賭けに勝ったら教えてあげる



普段はうるさい教室も、ホームルームが終わって30分も経てば静かなものだ。いつもの仕事にプラスして、最後の数学の授業の資材の片付けまでさせられたせいで、日直の仕事が大分長引いてしまった。それを全く気にする様子もなく、目の前で可愛らしい包装紙の飴玉を投げてはキャッチする及川に溜息を吐く。日誌を書く手を止めて眺めていると、二つの拳がこちらに突き出された。

!どっちだ!?」
「こっち」
「お、正解。はい、ご褒美の飴〜」
「わ〜い、これ好き〜」

こういうちょっとしたゲームみたいなことを、及川とは一年の頃からよくやっている。特に趣味が合うわけでもなかったが、及川とはなんとなくウマが合って、他の女子よりはよく話す。一年のときに同じクラスになって、二年で別れて、三年でまた同じクラス。縁があるのやらないのやら。淡い桃色の飴玉を口に放り入れて、包装紙を及川に押し付けた。こんな可愛らしい飴玉を彼が購入する様子は想像できないので、どうせまた女の子にでも貰ったのだろう。巡り巡って他の女子の手に渡ってしまった飴玉も可哀想だ。もっとも、片想いしている相手から他の女子に貰った飴玉を貰うこちらも充分同情に値すると思うのだが。口の中で甘酸っぱいそれを転がしながら、書き途中だった日誌を再開する。

「バレー部最近どう?」
「相変わらずって感じ?岩ちゃんがお母ちゃんかってくらいうるさいけど」
「それ絶対及川が悪いじゃん」
「決めつけないでよ!」
「ま〜た女の子にデレデレしてたんでしょ?」
「女の子に優しくするのは男の義務じゃない!?」
「はいはい」

及川はわりと誰にでもそこそこ優しい。優しさが安いので、勘違いする女子も告白してはフラれる女子も後を絶たない。だから自分では少し近いと思っていても、勘違いしてはならないのだ。及川は、女子には、皆同じように優しい。そう何度も自分に言い聞かせなくては、口の中の飴玉のように心が甘い期待を抱いてしまう。
二年のときはクラスが離れてしまって、話す機会もぐっと減った。だからこのまま、及川のことを思い出にできると思っていた。いっそ三年も同じクラスになったりしなければ、淡い想いは時間の経過と共に過去にすることができたし、それ以上に『この距離を失いたくない』なんて思わずに済んだのに。日誌の最後にちょっとしたいじわるで、『及川くんは日誌を全然手伝ってくれませんでした』と記入する。それに抗議する声を聞き流しながら、日誌を振る。

「はい、日誌終わり。どっちが持ってく?」
「え、が持ってってくれたりしないの。及川くん部活あるんでしょ、とか言ってさ〜」

ここから職員室までは昇降口を通り過ぎて地味に遠い。特に成績優秀な訳でもなく、どちらかと言うと理系科目なんかは壊滅的な部類なので、教員の集まる職員室はどうにも苦手だ。つまるところ、できれば行きたくない。白々しい顔で普段他の女の子に言われているらしい言葉を吐く及川を一瞥した。今日は月曜日だ。

「女の子に優しくするのは男の義務じゃなかったっけ?それに月曜部活ないの知ってるし」
「あら詳しい。及川さんファン?」
「んな訳あるか」

バレー部の部活がない日くらい、青城で少しでもバレー部に近しい者なら把握している。及川を好きな女の子たちは言わずもがなだ。この日は及川がフリーだからと、こぞってデートや遊びの誘いがくるらしい。今日は残念ながら、日直があったわけだけれど。こんなことでもなければ、気持ちを知られて関係を壊すのが怖くて、デートにも遊びにも誘えない臆病者は、放課後一緒に過ごすことさえできない。有難いことにこっちの気持ちなんて全く気付く様子もない及川は、日誌を受け取りながら、人差し指を立てた。

「……じゃあさ、コイントスにしよう。当たった方が持ってくってのでどう?」
「えー、しょうがないなぁ」

いそいそと鞄から十円玉を取り出す姿は、とても青城バレー部の1番を背負う男には見えない。どうも鞄のポケットらしきところから出てきて財布に入ってなかったのだが、彼の金銭管理はどうなっているのだろうか。及川は十円玉を指に乗せると、綺麗に弾いた。くるくる回る十円玉が及川の両手に挟まれて見えなくなる。

