嗚呼、麗しの愚者よ!




この辺りで唯一の大型ショッピングモールにある映画館には、いつも変わり映えしないラブストーリーのポスターが掲げられている。前もそんな話が放映していなかっただろうか。その前だって、その場所に貼られていたのは同じようなポスターだ。内容も大して変わりはしないに決まってる。誰が誰を好きになって、どちらかが告白をして、二人が付き合うようになるハッピーエンド。決まり切った話に金を出し続ける人間がいることが、白布には信じられない。映画だけじゃない。周りの会話だって、気付けばそんな話題が多くを占める。校内でイチャつくカップルもいる。一体どんな神経をしていれば、あんなふうに互いしか見えないような顔をして人目のある場所を歩くことができるのだろう。白布には全くもって、理解できない。きっと恋をすると知能が著しく低下するのだ。そうとしか思えなかった。だとしたら、大抵の物事は俯瞰して冷静に考えることのできる自分は、恋をすることはないのではないか。そんなことを考えていた時期が、白布にもあった。

「あーもう、わっかんない!なんで白布はこんなややこしいことが理解できるの!」
「先輩の理解力が足りないだけです。もう一度説明しますからちゃんと聞いてください。次投げ出したら俺はもう教えません」
「うう……がんばります……」

泣きそうな目をして、彼女はもう一度目の前の椅子に座り直した。二人の間に出ているのは、数学の問題。ちなみに白布のものではない。三年生の、彼女のものだ。

私立白鳥沢学園高校はスポーツ特待生が多く在籍する。一般で入ろうと思えばかなり難関の進学校でもある。一応そういった部活動がメインの特待生と、学業がメインの生徒とでクラスも分けられていたりするけれど、スポーツ特待生でも一定のラインの学力を維持しなければならない。最低限の文武両道。普通は授業を聞いていればその最低限はクリアできるはずなのだが、部活動に明け暮れる生徒ではそれすらも難しい人間がいる、というのが実情である。たとえば川西や天童のように。目の前の彼女、もその最低限にギリギリ届くか届かないかという低空飛行を続ける、白鳥沢学園陸上部のエースだ。二年生と三年生、バレー部と陸上部。在籍人数の多い白鳥沢学園で、彼女と白布の接点は驚くほどになかった。ただ、彼女の存在は知っていた。白布が一年の頃から多くの大会で入賞し、全生徒が集まる集会などでよく表彰されていたからだ。代表の一人が賞状を受け取るチーム競技のバレーと違って、個人種目のある彼女はいくつもの賞を一人占めしていた。一体どんな走りをするのだろう。あの頃白布の中にあったのは、彼女の走りに対する単なる興味だった。だがそれは、体育祭で彼女の走りを見たときに全て変わった。徒競走なんてありふれた競技だ。スタートからゴールまで百メートル。誰が一番速く走ったかを競う、単純なルール。単純だからこそ、彼女と他の違いが、ゴールで旗を持つ係をしていた白布の目に強く焼きついた。

スタートの号砲が鳴る。それが白布の鼓膜を揺らすよりも先に、彼女は動き出していたように見えた。低い重心から蹴り出されたしなやかな脚が地面を捉え、また力強く、速く、前へと進む。体幹がブレない。向かい風の抵抗もないかのように、彼女だけが真っ直ぐに突き進んでくる。ゴールテープを切るその瞬間まで、白布は息をすることも忘れて彼女の姿に見入っていた。中学生の頃、牛島のスパイクに見惚れ、憧れた、あの瞬間とよく似た気持ちに襲われる。ゴールテープを切った彼女は勢いのまま少し離れた場所までスピードを緩めて走り、ゆっくりと向きを変えて白布のところまで駆けてきた。

「……一位、おめでとうございます」

旗を彼女に手渡しながら、自然と言葉が口から零れ出ていた。彼女は一瞬虚を突かれたように目をまるくして、そして。

「ありがと!敵チームなのに祝ってくれるとは思わなかった!」

破顔とはきっとこういうことを言うのだろう、と思うくらいに、満面の笑みを浮かべて旗を受け取っていった。普段白布の周りにいるのが、一癖も二癖もある性格のチームメイトたちばかりだったせいも、多分にあるのかもしれないけれど。何の含みも裏もないその笑顔を向けられた瞬間、白布はその辺の恋愛映画なんかよりも余程あっけなく、恋に落ちてしまったのだった。
だが、日常に突然あいた落とし穴にずっぽりと落ちてしまっても、白布の日々は変わらなかった。二年生と三年生。バレー部と陸上部。在籍人数の多い白鳥沢で、彼女との接点はそもそも全くなかったのだから。つまり、この突然に舞い降りた恋の進め方も、白布には全くわからない。いつの間にか降って湧いた感情は、いつの間にか自然に消えてくれないだろうか。白布が胸の奥に居座ったまま消えてくれそうにもない想いに頭を悩ませていたとき、通りかかった職員室の前で、偶然にも彼女を見かけた。

