「なんとなく」で終わる世界なら




三年が自由登校になってから、三年の体育の授業で使われていた時間、体育館は丸々空いている。それを知っている人間がいないのか、それとも知っていても真面目に勉強している生徒ばかりなのか、二月の体育館に人影はひとつだけ。その背中に向けて、ボールを高く放り投げる。

「いてっ」
「シュート!」
「なんだ、か。いてーよ」

ボールの当たった頭を押さえて屈み込み、涙目でこちらを見上げる松川にピースサインを送った。投げたのは重いバスケットボールではなく松川の馴染みのバレーボールだ。バレー部の主将はいつも、もっと強くボールをぶつけられていたのだから、きっと大丈夫だろう。体育館の床を転がるボールを拾った。たったふたりの体育館は広くて寒い。あんなに汗を流して、あんなに走り回って、あんなに声援でいっぱいになっていたとは思えないほど、静かな空間。そこでしけた顔をして立ち尽くしている背中を、今度は強く叩いた。

「いって!痛いって!なんなの、お前」
「松川がしけたツラしてるから気合入れてやってんじゃん」
「バスケ部こわい」
「バレー部も変わんないでしょ、岩泉くんとか」
「どこも副主将は暴力的なの?」

真顔で尋ねるあたり、バレー部では部外の人間が見るよりも主将が悲惨な目に遭っていたらしい。バスケ部ではそんなことはない。精々励ましの意味を込めて、背中を叩くくらいだ。松川は一年の頃から同じクラスで、身長が一番後ろの者同士で仲良くなった。お互い昔からスポーツに打ち込んでいて、そういうところも気が合う同志だ。背中はさすがに摩れないからか、松川は脇腹を押さえながら、また背中を丸めた。それでも、立ち上がった彼の顔はまだ高い位置にある。こんな誰もいない時間に、わざわざ第二体育館に赴いて、寒い体育館の中でじっとコートを見つめる理由は、わかっているつもりだ。バレー部の春高予選と同じ時期、バスケ部もWCの予選を落ちた。松川は尖らせた唇から、ボソボソとその理由を零した。

「……負けた試合を、ずっと夢に見る。俺もっと何かできたんじゃねーかって」

その試合は見ていないから、詳しいことはわからない。松川もいくらか点を取ったと聞いている。ブロックもすごかったと、バレー部の応援に行ったクラスメイトが話していた。点を取っても、ブロックを決めても、まだ。まだ、もっと、自分が点を取れていれば、ブロックを完璧に決められていれば。そういう後悔は、後を絶たない。負けた試合を思い返せば思い返すほど、もう取り返すことのできない、あのときこうすれば、が頭を過る。そんなもの、終わった後で思ったって、どうしようもないとわかっている。わかっていても、繰り返してしまうのだ。

「負けた試合のどうしようもないことばっか引きずってどうすんのよ」
「お前引きずらないの?」
「引きずらない。だって楽しかったもん」

あのとき、こうしていれば、は呪縛だ。考えれば考えるほど、自分を過去へと引き摺り込んで、前に進めなくしてしまう。それをバネに練習に打ち込んでも。あのときはもう二度と返ってこない。この学校で、このチームでプレイできる三年間という時間は、終わってしまったのだから。

「松川は、この三年間のバレー、好きだったんでしょ。楽しかったんでしょ。もっとやりたかったんでしょ。だから、あそこで自分が何とかできたら、もっと続けられたのにって思うんでしょ?」

傍目から見ても、バレー部のメンバーは皆仲が良かった。信頼し合っているのがわかった。そういうメンバーで、めちゃくちゃに練習に打ち込んで、試合をして、勝って負けて、リベンジして、勝って勝って。それがどんなに楽しいか、よくわかる。できなかったことをできるようになって、相手の動きを読んで、自分の思うように試合を進める楽しさも知っている。勝った試合の、チームメイトのハイタッチの手のひらの熱も、負けた試合の、頬を伝う涙のしょっぱさも。全部全部、知っている。

「そうだけど」

松川はまたいろいろと思い出しているのか、苦い顔をして呟いた。丸まった背中を、もう一度叩く。そんな顔をするような思い出ばかりじゃ、ないだろう。

「そうやってくうちに嫌なとこばっか思い出す。後悔ばっかりする。だから、後悔する理由を思い出せばいいの」
「後悔する、理由」

嫌な記憶ばかりを募らせれば、そのうち思い出すことさえ嫌になる。楽しさも、笑い合ったことも、思い出したくなくなってしまう。松川には、そんなふうになってほしくなかった。

「もっとずっと、続けていたいくらい、この青城バレー部が楽しくて、大好きだったってこと」
「………そっか」

松川は今初めてそのことに気がついた、とでも言うように目を大きく見開いた。一度二度。ゆっくりと瞬きをして、改めてコートを見つめる。その顔が先ほどの、眉間に皺を寄せ、眉を下げた拗ねたような顔ではなく、すっきりとした表情になっていることに安堵した。全くもって、手間のかかる友人だ。

「俺、このチームでバレーできて、よかったわ……たとえ負けても、ここでよかった」
「うん、私も青城バスケ部でよかったって思うよ。たとえ負けても」

ここで、大好きなメンバーと一緒に、最後まで自分のしたいことができたことに後悔はない。できることなら、もっと長くやりたかったけれど、それでもそのメンバーでないと意味はないから。松川は天パの頭を掻きながら、肩を竦めた。

