同じ呼吸で生きるなら




梅雨の季節は非常に鬱陶しい。蒸し暑いし、窓は開けられない。黒尾のサボリスポットの非常階段も雨にさらされて使えない。窓の外の景色はどんよりと重い。息が詰まりそうだ。屋外の居場所を奪われた黒尾の足は、自然と屋内の人気の少ない場所に向かった。高校二年。ようやく幼馴染のセッターが同じ学校へと入ってきたものの、三年がうるさくてまだ思うようにバレーをすることはできない。徐々に鬱積していくストレスは、真綿で首を絞めるように、少しずつ黒尾を蝕んでいく。梅雨の鬱陶しい息苦しさも合わさって、酸素の足りない脳みそが休息を求めている。ひっそりと教室を抜け出して、黒尾は静かな廊下を歩いていた。部室でサボっているのがバレたら面倒なことになりそうなので部室はアウト。特別棟の屋上に続く階段を上っていく。最上階はもうほとんど物置と化していて、使う者はいない。屋上はずっと前に固く施錠されているので、昼休みにやってくる生徒もいない。埃っぽく暑苦しいため、サボりに来る者もいないはずだ。屋上へと続く扉の前に腰かけて、冷たい鉄製の扉にもたれかかる。(…きもちいい)そのまま、自分の欲求に抗うことなく、瞼を下ろした。
どれくらい眠ったのだろうか。覚醒は思いのほか早く訪れた気がする。唇に、冷たい感触。生温かい空気が口内に流れ込んでくる。うっすら目を開くと、目の前に色素の薄い女の子がいた。血色の悪い白い肌、淡い茶髪のショートヘアが、細い首にかかっている。ガラス玉のような茶色の瞳には、なんの感情も映し出されていなかった。表情は皆無。

「なに、してんの……」
「じんこうこきゅう」
「は……?」
「君が息苦しそうだったから、人工呼吸しなきゃと思って」

真面目に言っているのか、ふざけているのかも、その無表情からは読み取れない。とりあえず、肩を掴んで彼女を引き離す。(うわ、ほそ)手のひらに伝わる感触は固く、制服の下の身体は男女の体格差を差し引いても薄い。他人の心配より、自分の心配をした方がいいと思えるほどだ。為されるがままに離れた彼女は、黒尾の隣に間隔を開けて座りなおす。

「アンタ、なんでここにいんの」
「それは、私が聞きたい。ここ私がいつも使ってるとこ。誰かが来たのは、今日がはじめて」
「あー……そりゃ悪いな。人気のないとこ探してて。屋上も非常階段も使えねぇし。場所、移動した方がいい?」
「いいよ。君の声は、うるさくないから」

そう言って、彼女はゆっくりと目を閉じた。しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。伏せられた目を縁取る睫毛は長い。全体的に顔色が悪く唇の血色がよくないことが、淡く染められた髪と相まって、彼女の存在を希薄なものにしている。けぶる雨の中に消えてしまいそうな、そんな感じがした。妙な気分だ。サボるときに人が隣にいるということは今までにない。耳に響くかしましい声で騒がれるのが嫌で、たとえ付き合っている彼女であろうと、隣に置くことはない。けれど、彼女の隣で、無防備に瞼を下ろそうとしている自分がいる。先程彼女は黒尾の声をうるさくないと言ったが、それは彼女も同じだった。聞いていて心地よい、耳に絡みついてこない透明なアルト。出会い頭の出来事にさほど驚かなかったのも、彼女の人工呼吸、という言葉が面白いと思い、自分で納得したからかもしれない。じっとりとした空気は変わらないのに、起きる前よりも息苦しさを感じなかった。

「……ん」
「起きた?」

寝ていたのは何分か、もしくは何時間か。うっすらと瞼を持ちあげた瞬間、頭上から透明な声が降り注ぐ。寝起きの頭は接触が悪く、上手く機能するまでに数秒を要した。その間に状況を把握して、跳ねるように飛び起きる。目を瞬かせた彼女以上に、黒尾の方が驚いていた。

