さよならの出来る子供




彼女はいつも自転車に乗っていた。青くて綺麗な自転車で、カゴと荷台がついていて、軽く踏み込むだけですいすいと進むそれに、いいなぁ、と二口がなんとなく零していたら、卒業したら二口にあげるよ、と笑われた。彼女が卒業してからじゃ、高校に通う間は一年しか乗れないじゃないか。まだ入学したばかりだった二口は、その一年の大きさを理解していなかった。今ならわかる。あと一年が、どれだけ遠いか。

先輩、何時の電車だっけ?」
「六時!二口なら余裕でしょ」
「でもー、今って二人乗り捕まるんじゃなかったっスか?」
「こんな早朝に警察も立ってないって〜」

早朝の街は静かだ。まだ車もほとんど通らない。歩道に響くのは、二人を乗せた自転車の車輪が軋む音と、二人の声だけ。まるで世界に二人きりのように感じる。そうであれば、よかったのに。
彼女は一個上のバレー部のマネージャーだった。工業高校の特性上、バレー部の多くが就職する中、彼女は進学という道を選んでいて、今日遠くの街へと引っ越す。彼女は、二口との約束を覚えていた。だから、卒業して二週間近く経って、わざわざ二口に連絡してきたのだ。

『自転車あげるよ』

その簡素なメールに飛びついて、二口は今ここにいる。早朝、まだ陽も出ていない町並みを、二人乗りで走っていく。空は少し明るい。しばらく走ると、結構な坂が見えてきた。駅は、その坂を超えた向こう側。これはかなり難所だ。

「せんぱーい、坂なんですけど」
「そこはさー『俺、を後ろに乗せてこの坂登るって決めてたんだ……!』とか言ってくれないと」
「俺耳をすませば観てないんスよね〜」
「わかるってことは観てんじゃん!」

あの頃は自転車二人乗りは禁止されてなかったんだなぁ、とか、高校入学したら二人乗りするのが夢だったのに、とか。くだらないことを話しながら、坂を登る。ペダルが重い。踏み込むたびに自転車がギシギシと音を立てた。よろけそうに蛇行すると彼女が楽しそうに声を上げる。完全にアトラクション感覚だ。背中に彼女の体重がかかった。

「坂きっつ!」
「がんばれ二口、あと少しだよ」
「押してくれるとかっ、ないんスか!」
「二口ならいけるいける」

映画ならここで、ヒロインが降りて背中を押してくれるというのに、彼女は楽しそうに笑うばかりで、協力は期待できそうにない。まだ寒い季節だが、二口は既に汗だくだ。くそ、と思いながら、あと三メートル先の坂の頂上を睨む。あと少し、あと少し。後ろから声が飛んでくる。ゆっくりではあるが、なんとか最後のペダルを踏み込んで、坂の頂上へと辿り着いた。朝陽がちょうど街を照らし始める時間。霧がかった街が朱色に染まる。真っ直ぐな道の先にある駅が、まるで異世界への入り口のように見える。

「うわ……」
「すごいね……」
「この光景を、に見せたかった」
「ぶっふ!そこで入れてくる?」
「ついでにプロポーズもしてやりましょうか?」

普段なら絶対言わないクサイ台詞を、冗談めかして口にする。本当に、プロポーズしてやってもいいんですよ、という言葉は喉の奥で飲み込んだ。あの映画みたいに、彼女が頷いてくれるというなら、いくらでも言ってやる。だが、遠くに行くのは男の二口ではなく彼女の方で、プロポーズしたところで、待たされるのはこちらだ。この恋を自覚してから今まで、二口はずっと生意気で可愛い後輩の枠から出ることができずにいる。二口の胸中も知らず、彼女は呑気に後ろではしゃぐ。

