扇風機と裸足の午後




茹だるような暑さというのはこういうことを言うのだろう。エアコンが壊れて修理の人が来るまであと丸一日。文明の利器に頼りっぱなしの身体は既に悲鳴を上げていて、なんとか押入れの奥にしまった扇風機を掘り出した頃には、タンクトップが背中に張り付いてしまっていた。首の後ろに張り付く感覚が気持ち悪くて、長い髪はひとつに括り、綿の短パンに素足で部屋を歩き回る。出掛ける用事もない夏休みの平日。共働きの親も夜まで帰ってこない。一階の縁側の窓を開け放ち、その近くのコンセントにプラグを差し込む。スイッチひとつで、ようやく空気が動き始めた。

「あ〜涼しい〜」

少し埃っぽいが、風があるだけで随分と違う。縁側に寝そべって、足で扇風機の向きを調整する。親がいれば、不用なことをするなと怒られるだろうが、今はそんなことで叱ってくる人もいない。昼に起きてきて怠惰な生活を送っても、このまま昼寝したって、誰にも咎められない。退屈ではあるけれど、ある意味天国だ。風を感じながら寝そべってうとうとしていると、生垣の向こうに、ひょこひょこと移動する癖っ毛が見える。夏の陽射しを浴びて青々と輝き、結構な高さに育ったその生垣の、さらに上に頭が見えるような人物は限られている。

「松川ぁ?」
「ん?あ?誰か呼んだ?」

やはりそうだ。中学まで同じだった松川一静。あの頃も背が高かったが、この様子だとまだ成長しているらしい。松川とは家も近かったから、小学校も幼稚園も一緒だった。普通なら幼馴染と言っても差し支えないくらいだ。けれど、松川とは二回同じクラスになったことがあるくらいで、特別仲が良かったわけでもない。

「こっちこっち、生垣の方!」
「んー?あ、?」
「そうそう!よく覚えてたね」

おそらく表札を見たのだろう、松川が名前を呼ぶ。その声で三年ぶりに呼ばれた名前は、馴染みがなくてくすぐったい。門の方に回って躊躇いがちに覗き込んだ松川が、こちらを見つけて破顔した。

「お前すっげーカッコ」
「いいじゃん、暑いし、出掛ける予定もないんだもん。松川は、部活帰り?」
「うん、まあな」
「あ、ねぇ、上がっていきなよ。お茶くらい出すし、冷蔵庫にスイカがあるんだ」
「まじで?いいの?」
「いいよー、入って入って。そんで、ちょっと待ってて」

松川は部活帰りのジャージのままで、エナメルのバックを肩に下げている。バレー部で高い背を存分に活かしていたはずだ。今もバレーを続けているのだろう。大きくなったガタイで目の前に立たれるとものすごい威圧感だ。ネットを挟んだら、きっともっとすごいんだろうな。見ることのない試合の光景を思い描きながら、遠慮がちに縁側の端に腰掛けた松川に扇風機を向ける。ふーっ、とひと息つく表情は高校生とは思えない。居酒屋でネクタイを緩めるサラリーマンみたいだと一人で笑いつつ、冷蔵庫からスイカを取り出した。親戚にお中元で貰ったスイカ。夏休みに入ってからずっと、おやつは母親が切ってくれたこのスイカだ。そろそろ食べ飽きる。綺麗に切られて、皿に並べられラップをかけられているそれとコップに注いだ麦茶をお盆にのせて運びながら、縁側に腰掛ける松川の後ろ姿になんだか心が弾んだ。このままずっとその光景を見ていたいような気分になる。

「松川、スイカ」
「お、サンキュー」

二人の間にスイカと麦茶を置いて、縁側に素足を投げ出す。松川は麦茶を一気に半分まで飲み干すと、スイカを手に取る。

「なんかさー、中学の頃思い出すよね」
「んー?」
「ほら、二人で廊下で正座させられたじゃん。二人だけ、夏休みの課題忘れてきちゃってさ」

松川とはさして接点があったわけではなかった。用事があったり、席が近くなれば普通に喋るクラスメイト。唯一の思い出といえば、夏休みの数学の課題を忘れて、二人で廊下に出されて正座させられたことくらいだ。先生の授業を壁の向こう側に聞きながら、二人で静かな声でこっそりと、夏休みの話やバレーの話やくだらない笑い話なんかをした。バレーは室内競技だからサッカー部や野球部ほどではないけれど、松川も夏の間にうっすらと日に焼けていて、エアコンのない廊下で滲んできた汗が男なのに妙に色っぽかったことを覚えている。内緒話をするみたいに顔を近付けるたび、胸が高鳴った。あのときは授業が終わることを残念に思ったものだ。チャイムが鳴って、二人して足が痺れて立ち上がれなかったことを思い出す。

