箱舟定員オーバー




朝は気持ちよく晴れていた。青空がどこまでも続いていて、からりとした空気が心地よい。まさかそれが学校からの帰り際になって、こんなことになるなんて、普通思わないではないか。真っ暗な空に湿っぽい空気、真上からザーザーと切れ間なく降り注ぐ雨。梅雨という時期はこういうこともありうる可能性を忘れ、ついでにお天気お姉さんが言っていた「午後から天気が崩れる地域もあります」の言葉を都合良く解釈した自分が悪いのだ。こんなに気持ち良い天気なのだから、この辺は絶対に降らないだろうという謎の確信のもと、傘を持ってこなかったのが間違いだった。どうやら、天気予報ではこの地域はばっちり、午後から雨のマークだったらしい。クラスメイトはほとんど皆傘を持ってきていた。誰か家の近い人に入れてもらえばよかったのに、こういう日に限って先生に呼び出され、終わってみれば友達は皆帰っていて、雨は勢力を増していた。もう少ししたら弱くなったりしないかな。そう期待して三十分以上が経つけれど、雨が勢いを弱める気配はない。これは、このまま突っ切るしか道はないのか。もたれかかった靴箱からようやく体を起こして、覚悟を決めた。

?どうしたの?」
「赤葦?」

もうかなり、遅い時間だ。昇降口に現れる生徒はほとんどいなかった。そこに現れたのは、一年のときのクラスメイトで、彼の手にはしっかりと黒い傘が握られている。最後の救世主だ。

「傘忘れたの?」
「うん……バカでしょ」
「まあ朝晴れてたしね。入っていく?も駅でしょ?」
「あ、赤葦様……!ありがとう!」
「ふっ、面白いなぁ、相変わらず」

赤葦が開いた黒い傘に、ありがたく入れてもらう。勢いを弱めることなく降りしきる雨。雨音がうるさくて、他の音が聞こえない。まるで世界がここだけで切り取られてしまったように、二人の声だけが傘の中に響く。

「赤葦は何してたの、こんな遅い時間まで」

聞いてから、愚問だったと思った。赤葦はジャージを着ているのだから、部活に出ていたに決まっている。

「バレーだよ、木兎さんって知ってる?」
「うん。あのバレー部のエースの人でしょ?」

いつでもエネルギッシュでパワフルな、全国区のバレー部エースは学校でも有名な存在だった。体育祭のシーズンになると学校中から注目される運動神経の持ち主。去年の体育祭で初めて見たが、出られる限りの競技に出尽くして、一位の旗をかっさらっていくその姿は印象的だった。

「そうそう。木兎さんの練習に付き合ってると、いつもこんな時間だよ」
「そうなの!?やっぱり強い人って、たくさん練習してるんだね……」
「うーん、どうだろ。木兎さんは単にバレーが楽しいんだと思うけど……俺はまだまだ木兎さんには及ばないから俺の練習に付き合ってくれてるんじゃない」

そう言って、赤葦は少し悔しそうな顔で傘の柄をギュッと握った。一年の頃を思い出す。赤葦はバレー部に入っていて、良いセッターが入ったと騒がれていた。自主練習にも積極的に参加して、二年に上がる前に正セッターになったと聞いている。赤葦は努力の人だ。その位置に辿り着くまでに努力を惜しまない。その位置についてもまだ、妥協せずに上を目指している。木兎さんも随分とバレー馬鹿だとは聞いているけれど、赤葦だって、充分なバレー馬鹿だ。バレーが好きだからこそ、ここまで夢中になって頑張ることができるのだろう。そしてやっぱり、遠い人だなぁと思う。ひとつの傘に入って、こんなに距離が近いのに、見据える場所が全然違う。さっきから横をちらちらと見やっても、目に映るのは赤葦の横顔ばかりで。こっちだけが意識しているのは、もう充分にわかっているのだけれど。

「……雨、強いね」
「ほんと、こんなに降ってるのに、練習してたら全然気付かなかった」

体育館なら、雨が屋根を叩きつける音はかなり響くだろう。それにも気付かないほど、一生懸命練習していたのだ。バレーの授業で見た、トスを上げる赤葦の姿を思い浮かべる。きっと、あれよりもずっと、真剣な眼差しで、正確なトスの練習をしていたのだ。その姿を、見てみたかった。それにしても、練習終わりはいつもジャージのまま帰るのだろうか。それとも、今日が雨だから、制服を濡らさないためだろうか。ちらりと赤葦の横顔を伺っても、その表情からは何も読み取れなかった。

