花を待とう




彼女を見つけたのは、高校に入学したばかりの頃。ほとんど利用者のいない図書室だった。ドアのガラスから見えた図書室の中は、本の日焼け防止のためカーテンが引かれ、窓を閉め切っているから冷房がかかっていて、明るい蛍光灯の下、本棚と本棚の間で彼女は静かにページをめくっていた。油で汚れた指とは違う白い指先が、年季の入った本を丁寧に扱う様子に、二口は目を奪われた。授業の課題用に工学の本を借りたかったのに、急にツナギのままその領域に踏み込んではいけない気がして、踵を返す。制服に着替えて戻ってきたときにも、まだ彼女はそこに立っていた。二口が図書室のドアを開ける音で、ページに落とされていた目が上がる。目の前の壁に綺麗な楷書で『図書室の利用は静かに』と書かれた紙を見つけて、二口はここへ踏み込んだことを後悔した。そして、思いの外大きな音を立ててしまったドアを睨む。冷房の音と、図書室を埋め尽くす本と、その知識の海の中でひとりぽつんと沈黙を守って本をめくる女の子。それだけで構成されていた世界の方が、きっとこの図書室に相応しかったはずだ。だが、顔を上げた彼女は、その唇と目をふるりと緩ませた。

「……いらっしゃい」

あのときからずっと、二口は鳴りやまない心臓と振り切ってしまった感情を、まだ十五歳だった心に持て余している。
二個上の先輩で図書委員長だった彼女は大抵いつも図書室にいた。図書委員になっても真面目に仕事をする者は少なく、彼女は自分の趣味もかねてほとんどの仕事を請け負っていた。利用者の少ない図書室は彼女の世界そのもので、皆が利用しないのをいいことに好きな本を入荷して、好きなように並べて、好きなように過ごしていた。だからといって、利用者がいないことを寂しく思わないわけでもなかったらしい。彼女は二口を歓迎してくれた。たとえ二口の目的が工学の本であって、彼女の趣味で揃えられた恋愛や冒険の本ではなかったとしても。さらには二口の目的がもはや本ではなくなってしまっても、彼女は何も言わなかった。

「せーんぱい、先輩!」
「あ、二口くん、来てたの」
「また夢中になってたんスか。俺に気付いてくれないの、三度目」
「最近、二口くんが静かに入ってくるから」

彼女が慈しむようにページを撫でる仕草、文字を辿る目元に落ちた睫毛の影。静かに静かに図書室に入っては、それらを存分に目に焼き付けてから、声をかける。最近の二口の行動はその繰り返しだった。相変わらずしっかりと引かれたカーテンの向こうは、もう既に夏を通り越していて、二口はひとつ歳を重ねた。未だ持て余された感情は、その心に転がったままだ。

「先輩、卒業したら、どうするんスか」
「大学行くよ。もう推薦とってるの」
「え!まじで?うちの高校から大学って、厳しいんじゃねぇの?」
「それでもまあ、行けるところはあるってことかな」

微笑んだ彼女の手にあったのは、いつもの恋愛小説ではなく、都内の大学の案内だった。次の日、成績優秀で素行も優良、何故うちの高校にいるのか不思議に思うくらいの女子生徒が、東京の大学に推薦でいく。そんなニュースが二口のクラスにも届いた。やり場のない想いは胸の内に沈んで溜まっていくばかりだ。
年末が過ぎて、三年は自由登校になった。就職が決まって部活にばかり顔を出す先輩、決まらずに暗い顔で就職支援室に向かう先輩、そして彼女はまだ図書室にいる。バレー部でも卒業式が近付いていくにつれて、例年の行事があるらしい。卒業する先輩ひとりひとりにひとつずつ花束を渡すのが恒例だから、部員ひとりにつき二百円を集められた。三年の先輩なんてほとんど絡みもなかったのに、と唇を突き出したら、鎌先にチョップを脳天に叩き込まれる。