「ああ、あったなー」

松川もあっという間に食べ終わったスイカの皮を置いて、あの頃を思い出したのか苦笑する。

「今回はちゃんとやってんの?」
「んー、まあ、ぼちぼち?」
「ふはっ、なんだそりゃ。まあ俺も似たよーなもんだけど」

二切れ目のスイカに手を伸ばす松川の横顔はやはりあの頃と同じで少し焼けていて、ユニフォームの腕の境目がうっすらとわかる。二人に交互にあたる扇風機の風が、松川の癖っ毛を揺らす。それでも暑くて額に滲んでくる汗が、やっぱり色っぽかった。あの頃よりも、ずっと。

「松川、彼女とかできた?」
「できねぇよ、部活ばっか」
「そっか」
「そういうは?」
「できてたら夏休みは彼氏とデートしてるよ」
「そりゃそうだ」

そうか、彼女はいないのか。そんな言葉ばかりしっかりと頭に刻んで、何故かホッとする。この三年間、松川のことなんて忘れていたくせに。夏の暑さのせいだろうか。時折吹き抜ける扇風機の風の心地よさのせいだろうか。それとも、三年前よりもさらに色気を増して現れた松川のせいだろうか。ろくに家から出ていないために生白い足を松川の足と並べるとよくわかる。日に焼けて健康的な小麦色。足の指で捲られたジャージから伸びたふくらはぎを辿れば、筋肉が足を押し返してくる。中学の頃よりもずっとたくましくなったこの脚で跳躍して、ボールを捉えて、敵の攻撃をブロックして、あのちいさくておおきなコートの中で、汗を流しているのだろうか。

「…なにしてんの」

松川の声が、少し変わった。困ったように下がった眉。その目元が、赤く染まる。

「松川の脚たくましいねー」
「まあ、鍛えてるし。ていうかあんま、そういうことすんなって」
「えーケチー」

なんでもないような声で文句を言いながら足を引っ込める。本当はもっと、ちゃんと触れたい。その脚にも、腕にも、首筋にも。だけどこうして、ふざけたように触れることさえ許してもらえない。スイカをたいらげて麦茶を飲み干して、松川が立ち上がる。

「スイカ、ご馳走さん」
「松川、怒ってる?」
「怒ってねーよ」

そう言うけれど、松川の表情は固い。やはり勝手に触れたことを怒っているのだ。三年ぶりに会った友人に相応しい距離感ではなかった。松川はこのまま帰ってしまって、高校が違うからまた会うこともない生活が始まるのだろう。儚いときめきだった。どこかで蝉が鳴いている。土に潜っていた三年前の気持ちが羽化してしまった。けれどこの気持ちは、鳴き声をあげる前に消えてしまうのだ、きっと。松川は立ち上がってから目を泳がせる。何か言おうとしているのか、さっきから口を開いては閉じてを繰り返している。そして、扇風機の風が二人の間を三往復した頃、ようやく彼の口が言葉を紡いだ。

「お前さ、夏休みずっと暇なの」
「え?うん」
「来週の月曜も?」
「うん。それがどうかした?」

来週の月曜と言わず、ほとんど暇だ。たまに高校の友人と遊ぶ約束があるくらいで、皆家族と旅行に行ったり部活やバイトに精を出したりしている。そのどれにも当てはまらないために、退屈で贅沢な時間の使い方をしているのだが、これほど暇ならバイトのひとつでもすればよかったと思う。松川はまた言葉を探すように何もない庭に目を泳がせた。

「課題、一緒にやらねぇ?」

課題。そうだ、それがあった。夏休みに入ってから少しだけ目を通したっきり、机の上で漫画本の束に埋れているけれど。

「でも、松川と私の高校、課題違うでしょ?同じ高校の人とやった方がいいんじゃない?」
「あー……うん、そうね……いや、違くて」

習っている範囲は似たり寄ったりだろうから同じような問題ではあるだろうが、同じ高校の人間とやれば課題を半分ずつ終わらせて写すこともできる。こちらに至っては、完全に真面目な友人に頼る心算だった。松川はなんだか煮え切らないような返事とともに息を吐き出す。ずっと逸らされていた目がここにきて向けられて、心臓がひとつ、大きく跳ねた。

「高校離れてから全然会ってなかったし、こういうの、おかしいかもしんねぇけど……中学んときは気が合うと思ってて、今日会ってやっぱそう思ったし、俺も中学の頃のクラスメイトの名前とかそんな覚えてねぇし、そんで、なんつーか、つまり……」

一気に言葉を重ねながら徐々に小さくなる声。それに反比例するように、普段ろくに運動もしてない心臓が、全速力で走った後みたいに大きく速く、音を刻む。まだ陽が高い。蝉も元気に鳴いている。茹だるほどの暑さ。だが、それとは違う熱が、顔に集まっていく。

「……会いたいって、言ってんだけど」

言葉の続きに期待した耳は、扇風機の風の音に掻き消されそうな声もしっかりと拾う。このまま消えるのだと思っていた想いが、今、大きく鳴き声を上げた。





(2015/7/29)