「よし……ほいっ、どっち?」
「表」

慎重に合わせた手を開いた及川の手の甲に乗っていた十円玉は、どうやら私に喧嘩を売っているらしい。

「お、表。、はい日誌」
「うわ、むっかつくなぁ。なんか仕込んでたんじゃないの?」
「仕込んでないよ!なにその疑いの目!」
「えー」
「ほらほら、おとなしくいってらっしゃい。そのまま帰るでしょ?」

お互いに鞄を持って立ち上がる。ただの女友達ではここが限界。あとは、笑ってさよならをして。また明日教室で会える。関係を壊したくないなら、その距離で満足しなければいけない。

「うん、じゃあね、及川」

職員室はやっぱり少し遠い。ひとりきりの廊下をゆっくり歩く気にもならなくて、先生に日誌を渡してすぐに踵を返した。次に及川と日直が被るのはいつだろう。その頃にはもう卒業していて被ることはないのかもしれない。卒業する頃には、想いを告げてみてもいいだろうか。どうせ、今の友人関係が続いたって壊れたって、卒業して大学が離れてしまえば、クラスが離れるよりも関係が希薄になるのは早い。そうしたら例え上手くいかなくても、きっとすぐに高校時代の青春の一ページ、もしくは黒歴史として、笑い飛ばせるようになる。そんな小さくて大きな決意を固めながら、昇降口へと向かうと、先ほど別れたはずの姿がそこにあった。

「あれ」
「お、早かったね」

靴箱にもたれかかって俯いていた及川が顔を上げる。

「なんでまだいるの?」
「いちゃ悪い?」

先ほど確かに、お互い笑って手を振ったはずだ。率直な疑問をぶつけても、へらりとした笑顔でかわされる。いつも、そう。

「……及川ってさ、何考えてんのか全然わかんない」

ただの女友達だと思っているのなら、そんなことをしないでほしい。都合のいいように物事を捉えて、もしそれが勘違いだったときの恥ずかしさも悲しさも、及川は知らないんだろう。だからそんな簡単に、優しくしたりできるのだ。及川は何故か眉を下げて、困ったように笑ってみせた。そしてまたひとつ、指を立てる。

「ね、もう一個賭けをしようか。勝った方が負けた方のお願いをひとつきくこと。どう?」
「負けた方がいいの?」
「さあ?」
「ふぅん。まあ、いいよ」

何回めの賭け事だろうか。以前にお願いを賭けて勝負したときには期間限定のアイスを奢ってもらった。その前は及川が勝って、購買に行くついでに牛乳パンを買わされた。今度は肉まんでも奢ってもらおうかな。及川は何度か躊躇うような素振りを見せ、小さく息を吸う。その様子を怪訝に感じ始めた頃、この男は小さな声で、呟くように爆弾を落とした。

「……及川徹はが好きだと思う?」

頭が及川の言葉を上手く処理できなくて、何度も繰り返し今の声を頭の中で再生する。いつものへらへらした笑顔はそこにはなく、眉間には深く皺が刻まれていて、目の淵が赤い。今の質問の、意味は、答えは、一体なんだというのか。

「それは、どう答えるのが正解なの」

なんとか喉から絞り出した声は掠れて、ひどく頼りなかった。

「どっちでもいいよ。勝っても負けても。はさ、どっちであってほしい?」
「……ずるい」
「うん。知ってる」

こんなところで、大事な答えを丸投げにする。勝ったら、言うことを聞かなければいけない。負けたら、言うことを聞かせられる。この勝負に、意味はない。勝ちとか負けとか関係なく、少しの期待と切実な願いが、口から零れ落ちてしまう。

「……好きであれば、いいと、おもう」

訳もなく、泣きそうになった。及川が、そんなにうれしそうに笑うから。その答えを、期待してもいいのだろうか。

の勝ち。……俺のお願い、きいてくれる?」

及川が、静かにこちらを見つめる。知らず、声が詰まって動けなくなる。代わりに心臓だけは、鼓動が耳の奥まで聞こえるくらい、大きく脈打っていた。もう肌寒い季節だというのに、顔が熱くて仕方がない。

「俺のこと、好きになって」

この賭けの勝者は、一体どちらだったのか。





(2015/5/28)