エンディングは変わらない




控えセッターに選ばれたとき、矢巾の胸に真っ先に宿ったのは努力が実った嬉しさでも、ベンチ入りした誇らしさでもなく、漠然と肩に圧し掛かる責任と、足元に纏わりつくような不安だった。正セッターは、一つ上の三年生。彼が引退すればほぼ確実に、来年の正セッターは自分になる。決まってはいない。もしかしたら、来年物凄い天才セッターが入ってきて、正セッターの座を奪い取っていくかもしれない。決まってはいないけれど。先を、未来を想像したときに、彼の代わりにコートに立つ自分を思うと、控えセッターという今の立場を、手放しには喜べなかった。
彼女はどうなのだろうか。同じ時期に控えセッターになった女子バレー部の同級生のことを考える。

「矢巾、これ。矢巾の番だよ」

朝一番。練習の前に落ち合った体育館の裏で、差し出されたノートを受け取る。彼女はどうなのだろうか。考える。矢巾と同じように、漠然とした不安を抱えているのか。そして、考えても意味のないことが、頭を巡る。彼の代わりに矢巾がコートに立つ未来を、彼女は望んでいるのだろうか。

はクラスメイト、ではない。高校で初めて出会ったが、クラスは同じになったことがない。矢巾との接点は同じ控えセッターであるという、ただそれだけだった。はずだった。矢巾は手の中にあるこのキャンパスノートを見つめる。五冊セットのそれは青色と赤色を使い切って、現在は水色。このノートを、二人は交換日誌と名付けた。あくまで交換日記ではなく、交換日誌。小学生ではなく高校生のやり取りなのだから、日記ではなく日誌の方がかっこいい。それに内容も、今日の出来事や愚痴ではない。まあ、たまには愚痴や弱音も入ったりするけれど。誰かに見られたとして困る内容でもないのだが、矢巾は周りに誰もいないのを確認してキャンパスノートを開き、新しく書かれたページの、最初の行をなぞる。

――いつもより少し高めのセットアップ。先輩ほどではないけど、今日は前より上手くいった。いつもは手首のスナップだけで上げてたみたい。矢巾の言う通り、膝を落としたら良くなった。時間差のタイミングがどうしても合わない。

以下、続くのは女子高生の話題にありがちな恋の悩みでも、好きなドラマの話でもなく、別に誰かに見られたって構わないくらい、ひたすらバレーのこと。上手くいったこと、いかなかったこと、考えている打開策、次の練習試合で当たる敵校のデータとそれに対しての作戦。どうしたらいいと思うか、と矢巾に聞いているようでいて、その実、彼女の求めている解答は別のところにある。丁寧に一文字一文字なぞった文章の、最後の一行に目を留めて、矢巾は眉を顰めた。

――どうしたら及川さんみたいになれるんだろ。

弱音に似た言葉。それとよく似たことを、矢巾もしょっちゅう口にした。男子バレー部の、矢巾の一つ上の正セッターを称するには、まさしく天才という言葉が相応しい。勿論、それが血の滲むような努力に裏打ちされたものだとはわかっているけれど。自分が同じくらいに練習したって、彼と同じようになれるとはこれっぽっちも思えない。春高が終われば引退して、来年には控えの自分が正セッターになるだろう。だが、彼の後釜など、矢巾には気が重かった。比べるなと言う方が無理。どうしたって、前の年の青城と比べられるだろうし、その最たる違いはセッターだと誰もが口にするだろう。気にするなと言われたって、気になるに決まっている。何より矢巾自身が、自分と及川を比べてしまう。どうしたら及川みたいになれるのか。そんなことが分かれば、矢巾も悩んでなどいない。技術も、経験も、度胸も、チームメイトからの信頼も、ついでに顔面偏差値も。どれを取っても彼に勝るものはない。どうしたら、及川さんみたいになれるんだろ。この交換日誌のそもそもの始まりは、矢巾のその言葉だった。

「は〜あ、どうしたら及川さんみたいになれるんだろ」

矢巾が控えセッターに選ばれてからは結構な日数が経った、ある日の部活後。矢巾は体育館の裏の水飲み場で膝を抱えていた。別に、及川や岩泉のように昔から本気でバレーを続けていたわけじゃない。強豪校の練習に音を上げることも度々あった。ただ中学時代からなんとなく続けてバレー部を選んで、ここまでなんとなく先輩たちの背に追い縋ってきてしまっただけのこと。矢巾自身には、さして野心があったわけではない。天才及川を差し置いてまで、自分が試合に出たいとも思っていなかった。控えのうちはいい。だが、彼が引退してしまったら。その後にポジションを引き継ぐプレッシャーに、早くも押し潰されそうだった。矢巾が大きく溜息を吐くと同時に、砂を踏む音が聞こえて振り返ると、そこにはいかにも気まずそうな顔で、女子バレー部の同級生が立っていた。同じクラスになったことはないが、流石にバレー部の同級生くらいは矢巾も把握している。

