話題の中心にいるイケメンを結びつける者など誰もいなかった。彼に告白したのは、女子高生の話題に相応しい、学年で一番可愛いといわれる一つ下の後輩だった。

「可愛い子だったのに、勿体ないことするよね」
「可愛い子なんて、そこらじゅうにいるじゃん。それに、可愛いだけでいいなら、テレビでアイドル見るだけで充分でしょ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。それに、向こうもイケメンと付き合いたいだけみたいだったし?」

自分でイケメンなどと言うのはどうかと思うが、確かに及川の顔は整っているのだから仕方がない。及川はたくさんの女の子たちに愛されても意味がないのだと言った。たったひとり、自分が愛する人がいて、その人に愛されなければ人生に意味なんてないのだと。

「及川ってその歳で人生悟ってるよねぇ」
「まあ誰かさんの五倍以上は色恋沙汰に巻き込まれてきたし?今はバレーに愛情注いでるからいいの。楽しいし」
「及川知ってる?ゼロに何かけてもゼロなんだよ」

大半の女子高生が高校生活を恋の話というものに費やすならば、及川が時間を費やしたものはバレーだけ。それだけ情熱をかけられるものがあるだけ、彼は幸せ者だ。イケメンで、バレーが上手くて、仲間にも恵まれている。けれど、どこかで諦めたような寂しさを滲ませる横顔に、昔読んだ本の主人公が重なった。

「……小学生のときさ、読書感想文ってあったじゃん」
「うん」
「一年生のときに、100万回生きたねこって本を読んだの」
「俺も、読んだことあるかも」

100万回生きて、100万回死んだねこ。いろんな飼い主に飼われて、ねこが死ぬたび、飼い主たちは涙を流す。だが、ねこは飼い主たちのことが嫌いだった。100万回目に、ねこは初めて野良ねことして生きた。そのときには、ねこはもう自分のことしか好きではなかった。100万回も死んで100万回も生きたねこをめすねこたちは尊敬したし、およめさんになりたがったけれど、ねこは自分以外の誰のことも好きではない。でも、その中に唯一、自分に関心を持ってくれない美しい白ねこがいた。ねこはその白ねこに100万回も死んだことをアピールするが響かない。最後に自慢することをやめて『そばにいてもいいかい』というねこに、白ねこは頷く。そして二匹でたくさんの子供を産んで、幸せに暮らすのだが、白ねこが寿命を迎えて死んでしまう。ねこは夜も朝も次の夜も朝も泣き続け、白ねこの隣で冷たくなる。その後、ねこはもう二度と生き返ることはない。そういう話だった。

「あれは、私悲しいお話だと思ってたんだけど」

ずっと生き返り続けたのに、最後に白ねこを失って、自分も泣き続けて死んでしまう。生き返ることもない。100万回も生きたのに。当時の小学一年生には、その結末は悲しすぎた。だが、今思い返すと、その結末は愛のあるものに思えてくる。

「本当に愛するということを知って、生き返ることをやめた猫はきっと幸せだったんだよね」

きっと生き返っても、ねこは白ねこがいないことに絶望してしまう。それにきっと、100万回の生の中で知ることのなかった、他者を愛する気持ち、愛するものが失くなって涙する気持ちを知ることができた。それだけで、きっとあのねこは満足だったのだ。及川はまだ見つけていない。だから女の子から向けられるたくさんの好意を信じることができない。なかには及川のことを、本気で好きな女の子もたくさんいるんだろう。いつか及川にも、美しい白ねこが現れるんだろう。そう考えて、痛む胸の内には知らないふりをして笑う。

「いつか及川の白ねこが見つかるといいね」

美しくもなければ、さして秀でたところもない、ねこでいうなら雑種の野良ねこ。及川のような神様にえこひいきされた人間の隣に並ぶには、あまりに分不相応だ。もっと美人で、もっと優しくて、もっと頭のいい女性。そういう人が、きっと相応しい。及川は何か言い淀んで、さみしそうに笑った。どうしてそんな顔をするのか、私にはわからない。

「……俺は、もうとっくに白ねこ見つけてんだよね」

言い淀んだ先の言葉を、及川が呼吸とともに吐き出した。白ねこ。及川の。誰のものにもならない及川が、誰かのものになってしまう。大事に思える子が見つかればいいね、なんて綺麗事を言いながら、そんなのちっとも望んでいない醜い心が傷つく。及川に大切な子ができたら。ずっと覚悟していたのに、泣いてしまうかもしれない。そう思っていたのに、及川がひどく真剣な目をこちらに向けるから。その先の言葉を、期待してしまう。

、そばにいて、いいかい」

寄せられた及川の肩が触れる。夏服。薄いシャツ越しの体温。屋上を風が吹き抜ける。赤く染まる及川の向こうに見える空は、海と同じくらい青かった。





(2015/6/12)