「駅もうすぐだね。の家は、駅から遠いの?」
「歩いて10分くらいかなぁ」
「じゃあこれ、使って」
「え!?いいよ、悪いよ」
「俺の家、駅から近いから。それに今日ジャージだし。ね?」

赤葦が示したのは手に持っている黒い傘だった。この雨足では駅から近くてもどう考えたって濡れてしまう。遠慮したものの、駅に着くと無理矢理押し付けられてしまった。改札を過ぎて、赤葦は反対側のホームへと向かう。

「じゃあ俺、こっちだから」
「っ、赤葦!ありがとう!」
「……うん」

駅にはもう、学生よりもスーツを着た社会人が多い。その中で、梟谷のジャージはよく目立った。階段を上る赤葦の背中を見ながら、片側だけジャージの色が変わっていることに気付く。あ、と思った。あんなにひどい雨なのに、この制服はほとんど濡れることはなかった。この黒い傘に、二人は最初から入りきらなかったのだ。そんな素振りはちっとも見せなかった赤葦の優しさに、また顔が熱くなる。その日は、大事に大事に持ち帰った黒い傘を見るたびに、胸の奥があたたかくなった。

次の日、またからりと晴れた青空の下、黒い傘を持って通学路を歩く。今日はお天気お姉さんも快晴と言っていたから、傘を持っている人はほとんどいない。その中で傘を両手で大事に持っていたらすれ違う人には訝しげな目で見られたけれど、それすらも気にならなかった。行きのコンビニで、昨日のお礼に新作のお菓子を買って。教室に向かう廊下の途中で、赤葦の背中を見つける。おそらく朝練終わりなのだろう。まだ朝なのに、既にシャツが少しよれている。それがなんだか、男の子だなぁという感じがした。赤葦が、こちらに気付いて小さく微笑む。

「赤葦、昨日は傘、ありがとう」
「そんなすぐに持って来なくてもよかったのに」
「そんなわけにはいかないよー。すっごく助かったし……」

お礼のコンビニのお菓子を渡そうとしたときに、けたたましい足音が後ろから迫ってきた。赤葦が、なんだかまずい、という顔をする。腕を引かれて、廊下の隅に押され、いつの間にか赤葦の背中が前にあった。鍛え上げられた、大きくてたくましい背中。それは確かに、傘に二人で入るのは無理だったろう。悟られないくらい自然に傾けられていた傘と、片方だけ濡れた背中を思い出して、また顔に熱が集まる。けたたましい足音は赤葦の前で止まった。どうやら相手は木兎さんのようだ。

「赤葦!昨日はなんで自主練の途中で急に帰っちゃったわけ!制服も置きっぱで俺慌てたじゃん!朝練のときもだんまりだし!」
「っ、木兎さん!」

え。思わず固まって、赤葦の背中を凝視してしまう。昨日は練習は、終わったのではなかったのだろうか。赤葦の荷物が、心なしか少ないような気はしたけれど。表情はわからないけれど、赤葦はひどく慌てた様子で木兎さんに詰め寄る。一体どういうことなのか把握しきれなくて、二人の様子を眺めることしかできない。

「え?なになに」
「一応、帰るときにメールは入れたでしょう。あとは部活のときに話しますから、黙ってください」
「え、なに赤葦顔こわい」

若干引き気味の木兎さんの背中を強引に押して帰らせると、赤葦はようやくこちらを向いた。その顔は、少し赤い。

「……聞いた、よね」
「え、うん、まあ……」
「遅くなると閉まるかもしれないから、一旦教室に置いてた傘を取りに戻ったときにが見えて……自主練の途中だったから、木兎さんには悪いと思ったんだけど」

つまり、困り果てていたかつてのクラスメイトを放っておけなくて、自主練の途中なのに一緒に帰ってくれたのか。シャツがよれているのも、昨日制服を置いて帰ったから。そう考えると赤葦の優しさに、感謝を通り越して申し訳なくなってしまった。練習、頑張らなきゃいけないんだと、言っていたのに。

「私なんか気にしなくてよかったのに……赤葦優しいから……ごめんね」
「俺は優しくないから、なんとも思ってなかったら、そんなことしないよ」

もしかして、耳が悪くなっただろうか。周りの音が、急に遠くなる。昨日の傘の中のように、赤葦の声だけが頭に響く。困ったように頬を染めた赤葦が、返したはずの黒い傘を渡してきた。

「傘、が持っておいて。雨が降ったら、待っていてくれる?」

二人は入りきらないこの傘を持って、赤葦を待っていてもいいのだろうか。渡すのを忘れてしまったコンビニのお菓子と一緒に自分のクラスまで傘を持って帰りながら、早く雨が降りますようにと願う。きっともう、天気予報を見逃すことはないだろう。





(2015/6/22)