「あ……」
「ごめん、聞こえちゃった……」
「あー別に」

かっこ悪い。どうやったって、及川になれるわけがないじゃないか。たまに及川の代わりにセッターとして出る練習試合で、及川さん出ないの、と落胆する女子たちの声は何よりも矢巾の耳に刺さった。代わりなんて務まらない。彼に勝てるものなんてひとつもない。そんな状態で、あんな願望を口に出すのもおこがましいなんてことは、自分が一番よくわかっている。穴があったら入りたい気分になりながら、早くどっかに行ってくれないかと思っていると、彼女は気まずそうにしながらも矢巾の方へと近付いてきた。

「矢巾って、すごいね。私なら、及川さんみたいな人が上にいたら、最初からあんなふうになるの無理だって諦めちゃうよ」
「や、別に俺もなれるとか思ってるわけじゃ」
「でも口にできるってことは、諦めてないってことでしょ」

それだけでも、すごいよ。彼女は微笑みながら、水飲み場で、先程矢巾が水を飲んだ蛇口に唇を近付けた。どくん。蛇口にかかりそうな髪の毛を指で押さえ、溢れる水に口をつける。その姿に、矢巾は瞬きも忘れて見惚れていた。ほとんど弱音のように零したかっこ悪い言葉を、彼女はすごいと言った。諦めたくない、本当は。及川ほどの選手にはなれないとしても、彼から引き継ぐ青城を、強豪から落とすようなことだけはしたくない。及川には、なれないとしても。少しでも近付くことは、諦めたくない。そんな胸の内を見透かされたようだった。大きくなる心臓の鼓動が、抱えた膝にまで伝わりそうだ。あの瞬間に、生まれて初めて、恋に落ちるという感覚を知った。喉を潤したらしい彼女が、再び顔を上げて矢巾に目を向ける。どくん。矢巾の胸は、大きく鳴って、そして。

「私も、及川さんみたいになりたいな」

一気に砕け散った。その言葉を発するときの、彼女の表情。クラスメイトの女子たちの恋バナを、いつも遠目に見ているからわかる。恋をしている、顔だった。まあ、そうなるだろう。わかっていた。及川は宮城のバレー部員にとっては憧れの的のような選手で、しかも顔立ちも整っていて、女子たちからの人気も高い。彼女が好きになっていてもおかしくはないのだ。笑えてくる。及川に近付けるようにどんなに頑張ったとしても、及川自身には決して成り得ない。だから。この恋は、どんなに頑張っても、きっと叶わない。なのに。

「なぁ、二人で、及川さんみたいになるための練習とか考えない?なんか、トスとか、あの人なりのコツがあんのかも。そういうの、教えてもらってさ」
「や、やりたい!」

矢巾の口は、自分でも驚くほどスラスラと動いていた。初めて喋った彼女との接点を逃さないように。それは思いつきで口にした割りには、名案に思えた。比べられることからも、彼の後を引き継ぐプレッシャーからも逃げ出したいくせに、諦めることもできやしない。自分のことながら、全く難儀な性格をしている。諦めたくない。そこにほんの少しも、可能性がないとしても。たとえ彼女が見据えているのが、勝ち目のない相手だとしても。

「及川さん」
「んー?何?」
「時間差って、なんかコツとかあります?タイミングとるの、難しくて」
「ああ、時間差?それだったら――」

練習後、及川に声をかければ彼は惜しむことなく矢巾にコツを教えてくれる。彼もきっと、県大会、全国大会のその後。来年の青城を見据えているのだろう。だが矢巾は知っている。北川第一で、及川は同じチームの影山に何も教えようとしなかったことを。それは、同じポジションを争うライバルと認めていればこそ。今の自分は、及川とポジションを争うことなど決して出来ないと、わかっている。彼女のためにも自分のためにも、及川の丁寧な説明を聞き漏らさないように、しっかりと頭に記憶する。そんな矢巾に、及川は満足げな顔で笑った。

「熱心だね」
「そっスかね」
「うんうん。矢巾がこんだけ熱心なら、安心して俺の後を任せられるね!」
「俺は不安ですけどね」

いつだって、不安で仕方ない。

「なぁ、、コレもっと単純な言葉で書けねーの?長々書かれてると、困ってることがよくわかんねーんだけど」
「んー、伝えたいことがあると、どうしても文章長くなっちゃって。ごめんね、短くできるようにするよ」
「よろしく。そんじゃこれ、次お前の番な」

