もし僕がヒーローだったら




上を見上げる。天井は高い。手を伸ばして、力の限り地面を蹴る。そうしてやっとネットの上に手が届いても、向こうに伸びた腕はその上を軽々と越え、ボールには手も届かない。ボールがコートに落ちる音が響く。悔しくても、練習を重ねても、持って生まれた体格差は縮まらない。県内で上位を占めるのは体格に恵まれ、努力も怠らないようなチームばかりだ。ならばこんな練習に意味はあるのか、なんて茂庭が思い始めた二年の初め。体育館のドアに頭が届こうかという一年生が、二人も入部してくれた。鉄壁。伊達工業の旧くからのスローガン。横断幕に刻まれたその言葉を体現するかのような、彼らはまさしく高い壁だった。鉄壁を誇る伊達工が、息を吹き返した。それは自分たちだけでは決して成し得なかった、という事実には、そっと目を瞑る。勝つことが嬉しい。皆がチームを勝利を喜んでくれる。今まで下を向いて立ち去ることしかできなかったコートに、いつまでも立ち続けられることが誇らしい。これまでは応援席へ礼をするたび、そこに座る人たちの失望と溜息を見ることが辛くて、上を向けなかった。その応援席を見上げて笑うことができる。次も応援お願いします、と言うこともできる。だが、それでも。それを自分の力で勝ち得たものとは到底思えなかった。
悔しくても、練習を重ねても、やはり持って生まれた体格差は縮まらない。当然だ。この二年で嫌というほどわかっている。今更だ。その分、同じチームにあれほどの人材が入ってくれたことを喜ぶべきだ。そうわかっている。主将として、チームの勝利を喜ぶ気持ちに嘘はない。けれど、彼らの高い壁を見るたび、羨ましいという思いも同時に込み上げる。それはもう、どうしようもなかった。小さいなぁ、と思う。背も、器も。

「要ー!」

こうして嬉しそうな声が後ろから追ってくるたびに、いつまでもこんなことを考えてしまうんだろう。振り向くと、が手を振っている。制服は伊達工のものとは違う、こんな田舎では珍しいオシャレなものだ。茂庭にはわからないが、有名なデザイナーが手掛けたらしい、というのは目の前に立っている彼女から聞いていた。の目は、本当に嬉しそうに輝いている。

「勝ったね!おめでとう!」
「ああ。あいつらのお陰だけどね」
「またそう言う!要だって頑張ってたじゃん!」

バシバシと肩を叩かれるのに軽く文句を言いながら、彼女から少し離れた。その、ほんの少しだけ、いつもと違う距離感に、は不服そうな表情を向ける。別に喧嘩をしたわけじゃない。仲が悪いわけでもない。茂庭にとっては一番仲が良いと言っても過言じゃない。だからこそ、男ばかりのこの場所で近寄られるのは、いろいろとまずい。誤解を招くかもしれないし、何より、他の男の目に留まる。そんな気遣いも虚しく、目敏い二口は女子と親しげに話す茂庭を見かけて駆け寄ってきていた。

「茂庭さんの彼女っスか?かーわいいー」
「あはは、ありがとう!二口くんと青根くんもかっこよかったよ!」

サラッと流された言葉に、茂庭は心臓が止まりそうだった。相変わらず笑顔で、彼女はそこに立っている。探りを含んだ質問をあっさりとかわされて、彼女がいるんなら教えてくださいよ、と喚く二口と頭を下げる青根を見送って、周りの観客も徐々に少なくなった頃。茂庭はようやく口を開いた。

「……ただの幼馴染だって、言わないわけ?」
「否定しといた方がよかった?」

ただの、幼馴染。家が近所で、親同士が仲良しで、みたいな典型的なパターンで仲良くなった。いつも自己主張がはっきりしていて、身長も高くて、スポーツもできて、顔立ちも整っている彼女が前にいて、その後ろを茂庭がついて行く。身長だけは、高校に入る頃に追い抜かしたけれど、大した差はついていない。ただの幼馴染な上に、ちょっと情けない関係だ。家が近所で、親が仲良くなかったら、きっと喋りもしなかっただろう。それくらいに、彼女は茂庭とは違う。けれど偶然にも、彼女は昔っから女っ気のない茂庭の一番近くにいる女の子で、気兼ねなく話せる唯一の女友達でもあった。だから。幼馴染が、特別な女の子に変わるのは、茂庭にとって当然の流れだった。だが、彼女はそうではない、はずだ。