「……悪ぃ、」
「いいよ、別に。昼休みが始まる前に起きてくれてよかった」
「購買行くの?」
「そうだよ」
「俺も。お詫びになんか買ってくる」

寝起きは悪いが寝相は良いほうだと思っていた。起きたら名も知らない知り合ったばかりの女生徒の膝を借りていたなんてことは、これまでなら絶対になかった。知り合いとも言えないような相手に一方的に迷惑をかけただけ、というのは黒尾とて寝覚めが悪い。彼女はこちらを見て瞬きを繰り返す。

「じゃあ、カフェオレ。購買の、一番甘くないやつ」
「あれか。他は?」
「あれだけでいい」
「昼飯はどうすんの」
「いつもあれだけだから」

驚くよりも先に納得してしまったのは、吹けば折れそうなほどの細さというのを手のひらから実感していたからだろう。彼女が座りなおしたのを横目で見ながら、階段を下りて購買へ走る。彼女が頼んだカフェオレは甘さ控えめなところが好評で、男女問わずに買っていく者が多いので昼休みには必ずなくなる。携帯の時計を確認すると、昼休みが始まるまであと5分。購買にはまだ人はいなかった。黒尾はカフェオレが残っていることに安堵し、それを手に取ると、自分の分の焼きそばパンとメロンパンとサンドウィッチとお茶を併せて買い、すぐに踵を返した。扉の前に戻ると、彼女は再び静かに寝ていた。息をしているのかいないのか、よくわからないほど、静かに。傍まで近寄って屈みこむと、うっすら開かれた唇は、やはり血色が悪く、ぽってりとした厚みもつやつやとした輝きもない。

「……なに、してるの」
「人工呼吸」
「……そう……」

キスをしたい、と思ったわけではなかった。ただ本当に、彼女が生きているのかどうかを確かめたかっただけだった。唇をぴったりと合わせて息を吹き込めば、彼女はゆっくりと目を開いて、出会ったばかりの黒尾が言ったのと同じことを口にした。それに黒尾も、同じ言葉を返す。ふ、と空気が緩んだのは二人同時だっただろう。

「ははっ」
「ふっ……」

彼女の笑い声はからりと乾いていて、甘ったるさを感じさせない心地よいもので。眉尻を下げた、どこか困ったような笑顔は純粋にかわいらしい、と思った。

「……なぁ、キスしていい?」
「君なら、いいよ」

三度目に合わせた唇は、しっとりと優しい熱を帯びた。



*****



あの後は一緒に昼ご飯を食べ、午後からはそれぞれのクラスに戻った。彼女の向かう方向には三年の教室しかない、ということは先輩なのだろう。そこで、黒尾はお互いに名乗りもしていなかったことに思い至った。学年もクラスも知らなければ、名前も知らない。名前など、調べようと思えば調べようはある。幸い学年は違えど彼女もかなり人目を惹く容姿だ。いつもと変わらない退屈な授業。彼女はどんなふうに授業を受けているのだろう。寝ているだろうか、それとも真面目に受けているだろうか。きっと、その答えは自分と一緒だ。彼女は、窓の外を見ているに違いない。そんなことを考えるだけで、退屈な景色も色を帯びて見えた。
今日も、雨が降り続いている。自習になった授業を抜け出して、黒尾はまた特別棟の階段を登っていた。鉄製の扉の前で、彼女はまるで人形のように眠り続ける。その薄い唇に指で触れれば静かに呼吸をしていることがわかるが、黒尾は彼女に覆い被さるように屈み込んで唇を寄せた。合わせた唇から、息を吹き込む。

「……ん」
「オハヨ、先輩」
「……おはよ」

彼女はまだ寝ぼけているのか、うつらうつらとした顔をしている。目を擦りながら、欠伸をひとつ。脳に酸素を送っている間に、黒尾は彼女の隣へと腰を下ろす。

「私名前教えたっけ」
「いや?先輩、目立つ髪色してるから、三年に聞いたらすぐわかったよ」
「そうなんだ」

さして興味のなさそうな様子で髪の毛を弄り、彼女はスカートから伸びた白い脚を組み直す。名前の話題になったら、普通聞き返したりしないのか。なかなか黒尾が思うように進まない会話に、じれったくなる。