彼女とのこの繋がりが、いつまで保つのか。県大会、目指す全国大会の、その後。この水色のノートを使い切らないうちに終わってしまうのだろうか。終わりが来るのがいつになるのか。不安でならない。どれだけ彼女の綴る言葉が長くても、矢巾はそのひとつひとつをきちんと拾う。長くても困ることはない。ただの照れ隠しだと、自分でわかっているから余計に、彼女に憎まれ口を叩いた後は後悔に襲われる。及川ならこんなことにはならない。女の子の扱いに慣れていそうな彼なら、好きな女の子が相手でも上手く話せないなんてことはないのだろう。見た目だけはチャラそう、なんて絶対に褒め言葉ではない。県大会、目指す全国大会の、その後。そこまで続くものだと思っていたその後は、思いもよらぬほど早く訪れた。県大会準決勝。及川も岩泉も、他の先輩たちも絶好調だった。同じ学年の渡や京谷も。ベンチで試合を見つめることしかできなかったけれど、ボールが落ちるその瞬間まで、勝つと信じていた。まだ終わらない。終われない、終わりたくない。だが、矢巾がどう思っていようと現実は容赦なく結果を突きつけてくる。負けたのだ、と。いつだって、不安で仕方なかった。彼女との繋がりがいつ終わってしまうのか。きっと、青城のコートに最後のボールが落ちた瞬間が、及川たちの引退が決まる瞬間が、そうなるのだろうとなんとなく思っていた。応援席にいる女子バレー部の集団。その中にいちばんに彼女の姿を見つけて、矢巾は慌てて彼女から目を逸らした。客席の数多の女の子たちから及川に注がれる視線に興味はなかったが、彼女がどういう顔で及川を見ているかなんて、好き好んで知りたくはない。
翌週。いつもならもっと早く会っていたはずだけれど、彼女の通りそうな道や時間を矢巾が徹底的に避けた結果、やっと出会ったのは翌週の放課後だった。職員室前の廊下に彼女を見つけて矢巾が踵を返そうとする前に、彼女が矢巾を見つけてしまった。こちらに駆け寄ってくる彼女を見つめて、矢巾は試合に負けた、あの瞬間を思い出す。二年生である自分たちのバレーはまだ終わらない。けれど、この恋に、次のチャンスは訪れない。連絡先の交換もしてない。二人の繋がりは、本当にあのノートだけ。だがもう、この話題を避けては通れないだろう。

「……及川さん、引退しちまったな」
「うん」
「あの、さ。交換日誌」
「次、矢巾だよ」

矢巾が口にするより先に、目の前に差し出された水色のノート。それを眺めて、疑問符を頭に浮かべる。どうして。これは、矢巾と彼女を繋げる唯一の手段であり、彼女にとっては自分と及川を繋げる唯一の方法だったに違いないのだ。だから、及川がいなくなったら終わってしまうものだと思っていた。なのに、どうして。

「及川さんは、もういないのに続けんの?俺、及川さんと個人的に連絡とったりはできねーよ?」
「別に及川さんに連絡とらなくてもいいでしょ?元々二人で書いてるものなんだから。及川さんみたいになりたいって言っても、及川さんになりたいわけじゃないんだし」

及川になりたいわけじゃない。そりゃあそうだろう。及川になるんじゃなく、彼女は及川に近くなりたかったのだ。きっと。近くに、行きたかった。しかし、ならば何故。頭に浮かんだ今更すぎる疑問に、矢巾は困惑した。及川のことが一方的に知れたとしても、彼に対して想いも何も伝わるはずのない、こんな面倒臭いことを、彼女は何故続けているのだろう。

「……よく、わかんねーんだけど。お前、及川さんが好きなんじゃないの?」
「なんで?誰がそんなこと言ったの?」
「いや、誰も、言ってねーけど……」

もしかして、自分は何か重大な思い違いをしているのではないか。ノートを手渡して、その場から離れていく彼女の背中を目で追いながら、矢巾は鈍った思考をフル回転させる。最初に出会ったときの、あの水飲み場。ほとんど誰も使わない、あの場所で偶然に出会った理由を。あのときの、彼女の浮かべた表情の意味を。それがもしかして、最初から全部――。唐突に過ぎったその甘やかな考えに頭が支配されていくにつれて、矢巾は喉がどんどん乾いていくような感覚に襲われた。ごくり。唾を飲み込んで、無理やりに喉を潤す。心臓が口の奥から出てきそうなほどに脈打っている。手の中のキャンパスノートに皺が寄るのにも構わず握りしめて、離れていった彼女の背を追う。

!俺、なんとも思ってないやつと、こんな面倒臭いこと続けたりしねーんだけど!お前は?」

階段を上りかけていた彼女は、矢巾の声に振り返った。踊り場の窓から傾きかけた陽が射して、逆光になった彼女の表情はよく見えない。

「……矢巾こそ、もっと単純な言葉で言えないの?」

だが、矢巾のところまで落ちてきたその拗ねたような声だけで、充分な答えだった。そうだ、やっぱり、最初から全部。二人の文字で埋まったノートと同じ。この恋は、最初から全部、二人だけのものだった。





(2016/11/28)