ー!お前またこんな点数取って!いくらインターハイで活躍してても目を瞑れる限度ってのがあるからな!」
「わーん、先生ごめんなさいー!でもこれが私の精一杯なんですー!」
「ダメだ!せめて再テストで合格ライン取らなかったら試合には出せんからな!」
「やだやだやだー!そこをなんとかー!」
「合格ラインを取る努力をしろっつってんだろ!」

天童や瀬見の話にも度々出てくる、大概甘い数学教師が困り果てたような表情で彼女を見下ろしている。彼のテストはスポーツ推薦で勉強が苦手な者でも、サービス問題と直前の授業での出題ポイント学習でギリギリ合格ラインは取れると噂だった。だが、こんなところでこんな話をしているということはつまり。そんな甘いテストでさえ、彼女は合格ラインに届くことができなかったということだろうか。しかしこれは、チャンスでもある。

先輩」
「え、あれ、君はあの、旗の子!」
「白布賢二郎です」
「白布くん?」

白布は平静を装って彼女に話しかけ、その手元の答案を覗き込んだ。

「うわ、これはひどい……」
「君もそんなことを言うの……」

そこには白布が予想したよりもはるかにひどい点数がでかでかと記されている。問題を見れば、白布にもわかるようなものもかなりあった。噂に違わず、彼の作る問題はかなり甘いようだ。一体何をどうすればこんな答案になるのか理解できない。理解はできない、けれど。

「あの、もし良ければ、勉強教えましょうか」

そして、それからの昼休み。白布は彼女と共に空き教室を借りている。溺れる者は藁をも掴む。彼女は一つ下である白布の提案に一も二もなく頷いて、白布の手を掴んだ。自分の手よりも小さく細い指が、がっちりと白布の右手を両手で握り込んでいる。

「神様……!よろしくお願いします!」

後から聞けば、どうやらこの三年間で彼女は勉強に関してだけは、友人たちにも軒並み見捨てられたらしかった。それくらいにヤバイ拾い物をしてしまったことに少し後悔もしたけれど、接点のなかった彼女と毎日会う口実ができたことの方が大きなプラスだ。放課後は二人とも部活があるため、毎日昼休みに集まって、昼ご飯を食べながら彼女のわからないところを白布が解説し、その問題を彼女は家で復習する、という形式だ。白布だって、彼女が好きでなければとっくに見捨てている。だが、なかなか理解することができなかった問題も、回を重ねるごとに少しずつ理解できるようになってきた。そのときの彼女の満面の笑みが、白布が面倒臭くてもこの時間を手放すことができない理由の一つ。

「白布!わかったよ、この問題!」
「わかってもらわないと困ります。何のために説明してると思ってるんですか」
「その点に関しては大変申し訳なく……」

パッと輝くような笑顔が、一瞬で引っ込む。しまった、もう少し褒めてやってから憎まれ口を叩けばよかった。自分の行動も心も思うようにはいかない。机に突っ伏すように投げ出された彼女の腕は、少し日に焼けている。

「でもなんで三年の問題もわかるのー。白布頭良すぎでしょ」
「先輩の頭が悪すぎなんですよ」
「否定できない」

不貞腐れたような表情だが、気に病んだ様子はない。彼女にとって頭の悪さは、二年生である白布に馬鹿にされても構わないくらいのもので、然程深刻な問題ではないのだ。いや、深刻になってほしいくらいのレベルではあるのだが。彼女が最も重きを置いているのは、彼女の走り。それ以外にはない。それこそ、牛島のバレーに対する姿勢と同じものを感じるほど、彼女は彼女の走りにプライドを持っている。そういうところも、白布にとっては好ましかった。

「あ、男子が雑誌置いていってる」
「勉強」
「ちょっと息抜き!ね、白布はどの子がタイプ?」

突っ伏したときに前の机の中が見えたのか、彼女はそれを引っ張り出して白布に見せる。そのアイドル雑誌の見開きで笑っているたくさんの顔の誰よりも、それを持っている彼女がいい。そんなこと、言えやしないけれど。

「……その中にはいません」
「え、まじで?もしかしてめっちゃ理想高い?この子とか可愛いじゃん、最近よく恋愛映画とかドラマのヒロインやってるし」
「先輩、恋愛映画とか見るんですか」
「うん、好きだよ。ああいうトキメキって普通ないじゃん?いつかあんな恋したいなーって」
「ふぅん……」