「俺の名前とか聞かないの?」
「黒尾くんでしょ。バレー部の」
「……知ってたの?」

あまりにあっさりと投げかけられた答えに瞬きも忘れて、黒尾は彼女の方を見つめた。

「ううん。この前別れた後で、君が入学したとき友達が騒いでたのを思い出したの」

確かに、黒尾は入学したばかりの頃から既に身長に恵まれていて、外面の良い性格と整った容姿で二、三年の女子生徒にも騒がれていた。告白も、いくらかされたように思う。結局バレーに夢中で恋愛を重要視できない性格だったものだから、歴代の彼女にはことごとくフラれたけれど。つまりクロはその子たちのこと、大して好きでもなかったんでしょ、ひどいね。幼馴染はゲームから目を離さないまま、そんなことを言っていた。だが今は。

「先輩は、騒がなかったの」
「だって、興味なかったから」
「今は?」

彼女は視線を階段から黒尾に移して、表情を変えないまま、ほんのわずか、血色の悪い頬を染めた。

「……少しだけ」
「そんな言い方、ずるいってわかってて使ってんの?」

降り続く雨のせいで、蒸し暑くて、どんよりと重い気候。息の詰まりそうな淀んだ空気。それから逃れるように黒尾は彼女の薄い唇を、自分のそれで塞いだ。唇が離れる合間、漏れる吐息も全て奪うように、息を繋ぐ。今はこんなにも、一人のひとに執着している自分が、黒尾は一番信じられなかった。
次の時間から二人して授業に戻り、なんでもなかったように数学の教師の話を聞き流しながら、黒尾は窓の外を見やる。久々に雨が止み、青空が雲の隙間からわずかに顔を覗かせていた。黒尾は眉を寄せる。彼女は梅雨の季節しかあそこにいない。一度聞いてみたが、この時期は蒸し暑くて夜が寝苦しいせいで、昼間にどうしても眠くなるのだと言っていた。保健室は通いすぎると先生がうるさいから、一年の頃からずっと梅雨の季節はあそこにいるのだと。もう、彼女とあの場所で会える時間は、限られている。
昼休み、早めに向かった購買をうろついていると、彼女が現れた。同じようにウロウロとしている彼女の前に立ち塞がる。

先輩」
「黒尾くん」

黒尾は身長も一般的な高校生よりは頭ひとつ飛び抜けているはずなのだが、飲み物のコーナーだけを見ていた彼女はようやく黒尾に気付いて顔を上げた。彼女の目当てはひとつだけ。黒尾はそれをよく知っている。

「カフェオレ、売り切れてたでしょ」
「うん、どうしようかな」
「はい、これ。俺が買っといてあげた」

甘さ控えめで人気のカフェオレ。彼女は本当に、いつもそれしか飲まない。体によくはなさそうだから、一緒にご飯を食べるときには黒尾のサンドウィッチを無理やり二切れは食べさせている。彼女はカフェオレを受け取ると、いつもの無表情のままではあるが、ほんのちょっと目を輝かせた。そんな些細な変化に気付けるのは、自分だけだろうと黒尾は思う。自分だけで、あってほしい。

「わ、ありがとう。はい、お金」
「いいのに」
「よくないよ」

右手に押し付けられたお金を仕方なく受け取り、黒尾は唇を尖らせた。彼女はそういうところははっきりしている。なかなか、かっこつけさせてはくれない。

「あそこで食べる?」
「ううん、今日は人が多いから、教室に戻る」
「そっか」

確かに現時点で、学年も違う接点も何もない二人が仲良さそうに話していることで注目を浴びてしまっている。それでなくても、二人とも目立つ容姿だ。これで揃ってどこかへ向かえば、すぐに噂になってしまうだろう。だが、納得はできても、残念に思ってしまう気持ちはどうしようもない。そんな黒尾を見て、彼女は表情の乏しい顔を少し緩めた。

