私と世界と肉食獣




照りつける日差しがグラウンドを焦がす。十月の日曜日。この小さなグラウンドに全校生徒とその保護者が集まっているのかと思うと、人口密度だけでもクラリとする。二百メートルのトラックの中では、今まさに競技中の男子たちが走っていて、一際大きな歓声が上がっていた。木兎が、一位を取ったようだ。トラックを囲むテントの中、日差しとは無縁の場所で膝を抱えていると、一位の旗を手に眩しい光の中で笑っている彼がますます遠く感じた。本当は、こんなところで腐ってなどいたくない。それでも。テーピングでぐるぐるの脚を見つめる。体育祭を目前に控えて捻った右脚は、冷たいレジャーシートの上で丸くなる以外のことをさせてくれなかった。

見た!?俺一位!!」
「見た見た、すごい」
も惜しかったよな、お前めっちゃ足速いのに」

競技の終わった木兎が、クラスの応援席に戻ってくる。応援席には、競技休憩中の何人かと、怪我でずっとここに居座っている自分しかいない。陸上部のエースとして、体育祭は同じクラスの木兎とずっと一位の旗を競ってきた。今年だってそのつもりだった。木兎と同じように、出られる限りの競技に名前を書いた。クラスでも運動が苦手な子は一競技しか出なかったり、その分運動が得意な子は何種目も出たりする。だから皆喜んでやらせてくれていたのだが、陸上部の夏は終わって、引退も済ませたせいか、気が緩んだのかもしれない。練習中に、足を捻ってしまった。出られなくなった競技の分、皆に迷惑をかける結果になった。本当は、もっともっと活躍できたはずなのに。木兎の弾けんばかりの笑顔を見ていたら、ますます卑屈になってしまいそうになる。

「あっ、次の競技だ」
「がんばって」
「おう!応援よろしく!一位取ってくっから!」

応援なんてしなくても、どうせ一位を取ってくるくせに。あっという間に離れていく背中を目で追いながら、次の競技が書かれた掲示板を確認する。

「騎馬戦かぁ」

元々男子だけの競技だ。それなら、まだ卑屈にならずに見ることができるかもしれない。男子は皆上半身裸で、木兎は騎馬役の男子たちの上で惜しげもなく鍛え上げられた肉体を晒している。といっても、バレーが室内競争だからだろうか。他の運動部と比べると、木兎の肌は白い。目立ってるなぁ、と呆れ半分に溜息を吐く。膝を抱えた自分の腕を、目の前に掲げてみた。日焼け止めはちゃんと塗っているけれど、たぶんきっと、木兎より日に焼けている。実際に比べたことはないが、並べて比べてみる気にもなれない。本当に黒かったら、それこそダメージをもろに受けてしまう。

「きゃあああっすごい!」
「木兎ー!がんばれー!」

クラスメイトの応援の声に、ハッとした。競技はもう始まっている。数分で、騎馬は片手で数えられるくらいまで減った。その中には、勿論木兎も残っている。こちらが不利な残数。けれど、木兎の顔に諦めはなかった。むしろそれくらいが燃える、とでも言わんばかりの表情に、胸の奥がジワリと熱くなる。あの不利な状況から、敵のハチマキをほとんど木兎が奪ってしまい、最終的に残りは互いに一対一。敵の大将は、ラグビー部のキャプテンだった。掴み合い、もみ合ったまま、二人がバランスを崩す。

「あ……」

サァッ、と、頭から血の気が引く音がした。二人とも、騎馬から落ちて地面に倒れ込む。砂煙で、二人の様子はよく見えない。木兎はバレー部の主将で、期待の選手で、うちは全国を狙えるくらいの強豪で。陸上部はもうとっくに、夏は終わった。引退した。だから怪我をしたって関係ない。ちょっと、体育祭で走れなくなるくらいで。ちょっと、木兎とその楽しさと熱を分かち合えなくなるくらいで。だけど、木兎は。

「あっ、大丈夫そうだねー!」
「木兎くん悔しそう!ハチマキ取られちゃったんだね」

二人が立ち上がって、木兎が悔しそうに地団駄を踏んでいる。クラスメイトの笑い声を聞いて、ようやく忘れていた呼吸を繰り返す。まだ、手が冷たい。こんなに気温が高いのに、背中を冷汗が伝っていた。