「いや、でもさすが副主将。言葉の重みが違うね」

かっこいいな。そうかけられた言葉に、今度はこちらが不服な顔をする番だった。

「私はかっこいいより可愛くなりたいんだけどね」
「なんで?いいじゃん、かっこいいの。よく言われんでしょ、

よく言われる。なんなら後輩の女の子から告白をされたこともあるくらいだ。今は少しだけ髪も伸びたけれど、引退するまではベリーショートだった髪に制服のスカートはそれはそれは似合わなかった。手足が長くて羨ましい、と小さなクラスメイトの女子に言われるたび、交換してほしいと思う心も隅っこの方に、少しだけあった。

「背も高いしね。そりゃバスケするにはいいよ。背高い方が有利だもん。でもクラスの子が遊びに行くときに着てるような可愛い服なんて、着れないしさ」
「ふぅん?」
「松川だって、背低い子の方がいいでしょ?可愛いじゃん?」

何よりもこの学校のメンバーでするバスケが楽しかったからいいけれど、高校の三年間、かわいらしい女の子に対する羨望は常に存在した。いちばんの理由としては、男子に恋愛対象として扱われることがない、というのが大きいけれど。そんなことを言ったらそれこそ笑われてしまいそうだ。松川は顎に手をやって、まじまじとこちらを見つめている。

も、俺よりちっさいよ?」
「松川がでかすぎるんだって」

188センチもある男はその辺のどこにでもいるものではない。バレー部の中でもかなり背が高い部類に入る松川は、もちろん学校の中でも高身長の上位に食い込んでいる。ガタイもいいから、スラッとした体型の方がしっくりくる青城の制服は似合わないけれど。制服が似合わない、という点でも松川とはやはり気が合うなぁ、なんて考えながら耳にかかる髪の毛を弄る。

「……、もいっこ聞いてほしいんだけど」
「ん?」

伸びた髪の毛を耳にかけて松川を見ると、また体育館に入ってきたばかりのときのような、苦い顔をしていた。また背中が丸まっている。自信がなさそうに見えるから、背中を丸めるなといつも言っているのに。

「このままなんとなく卒業して、なんとなく年取って、なんとなく今日を思い出したときにさ」

静かで冷たい体育館の中で、ぽつりぽつりと呟く松川の声が響く。尖った唇から言葉と共に吐き出される息が、白く濁る。

「俺なんかそのうち、後悔でいっぱいになりそうなんだけど」

気弱な声。松川とはテストのたびに食べ物を賭けて下位の方にいる成績を競ったり、自習の授業を抜け出して二人で屋上で昼寝をしたりして。文化祭のお化け屋敷で二人羽織をして上から客を驚かせようとして二人して転んでセットを壊したこともあった。花巻のシュークリームにワサビを仕込んで及川のせいにした思い出もある。

「なんで?」

いつもバカなことをして笑い合ってばかりいた。松川は、後悔するようなことなんて、何ひとつないはずだ。

「お前と話したり、バカなことやって騒いだりすんの、楽しくて大好きだったってこと、思い出すたびに、なんで何もしなかったんだろうって、思う」

なんとなく日々を過ごして、ちょっとずつ過去のことになったとしても、何かの拍子に思い出しては、笑い合った記憶さえ、チクリと小さく痛む傷になる。そんなのは、自分だけだと思っていた。だから、自分の傷には目を瞑ろうと、見なかったことにして、いつか忘れてしまおうと、そう考えていたのに。

「俺は、青城で、と会えてよかった。だけど、ここで終わりたくない」

松川がひどく真剣な目で、眉間に皺を寄せてそんなことを言うから、ただでさえ運動に特化して容量の少ない頭がパンクしそうになる。時間が止まってしまったみたいに、体育館がシンと静まり返る。心臓ばかりが耳の奥でうるさいくらいに鳴っていて、言葉は全然出てこない。

「……なんか言って」

沈黙に耐えかねた松川が、口元を片手で覆いながら困ったような顔をする。

「なんかって、だって松川」
顔真っ赤」
「松川が急にそんなこと言うから!」

ずっと友達だったのだ。バカみたいなことばかりして、笑い合って、ときには励ますために背中を叩いて。隣にいられるだけで、満足しようと思った。どうせ女として見られることはないだろうから、一番の友達になろうと決めた。こちらのそんな覚悟をあっさりと打ち破って、松川は笑う。

「うん。友達じゃなくて、男として、意識して」

そんなの、もうずっと前からしてる。

「……私で後悔、しないの」

俯いて床に向けて落ちていく、自信のなさそうな、消え入りそうな声。背中が丸くなってしまう。でも、泣きそうになるのを堪えているせいで、顔を上げられない。この体育館に足を踏み入れたときとは逆に、松川の大きな手が優しく背中を叩いた。

「後悔したくないから、言ってる」

何もしないまま、なんとなく同じ距離を保って、いつか隣を奪われても、笑うことなんてできるだろうか。いや、無理だ。この優しい手を、失いたくない。抱えていたボールが冷たい床を転がる。吐く息は白く染まりながら、冷え切った体育館に溶けていく。それでももう、寒くはない。いつか思い出すこの体育館の最後の記憶はきっと、松川の腕の中の、温かさ。





(2015/8/21)