「二口かー二口ってどう?」
「まあまあいいんじゃないスか」

冗談みたいに笑いながら、泣きそうになった。もう、こんな冗談に見せかけた本音も気軽に交わせない。部活に行っても彼女はいなくて、この後ろの温もりではなく、主将という重責だけが二口の背中にのしかかる。ずっと、駅に辿り着かなければいいのに。そんなことが頭を過るが、自転車はちゃんと駅へと近付いている。異世界の入り口のような駅も、近くまで行けば使い慣れたいつもの駅だ。

「……駅、着きましたけど」
「うん、ありがとう」
「俺も中まで見送り行こっかな、暇だし」

部活が休みだから、帰ってもやることがないのは本当。彼女は二口の本音をわかっているのかいないのか、優しく笑うだけ。一台だけあるみどりの券売機で、乗り換えの新幹線のチケットを買う。その背中を見つめながら、もう彼女は二口の知らない街へ行ってしまうのだと、改めて実感する。新幹線で何時間か。距離にして、数百キロ。高校生には、遠すぎる。二口はボタンひとつだけ押して買った一番安い入場券を握りしめた。チケットを買い終えた彼女の大きな荷物を持ってやって、始発の電車を待つ。しばらくすると、電車が少し早く着くので、この駅で時間を見合わせるとアナウンスが流れた。その通りに、予定時刻より少し早く電車がホームへと入ってくる。

「電車きましたよ」
「うん」
「乗らないと」

彼女を遠くへと連れ去る電車。これに乗らなくても、どうせ彼女は行ってしまうのに。気付けば、躊躇いがちに二口の手から荷物を受け取ろうとする彼女の腕を掴んでいた。大きな瞳が瞬く。

「乗らないで」
「え、」
「……嘘っス。ジョーダン、ほら、先輩」

いつの間にか、口から零れ落ちた切実な本音。行かないで。まだここにいて。あと一年、待っていて。言いたいことはまだまだあったけれど、たった一言で戸惑ってしまった彼女の表情を見て、二口はまた本音を冗談で隠した。手の中の荷物を押し付けて、細い背中を押す。始発の電車は空いていて、彼女はホーム側のボックス席を一人で占領して、窓を開けた。六時。出発の時間だ。ピー、という笛の音がホームに響く。窓から覗く顔が、少しだけさみしそうに翳った。笛の音がうるさい今なら、映画の中のクサイ台詞も許される気がして、俯いた彼女に向かって、二口は叫ぶ。

先輩!俺と結婚してくれ!」
「二口!?」
「言ってみたかっただけっス!」

笑え、笑え。この最後の別れが湿っぽい思い出にならないように。二口は自分に言い聞かせて、無理やり笑顔をつくる。電車がゆっくりと動き出した。朝陽が眩しくて、彼女の顔がよく見えない。笑っていればいい。二口の最後の冗談に、全くもう、といつもの呆れた調子で、笑ってくれれば。

「二口!……ばいばい!」

少しずつ駅から離れていく窓から、大きく手が振られている。その声は少し、震えていた。

「さよなら、先輩」

呟くような声は彼女には届かないだろう。このぐしゃぐしゃの顔も、きっと彼女には見えないはずだ。ただ、彼女に負けないくらい大きく手を振る。電車が見えなくなって、通勤時間帯が近付くにつれて駅は徐々に活気を取り戻していく。その流れに逆行しながら、二口は彼女に渡されたミニキャラのキーホルダーつきの自転車の鍵を指で弄んだ。自転車置き場で鍵を差し込んだ頃、ポケットに入れてマナーモードにしっぱなしだった携帯が振動する。メール。液晶には、彼女の名前が表示されている。

『二口も会いに来てくれるなら、さっきのプロポーズ考えないこともない』

お互い、たぶん素直になるのが遅すぎたかもしれない。だが、このたった一通のメールで、これから何年でもこの町で彼女の帰りを待てる気がした。さっきよりも軽いペダルを回して、行きは苦労した坂道を下る。彼女の三年間を支えてきた自転車は、少し年季が入っているけれど、相変わらず綺麗なスカイブルー。





(2015/6/14)