「悔しいー!!絶対勝ったと思ったのに!!」

応援席に戻って来た木兎はまた悔しそうに地面を蹴った。その膝小僧には血が滲んでいる。

「木兎、怪我してるじゃん!救護室行った!?」
「え?いいって、こんくらい。擦り傷擦り傷」
「よくない、バカ!バレーするとき何かあったらどうすんの!あんた主将でしょ!早く救護室行きなよ!」
「……わかった。ごめん」

笑っていた木兎が、急に真顔になる。そのまま救護室へと向かう後ろ姿を見送りながら、胸が苦しくなった。怒らせたかもしれない。盛り上がりに、水を差した。何故、ああいう言い方しかできないのだろう。応援席に、気まずい沈黙が流れる。その間も、競技は普通に進んでいった。木兎は救護室からそのまま、競技の待機列に向かったらしい。次は借り物競争だ。去年はこれも、木兎と競って勝った。木兎の紙に無理難題が書いてあったおかげだ。校長のヅラなんて取れるわけがない。あのときの木兎の動揺と絶望と少しの好奇心をない交ぜにした視線と、最終的に『校長先生は裏切れねぇ!!』と地面に拳を打ち付けた姿を思い出して、ちょっと笑えた。抱えた膝を見つめていると、応援席がざわつき始める。

「なんか木兎くん、こっちに走ってきてない?」

何事かと顔を上げると、確かに木兎がものすごいスピードでこっちに走ってきていた。応援席の目の前まで来て、こちらに手を伸ばす。

!来い!」
「え、ちょ、何?私走れな……」

テーピングした足を指すと、木兎はどんなことでもなんとかしてしまいそうな、弾ける顔で笑った。

「大丈夫!しっかり捕まってろよ!」
「え?ひゃあっ!」

急に高くなった視界。日陰から引き摺り出されて、太陽が眩しい。周りから歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる。背中と膝の下に、木兎の腕が回されていて。これは、俗に言うお姫様だっこだと気付いたときには、木兎は既に走り出していた。

「木兎っ、木兎!私重い……!」
「んっ!?あ、ちょっと重いかな!?」
「そこは正直に言わないでよバカ!!」
「持てないことはなーい!!」

ビュンビュンと風を切る音が耳元で聞こえる。周りの景色が後ろへ吹っ飛んでいく。やはり、木兎は速い。恵まれた運動神経。全身がバネのようだ。振り落とされないようにしがみついた木兎の首元が、熱い。景色も何も、もう見えない。木兎の目が、獲物を定めた猛禽類みたいに、ゴールを向いている。その獣に、目を奪われる。

『ゴォーーール!!!一着は白組、三年の木兎光太郎ーーー!!!女子生徒を抱えてのゴールに周りから口笛や歓声が上がっております!!!続いて二着は赤組ーー』

ゴールテープを切って、木兎のスピードが緩む。人を抱えて走った直後だというのに、息を乱したまま笑っている。

「一位!ほら、俺たちずっと競争してばっかだったから、初めてだな。一緒に一位だぜ!」

一位の旗。それを掲げながら、こちらに寄越した。同時に、体育委員に借り物の紙を渡している。かっこつけ。本人にかっこつけている自覚がないから、タチが悪い。

「……ばーか」
「ばか!?」
「ていうか、なんて書いてあったの」

陸上部だろうか、クラスメイト、女子生徒、それとも腐れ縁。いろんな言葉を思い浮かべていると、木兎はニカッと笑う。

「……へへっ!『かわいい人』!」

一瞬、呼吸が止まった。木兎の顔を、見ることができない。顔に熱が集まっていくのがわかる。日陰にいたから、日焼け止めもちゃんと塗っていなかったかもしれない。首の後ろが、ジリジリ焼けるような感覚。かわいい、なんて、自分には絶対似合わない言葉だと思っていた。背も高いし、負けん気も強い。かわいいところなんて、ひとつもない。クラスの中でも料理部とかの、ふわふわおっとりした女の子らしい女の子は何人もいる。ああいうのを、かわいいと言うんだろう。

「かわいい人なんか、私より、」
「待て待て待てって」

木兎の顔を見ることができないまま、否定しようとした言葉は遮られた。木兎の大きな手が肩を掴んで、無理やりそっちを向かされる。もう絶対に、顔が赤い。獲物を定めた猛禽類の、目。

「俺にとってはがいちばん!かわいいの!」

真っ直ぐな言葉が心を揺らす。本当に、タチが悪い。こんなの、逃げられるわけないじゃないか。





(2015/11/8)