「黒尾くんは、すぐ顔に出るね」
「……俺結構ポーカーフェイスとか、言われんだけど」
「そうなの?意外」
「まあ、確かに先輩の方がよっぽどポーカーフェイスだけどね」
「ふふ、どうかな」

挑発上手、からかうような笑みで全部隠して、何を考えているのか悟らせず、相手の手の内は丸裸にする。いつもそんなふうに言われているのに、彼女の前では一個も上手くいかない。全てにおいて、彼女が一枚上手だ。もしくは、惚れた者負け。そういうことかもしれない。
梅雨明けが近い。昨夜から続く弱い雨を眺めながら、黒尾は廊下を進んでいく。埃っぽい階段を登り、行き止まりの鉄製の扉にもたれて眠る人形のような彼女。頬を撫でるが、黒尾の方が体温が高いせいで、冷たい陶器みたいな感触が手のひらに残るだけだった。呼吸を繰り返す唇から漏れる空気が、唯一少しだけ熱を感じさせる。高い体温を分けるように、彼女の頬を両手で包んで、額、瞼、唇とキスを落としていく。触れた唇から零れる吐息も全て飲み込むように口付ける。最早、キスをしているというよりは唇を食んでいるようなそれに、彼女がようやく重い瞼を持ち上げた。

「……先輩」

額をくっつけて見下ろした先で、彼女が何度か瞬きを繰り返す。

「……なんだ、黒尾くんか」
「俺以外の、誰だと思った?」

寝ぼけて焦点のほとんど合っていない茶色の瞳に映った自分の顔が、焦りと嫉妬に歪んでいることを黒尾は自覚した。思えば彼女の行動は最初から奔放で、こんなふうに触れる相手が黒尾だけとは限らないのだ。無防備に人のほとんど通らない、こんな場所でぐっすりと眠り込んだりして、誰か良くない考えを持った者に襲われる可能性だって、なくはないのに。けれど彼女はそんな黒尾の変化に気付いているのかいないのか、のんびりした口調を崩すことなく、黒尾の頭を撫でた。

「去年死んだ、うちの犬」
「……嫉妬した俺が馬鹿みたいじゃん」

まるでその飼い犬にそうするかのように、頭から首の後ろを雑に撫でる手に、黒尾はドロドロした感情が凪いでいくのを感じる。

「いい子だったの。黒くて大きいラブラドールで、よく私にキスしてくれてた。でも去年の梅雨の時期に……」

わずか数センチ先で揺れる瞳。体温の低い手が、黒尾の髪の毛を混ぜる。黒尾の手から温度の移った彼女の頬は、もう冷たくはない。

「初めてここで黒尾くんを見つけたとき、あの子のこと思い出した。あの子は寝てるみたいに息を引き取ったから、不安になったの。この子はちゃんと、生きてるのかなって」
「だから、人工呼吸?」
「うん。でも黒尾くんは、ほんとに似てる。キスが好きなところとか」

犬と一緒にされて、黒尾はガクッと肩を落とした。だが、彼女は本当にその飼い犬が好きだったのだろう。表情が柔らかい。眼差しも、情愛に満ちている。それが黒尾に向けられているのか、黒尾の向こうに飼い犬を見ているのかわからないが。

「それ、喜んでいいのかわかんないんですケド」

キスが好きなんじゃなくて、アンタが好きだからキスをしたいんだと、余程言ってやろうかと思ったけれど、黒尾はグッと口を噤んだ。その飼い犬も、彼女のことが好きだからキスをしていたのだろうと思うと、そんなことを言えばまた一緒にされそうな気がする。いつの間にかもう、こんなに惹かれている。

「……先輩、キスしていい?」
「いいよ」
「俺以外に、させないでね」

柔らかい笑み。触れた頬と手が同じ温度で、二人の境界線が曖昧になる。

「犬でも、嫉妬しちまうから」

梅雨が始まった頃の鬱積したストレスや息苦しさを、今はもう何も感じない。重ねた唇から温度が移る。湿り気を帯びたあたたかい空気が、黒尾の肺へと流れ込む。彼女の呼吸で、黒尾は今日も生かされている。





(2015/8/27)