「それでもお前が入ったこのバレー部は、去年一年、先輩たちのおかげで成り立ってたんだっつの!ほんと生意気なことばっか言いやがって」
「はいはい、わかってますよーちぇっ」

男が花束貰って何が嬉しいんだっつの。悪態は心の中だけに留めて、二口は頭をさする。それなら、彼女に花束をあげた方が余程似合うのに。部活の後、帰り道を歩きながら思う。角を曲がった先には確か花屋さんがあったはずで。別にお世話になったわけでもないのになんて、ぐるぐるといろいろなことを考え、一度角を通り過ぎて、二口は大きく溜息を吐いた。

「あーもう!」

高校生のお小遣いなんてたかが知れている。財布の残金も今日二百円を出したときに確かめた。これを買ったら今月はもう部活後の買い食いは無理だ。それでも店先でほころびかけている淡いピンクのバラの蕾に、彼女のふるりとゆるんだ唇が重なる。振り切れた感情は、もう二口の心で持て余すには大きく膨らみ過ぎていた。
卒業式を終えた三年生が、体育館から続々と溢れ出てきた。部活をやっていた生徒はそれぞれ後輩が待つ場所へ、そうでない生徒は各々で級友との別れを惜しんでいる。それらの喧騒とはかけ離れたように、図書室は輪をかけて静かだった。三年間を思い出しているのだろうか、本棚を撫ぜる彼女の指は、ことさら優しい。

先輩、」

彼女の本をなぞる慈しむような目を、指先を、彼女がいなくなっても思い出せるように記憶したはずだった。なのに、そこに彼女がいなくなることが現実味を帯びた途端、それらがまるで意味のないことのように思えてくる。どんなに鮮明に思い出したって、それはただの記憶で、彼女はそこにはいないのだ。振り向いた彼女は、やはり静かに微笑っている。

「二口くん」
「……なんとなく、先輩はずっとここにいるんだと思ってました」
「そうだねぇ。二口くん、部活の方はいいの?」
「……これ、先輩に」

頼んだときには蕾だったバラも、今朝二口が受け取りに行ったときには花を咲かせていた。

「ありがとう」

淡いピンクの花束は、やはり彼女によく似合う。似合いますよ、先輩。そう言おうとして。彼女の名前を、あとどれだけ呼ぶことができるのだろうか。それを考えた途端、声が震えた。振り切れた感情が、あふれる。

「……なんで、いなくなるんスか」
「二口くん?」
「先輩は東京で、楽しく過ごして、どうせ俺のことなんて忘れちゃうんでしょ。この図書室に置いてかれるこっちは、どうしたらいいんだよ」

図書室で、いるはずもない彼女の影を探して。こんな静かなところにたったひとり置いて行かれる気持ちなんて、置いていく彼女にはわからないだろう。

「……二口くんは、星の王子さまだね」

ふふ、と笑う彼女は慣れたように本棚の間を歩き、一冊の本を手に取った。それを二口の手に渡すと、彼女は本の表紙を撫で、まるでセリフのように言葉を紡ぐ。

「忘れないよ、私は。この図書室で、二口くんのために費やした時間を」

花束を胸に抱いて図書室から去っていく後ろ姿に、どういう意味ですか、とは聞けなかった。答えは自分で見つけなければならないと言われた気がしたから。誰もいない、誰も訪れない静かな図書室で、二口はその本の表紙をめくった。
それは、誰もいない砂漠に不時着した飛行機の操縦士である「ぼく」が出会った、ちがう星から訪れた王子の話。王子の星は小さくて、そこには三つの火山とバオバブの木と、よその星からやってきた種から花を咲かせたバラがあった。王子はバラを美しいと思い、世話をしていたが、ある日バラと喧嘩したことをきっかけに他の星へと旅をする。その旅の中で地球にたどり着いた王子はそこに群生して咲くバラの花に、自分のバラが特別でなかったことに気付き、知り合ったキツネにそのことを話した。そのキツネに、王子はいろいろなことを教わる。たとえば、仲良くなること。それは、あるものを他の同じようなものとは違う、特別なものだと考えること、あるものに対して他よりもずっと時間をかけ、なにかを見るにつけ、それをよすがに思い出すようになることだという。これを聞いた王子は、いくら他にたくさんのバラがあろうとも、自分が美しいと思い、精一杯の世話をしたバラはやはりいとおしく、自分にとって一番のバラなのだと悟る。

『きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ』

キツネの言葉は、二口の心にじわりと沁み込んでいく。

「かけがえのないもの……」

そして、キツネとの別れが近づくにつれ、別れの悲しさを前に、王子は「相手を悲しくさせるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」と口にする。それは、二口の想いそのものだった。だが、キツネはそんな王子に言うのだ。

『黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるなら、仲良くなったことは決して無駄なこと、悪いことではなかった』

この本棚と本棚の間で、彼女が撫でた本のページ。文字をなぞる、慈しむ瞳。鮮明に思い出せる。それは決して、悪いことではなかったのだろうか。ここは彼女のための世界だ。彼女は皆がここを利用しないのをいいことに、好きな本を入荷して、好きなように並べて、好きなように過ごしていたけれど。もしかしたら、この静かな図書室は、彼女の砂漠だったのかもしれない。不安になって、誰かと心を通わせる日を待っていたのかも、しれない。
そう思うと、泣きたくなった。彼女は二口をひとり置いていくけれど、それと同じだけの時間、彼女もここで、独りだったのだ。
それから二年が経った。二口が卒業する頃になっても図書室の利用者はごくわずかで、あそこはまだ、静かな砂漠だ。部活の後輩たちに花束を贈られて、黄金川が泣きながら『先輩たちのこと忘れません。伊達工の鉄壁のバレー、これからも見せつけてやりますから』と伝えてきたとき、ああ、こうして受け継がれていくのだと思った。自分たちが後輩だった頃には気付かなかったことに、ようやく気付いていく。いつだって、かんじんなことは目には見えない。男が貰って何が嬉しいんだと思っていた、似合いもしない花束も、贈られてみれば思いのほか、うれしかった。
あの頃の記憶を辿るように、二口の足は自然と図書室へと向かっていて。そうだ、まだあの図書室の空気まで鮮やかに思い出せる。あそこの本棚と本棚の間に彼女はいつも静かに立って、本を読んでいた。記憶を引っ張り出している途中で、二口は足を止めた。記憶よりも余程鮮明な光景に、目を見張る。

「二口くん、卒業おめでとう」
先輩!?なんで……」

そこには、あの頃とは違う、少しだけ歳を重ねた私服の彼女が立っていた。薄く化粧を施した、桃色の唇がほころぶ。

「私は私のバラに、責任があるから」

その手には、あのとき二口が渡したものと似たバラの花束が抱かれている。二口は、本の一節を思い出した。

『でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……』

彼女に手渡されてから何度も何度も読み返した本は、今も図書室の、一番目立つところに置いてある。

「……読みました、『星の王子さま』」
「私のメッセージ、わかってくれた?」
「アンタ、わかりにくすぎ」

話したいことが山程ある。わかりにくいメッセージの答えを、ちゃんと彼女の口から聞かなければならない。彼女は持っていたバラの花束を、二口の方へと差し出した。

「私のバラ、受け取ってくれる?」
「……俺をアンタの王子さまに昇格してくれるんなら、しょーがないから、受け取ってやります」
「……やられた」

いつも彼女にやられてばかりでは気が済まない。静かな砂漠に彼女を置いて、星に帰ったりなどしてやらない。真っ赤に染まる彼女の顔を新しくしっかりと記憶に刻んで、二口はバラの花束ごと、その小さな身体を抱きしめた。





(2015/6/2)