「俺、あいつらみたいに背も高くないし、かっこよくもないし、バレーも、俺らだけじゃ勝てないし……こんなんが彼氏って思われていいの、お前」

言ってしまってから、途端に情けなさが茂庭を襲った。自分を卑下して、最初から諦めて笑うのは、自分が傷つきたくないからだ。でも、それの何が悪いのか。情けない、悔しい、みっともない。もう少し身長があれば、もう少し顔が整っていれば、もう少し、自信になるものがあれば。自分が一番彼女の隣に相応しいと、思うこともできたのだろうか。は少しだけ唇を尖らせて、眉を顰めた。

「なんでそんなに卑屈になってるのか知らないけどさー」

茂庭の隣に並んで歩きながら、は言葉を続ける。その声は、呆れたような響きも含んでいるけれど、とても柔らかかった。

「私からしたら要だって背高いし、いつも優しいし、バレー頑張ってる姿はかっこいいよ。それに」

足が止まる。彼女の言葉の真意がわからなくて、茂庭は戸惑った。茂庭が立ち止まったことに遅れて気付いたが、数歩先で振り向く。その不貞腐れたような顔が赤く染まっているのは、夕陽のせいだけでは、ない。

「要たちが悔しくても頑張って頑張って頑張って、バレー部続けてきたから、今二口くんたちが伊達工のバレー部に入部してくれて、勝ってるんでしょ?バレーみたいなものだよ。誰かが繋いでくれないと、今はないんだから」

負け続けて悔しくても、もう立ち止まってしまおうかと思っても、部活に行かない日はなかった。あの日にバレーを手放してしまっていたら、今こうしてコートに立ち続けることができる誇らしさを味わうこともできなかった。先輩たちから茂庭たちへ、そして二口たちへ。どこかで途切れてなくなってしまったら、今の伊達工はない。自分たちだって、確かに繋いできたのだ。

「うん」

拳を握る。繋いできた。それはバレーだけではなく、彼女との関係だって、そうだ。似合わないとわかっていても、彼女を特別に思う気持ちは変わらなかった。卑屈になったとしても、彼女と距離を置くという選択肢を選ぶこともなかった。懸命に絞り出した声は、微かに震えた。情けない。けれど、この言葉を誤魔化すことはしたくない。

「あのさ……まだ間に合うかな」
「何が」
「さっき、言ったの。やり直したい」

が首を傾げる。真っ直ぐな視線を向けられて、怯みそうになる心を奮い立たせた。

「俺、あいつらみたいに背も高くないし、かっこよくもないし、バレーも、俺らだけじゃ勝てないけど……」

ここで後込みしてしまえば、いつものまま。何も変わらない。ほんの少し、変わらない関係に揺らぎはしたけれど。それではもう、我慢できない。

「……ただの幼馴染は、もうやめたい」

ずっと胸の奥に転がっていた言葉は、二人の間に静かに響いた。自然と傍にいる関係は、もういらない。欲しいのは、いつまでも隣に並んでいられる関係だ。真っ直ぐな目を見つめていられなくて、視線は彼女の足元を彷徨う。その、綺麗に磨かれたローファーが、ゆっくりと近付いてくる。視界の端、計算し尽くされたような美しさで翻るスカートに、目を奪われる。握った拳に、小さな手が触れた。

「……うん」

夕焼けのアスファルトに、重なった二人の影が伸びる。たぶんまた、手を伸ばして、力の限り地面を蹴って、やっとネットの上に手が届いても、向こうに伸びた腕はその上を軽々と越えていくんだろうけれど。今この瞬間は、誰よりも高く、跳べる気がした。





(2016/8/5)