シャーペンを投げ出すまであと、




 思えば彼との間にはいつも何かが存在していた。最初は一年のクラス委員の仕事、次は学園祭の裏方準備など、そして今、夏休みの課題。絶好の自習室である空調のきいた図書室には、こんな夏休み真っ只中だというのに席がなくて、窓という窓を開け放った教室で二人、課題を広げている。進捗は芳しくない。ぬるくなった水を気休めに喉に流し込む。下敷きをうちわ代わりに扇ぐのを見て、赤葦が申し訳なさそうな顔でペンを止めた。

「ごめん、こんな暑い日に」
「や、いいっていいって。私もまだ数学少し終わってなかったし」

 バレー部は今年も三年の木兎さんを筆頭に全国間違いなしと言われて練習三昧。二年生で正セッターに抜擢された赤葦も彼に付き合って過酷な練習を行っているらしい。そもそも合宿にかなりの日数を割いている。その中で夏休みの課題もこなせと言う方が酷だ。赤葦は元々勉強ができる。きっとバレーの推薦も狙えるだろうに、二年も進学クラスだ。課題の量も他のクラスより多くなる。解ける頭はあっても、さすがにその量の問題にいちいち目を通している時間はないらしい。英語を終わらせて、国語の問題集に取り掛かった赤葦がそれを閉じる前に、数学を終わらせなくては。そう思うのに、うっすらと日焼けした肌に目を奪われてしまう。夏休み前とは、また別人のようだ。赤葦が問題集から顔を上げそうなのに気付いて、慌てて視線を手元に落とす。

「でもびっくりした。赤葦から急に連絡くるんだもん」
「……一年のとき、ノート借りたでしょ。すごい見やすかったし、俺の知り合いで課題ちゃんとやってそうなの、以外にいなくて」
「あ、全然いいんだよ。ていうかそんな昔のこと、よく覚えてたね」
「そんなに昔じゃないよ」

 柔らかい声。顔を上げるとやっぱり赤葦が微笑んでいて、思わずまた目を逸らした。これだから、イケメンは困るのだ。微笑みひとつで、女の子の心臓を破壊できてしまう。シャーペンを強く握って、問題に取りかかる。何回も解いた文章問題の意味も、使い慣れた数学の公式も、うまく頭から出てこない。ほんのわずか油断しただけで、頭の引き出しが赤葦への淡い想いで溢れそうになる。二年連続クラスメイト。昔のことを覚えていて、こうして頼りにしてくれる。それだけで満足すべきだ。それだけで満足、できればいいのに。赤葦にノートを貸したことだって、本当はちゃんと覚えていた。一年の頃、全国常連のバレー部の練習は本当にきつそうで、赤葦が授業中に寝ることなんて滅多にないのに、その日の古典、彼は盛大に居眠りしていた。そういう日に限って、先生は試験範囲の中でも重要な話をしたりするのだ。チャイムで目覚めて慌てた様子の赤葦に、隣の席だった私は親切なクラスメイトを装った。

『これ、写す?』
『あ、ありがとう。どうしようかと思ってた。助かる』

 本当は、これをきっかけにもっと仲良くなれればいいのにという下心満載のノートに対して、赤葦がとても感謝してくれるから、純粋に親切にしたわけじゃない自分が恥ずかしくなった。結果、このときはノートと一緒にいちごミルクの飴玉を貰って終わった。小さい頃によく食べた甘い飴玉を舌の上で大事に大事に転がして、現実は少女漫画みたいにうまくいかないなぁなんて溜息をひとつ。まさか一年後、こうして一緒に過ごすきっかけができるとは思わなかった。赤葦がくるりとシャーペンを回す。彼は確かにイケメンだけれど、顔を好きになったわけじゃない。彼の持つ空気そのものに惹かれた。静かで優しくて、それでいて奥には情熱が燻っている。それと、強いてあげるなら、赤葦の手が好きだった。

「……数学、難しい?」
「え?」
「いや、さっきから進んでないみたいだから」
「あ、ご、ごめん!ボーッとしてた!」
「や、全然いいんだけど、俺がわかるとこなら教えるよ」

 見せて、と覗き込んでくる赤葦の近さに、夏の暑さも手伝って目眩がする。心音と体温ばかり上昇して、肝心の頭の回転はこれっぽっちも上がってくれない。第二ボタンまで外されたシャツの隙間から覗く胸元は、ユニフォームとの境目で肌の色が変わっている。額に浮く汗が色っぽい。まるで変態だ。確実に、一般の女子高生が考えることではない。

「……、大丈夫?」
「えっ、あ、うん!」
「わかりにくかった?」
「ううん、そんなことない!」

 赤葦は時間がないのに、純粋に親切で教えてくれているのに、その説明を聞かないなんて馬鹿のすることだ。この馬鹿め。暑さも緊張も頭から振り払って、赤葦の説明を聞くことに集中する。大好きな手がノートひとつを挟んだ距離にある。赤葦の説明する数学の公式を覚えながら、その爪の形まで一緒に記憶してしまう自分の頭を殴りたくなった。仕方ないじゃないか、恋は下心、愛は真心というなら、こちとら全力で恋する乙女だ。下心しかない。こんな距離で赤葦と接すること機会なんてもうないかもしれないのだ。公式も赤葦の匂いも今記憶しなくてどうする。

「わかった?」
「わかった!解けたよ!」

 解答を全て書き終えて顔を上げたら、思いのほか赤葦の顔が近い。こんな距離で微笑まれたら、つい今しがた頭に入ったばかりの公式がまた遠くへと旅立ってしまう。彼の微笑みをマスコミのカメラマンのようにバシバシと記憶のフィルムに焼き付けた脳みそに、三角関数の入る隙間なんて全く残されていなかった。

「数学、終わったよね。ごめん、俺も早く終わらせるから」
「そんな、いいよ!時間ないのに教えてもらっちゃってごめんね。あ、もしよかったら課題持って帰ってもらってもいいし、新学期に持ってきてもらえば問題ないんだし、さ……」

 けれどそうしたら、赤葦とこうして過ごす時間は終わってしまうのか。馬鹿なことを言ってしまった。口から滑り出た言葉を恨みながら、役割を終えたシャーペンを弄ぶ。これでもう、夏休みが終わるまで赤葦には会えない。全開の窓からちっとも気配のなかった風が、今になって二人の間を吹き抜ける。バサバサとページを送っていく課題を押さえる手に、大きな手が重なった。どくん。心臓が跳ねる。木兎さんの隣にいたらあまりそうは見えないけれど、赤葦の手も、ちゃんと男の子の手だ。

「……それだと、意味ないんだよね」

 重なる手が、熱い。どういう意味。そう聞きたいのに、言葉が上手く出てこない。そろそろと視線を上げれば、赤葦が困ったような表情をしていた。その目尻が、少し赤い。それが夏の暑さのせいだけじゃなければいい。風に煽られたシャーペンが、床に落ちて転がった。急に目の前に現れた、この大きな問題の答えを見つけたら、たぶん二人の間にはもう何もいらなくなるんだろう。





(2015/5/24)