馬鹿馬鹿しい。あんな、画面の向こうのわかりきった筋立ての作り物に魅かれるなんて馬鹿げている。そんなものに金を出す神経は理解できない、はずだった。
珍しく練習がオフになった休日、白布はこの辺りで唯一の映画館に足を運んでいた。公開終了間際のその映画に足を運ぶ者は少なくて、白布が一人で入ったところでさして目立たなかったのが救いだ。映画館の一番後ろの列の椅子に深く座り込んで、白布は前方のスクリーンを半ば睨みつけるように九十分を耐えた。他人の恋愛ごとをこうして蚊帳の外から見つめるのは一種の気恥ずかしさが付き纏う。映画の中で二人っきりで勉強をし、ふと顔が近くなった瞬間、お互いを意識する二人。状況は白布とも同じようなものなのに、彼女と過ごした時間の中にはなかった出来事だ。一方的に、白布ばかりが意識させられていた。極め付けは、ヒーローがヒロインに壁ドンして囁く台詞。そんな口から砂糖を吐き出してしまいそうな言葉、誰がどんなタイミングで言うってんだ。彼女にその台詞を吐く自分を想像してしまい、背筋に怖気が走った。目を逸らし、耳を塞ぎ、映画館から走り出してしまいそうになるのを制して、白布は疲労感たっぷりの表情でエンドロールが流れるのを見つめた。誰が誰を好きになって、どちらかが告白をして、二人が付き合うようになるハッピーエンド。今回の映画も例に違わずそんなストーリーだった。決まり切った話。だが、だからこそ人は安心して話を見守ることができるのかもしれない。たとえば白布が彼女に告白したとして、それに対して彼女がどういう返答をするのかわからない。白布から見る牛島若利がバレーにしか興味がないように、も走ることにしか興味がないように見える。恋愛を憧れと称して、白布が逃げ出したくなるようなクサイ台詞連発の映画を楽しんで観ることができるのだから、彼女は恋愛を自分とは別世界のものと思い込んでいる可能性は充分にある。そして、彼女が『全然そんな対象だと思っていなかった』と、白布を一刀両断する姿も目に浮かぶようだった。バレーの試合中だって滅多なことでは折れない心が折れそうになる。惚れた者負けとはよく言ったものだ。こちらから動かなければ何も進展しない上、彼女の返答次第ではそれは進展どころか後退、いや試合終了に繋がる一手となってしまう。彼女はたった一言で、白布に致命傷を与えることだってできるのだ。

「白布!合格点取れたよ!ありがとう!」

翌日、何も知らないような笑顔を振りまいて駆け寄ってくる彼女に白布は溜息を吐きたくなった。

「私白布と勉強したおかげでかなり賢くなったかも!」
「俺は先輩と一緒にいたせいで、かなり馬鹿になりました」
「え!?どういうこと!?」

全く興味のなかったはずの恋愛映画に金を払ったり、意味のない『もしも』を想像しては一喜一憂してみたり。大抵の物事は俯瞰して冷静に考えることのできるはずの白布賢二郎にあるまじき行動ばかりだ。ちょうど彼女と鉢合わせたのが人通りの少ない階段の踊り場ということもあって、白布は壁際にいた彼女の顔の横に手をついてみた。彼女は若干不思議そうな表情をしているが、白布の意図に気付いた様子はない。やっぱりこの人は馬鹿だ。

「先輩の言ってた恋愛映画、どういうところがよかったんですか?」
「えっ?……二人が一緒に勉強してて、いつの間にか顔が近くなっちゃうシーンとか、ヒロインが壁ドンされちゃうところとか?」
「へぇ、そういうトキメキ、普段ないんですか」
「えーないでしょー」
「アンタほど救いようのない馬鹿初めて見ました」
「ひどい!」

これまでの時間で全く意識されていなかったのだから、前者については気付かなくても仕方ないにしても。今まさに自分がされていることに気付かないのは如何なものだろうか。それとも、白布ではトキメキには成り得ないと、そういうことかもしれない。既に若干の傷を受けながら、白布はさらに彼女に詰め寄った。

「先輩の理解力が足りてないから、もう一度説明します。これで理解できなかったら、俺はもうアンタのことなんて知りません」

知りません、なんて言っておいて、きっとこれからも彼女を目で追ってしまうだろうけど。突き放すような言葉を選んでおいて、この場合突き放されるのは白布の方になるのだけど。そんな言葉の意味なんて、彼女にわかるはずもなければ、白布に考える余裕もない。

「この二週間、俺とアンタは何をしてましたか」
「一緒に勉強?」
「俺のこの体勢は何て言います?」
「体勢……あ、壁、ドン……」

言葉にして初めて気付いたらしい彼女は、みるみる頬を赤く染め、両手で顔を覆った。おそらく、自分も似たようなことになってしまっているだろう。けれど彼女から目を逸らす訳にもいかなくて、熱を持つ顔をそのままに、白布は言葉を続けた。映画のように、砂を吐くような甘い台詞は決して言えやしない。でも。

「それを踏まえて、何か思うところはありますか?先輩?」

校内や街中で、互いしか見えないような顔をしてイチャついているカップルは一体どんな神経をしているのかと思っていたはずだった。だが今白布の目には、彼女の姿しか見えていない。人通りが少ないとは言え、この廊下だって、いつ誰が通るかわからないというのに。きっと恋をすると著しく知能が低下するのだ。だからこうして、自分でも理解できない行動をしてしまうんだろう。

「ず、ずっる……」
「俺は負けず嫌いなので。惚れた者負けなんて、絶対嫌ですから」

やっぱり、俺も大概馬鹿だ。首元まで真っ赤に染まった彼女を見て、白布は満足げに唇の端を吊り上げた。





(2016/8/20)