ピンクゴールドの夕焼け




第一印象は名前だった。ガタイと顔に似合わない、綺麗な名前の響き。たまたま見えたプリントに、丁寧に書かれた文字の並び。苗字と合わせてもとてもしっくりくるその名前は、一瞬で頭に刻まれた。それから三年間、呼ぶ機会は全くないわけだけれど。

「松川ぁ」
「おう、。なに?」
「委員会のプリント!あんた忘れてったでしょ」
「あ、やべ、サンキュー」

松川一静。一年のときに同じ委員会になってから、何故かよく話すようになった。プリントに書かれた名前が印象的で、ずっとその名前の響きを口にしたいと思うのに、三年で同じクラスになった今でも、一度も呼べないままでいる。三年でも何故か二人とも同じ委員になって、委員会で遅くなったときには、松川はいつも家の近くまで送ってくれる。ぶっきらぼうに見えるけれど、実はとても情に篤い。それに加えて義理堅いので、男友達が多い理由がよくわかる。特に会話があるわけではないが、松川と歩くこの帰り道は、いつもより少し特別で好きだった。隣を歩く松川は、大股でゆっくりと歩を進める。たぶん、合わせてくれているのだろう。松川のそういうところが、心地よかった。

「松川って、綺麗な名前してるよね」

日が長くなってきた。遅くなった帰り道でも、まだ空は赤い。青葉城西の制服が夕焼けに染まる。松川はよく、青城の制服が似合わないのだと愚痴をこぼすが、夕焼けに染まったその制服は、彼にぴったりだ。一静。この物寂しげな時間は、その名前にもよく似合う。そんなことを考えながら自由奔放な彼の癖っ毛を横目で見ていたら、ずっと思っていたことをポロッと口にしていた。松川は突然のその言葉に何度か目を瞬いた後、ふ、と苦笑する。

「ああそれ。似合わねーってよく言われる」
「そんなことは、ないけど」

初めて見たときはその見た目に、似合わないと思ったけれど、松川に近付くごとに自分の認識が間違っていたことに気付く。下がった眉と、拗ねたようにも見える口元。ぶっきらぼうだけど優しい性格。そのどれも、一静の名前に相応しく思えた。こうして何も言わず、歩調を合わせてくれることも。遅くなったらいつもさりげなく送ってくれることも。月曜しかない部活休みが潰されるにも関わらず、人気のない委員を引き受けてしまうところも。ちょうどいつも二人が別れる交差点まで来たところで、松川は手を上げた。

「じゃ、、気ィつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。また明日」

帰り道の途中だ、なんて言うが、この後松川が横断歩道を渡って、こちらがもう後ろを向いているのを確認しながら、反対側の道を戻っていくのを知っている。あまり知られていないかもしれないけれど、彼は、とても優しい。そしてそれは、あまり人に教えたくはなかった。胸の内に静かに秘めて、たいせつにしまっていたい。松川が自分に向けてくれる優しさは全て、自分だけのたからものだ。家に帰って、自分の部屋のベッドに制服のまま身体を埋める。

「……一静」

枕に向けて吐き出した名前の響きは、やはりとても美しかった。


*****


高校三年生。受験生。授業中には散々この一年が勝負だ、なんて脅されるが、それは何も受験に限ったことではない。こうして松川と同じ委員会に出ることができるのも、授業中に何気なく松川を見ることができるのも、週に一度、こうして二人で帰るのも。全てこの一年で終わってしまう。帰り際に先生にまとめて渡された二枚のプリントの、丁寧に書かれた四文字。それを目に焼き付けながら、松川に一枚を返した。

「松川、プリント」
「ああワリ」

昇降口でスニーカーとローファーに履き替えて、帰り道を歩き出す。青城の制服にスニーカーは、確かにあまり似合っていなかったけれど、それでも松川にはローファーよりもしっくりして見えた。欲目も多分に入っているとは自覚している。

「さっきプリント見てて思ったけど、私一年のときから、松川の名前覚えてたんだ。綺麗な名前だなぁって」

何度言ったってこの話題に飽きることはおそらくないのだが、松川は若干呆れたように笑った。

「またその話?」
「だってほんとに印象的だったんだもん」
「そんなに褒めてくれんのは嬉しいけどさぁ」

松川の頬が、夕陽色に染まる。照れているのだろうか。今なら、頼んでも受け入れてもらえるような気がして、冗談めかしてお願いしてみることにした。心拍の上がる心臓を宥めて、なんでもないような声を出すことに全精力を注ぎ込む。

「ね、名前で呼んでもいい?」
「ダーメ」

似合わねーし、と笑って口にする彼には、そんなことないと何度言っても受け入れてもらえそうにない。友人として、かなり距離は近くなってきたけれど、それでも名前を呼ばせてもらうには足りないようだ。あと一歩。その一線の先へと進みたいのに、なかなかそうはさせてもらえない。松川はこちらをちらりと見やって、また笑う。

「んな残念そうな顔すんなって。じゃあ、交換条件」

松川の歩調が、少し早くなる。パースが違うから、やはり早くなると隣を歩くのは難しい。ああ、いつもはやっぱり合わせてくれてたんだなぁ。松川の後ろ姿になんとか追いすがりながら、彼の優しさを改めて噛みしめる。夕焼けに染まる青城の制服。松川は空の色に溶けてしまいそうだ。

「これから毎日一緒に帰って、たまには休日とか委員会が終わった後に一緒に遊びに行ったりすると、今なら俺の名前を呼ぶ権利が付いてきます。お買い得」

まるでスーパーの店員さんや、深夜の通販番組みたいな売り文句。その言葉を噛み砕いて、今度はこちらが笑ってしまった。

「なにそれ、彼女みたい」

そんなわけがない。そんな都合のいい話があるわけがない。期待しそうになる心に言い聞かせる。お腹に巻いてスイッチを押すだけでウエストが引き締まる、今なら太もも用もついてくる、みたいな。そんな通販の売り文句に踊らされて買った商品では、結局ウエストもくびれなかったし太ももも引き締まらなかった。お年玉を無駄に使ってしまったことを後悔しながら、都合のいい話なんてこの世にはないんだなぁ、と高校生にして実感した出来事だった。だからきっと冗談なのだ。立ち止まった松川にようやく追いついて、隣に並ぶ。

「松川?」

どうしたの。そう声をかけようとして、その瞬間に身体の動きが全て止まってしまった。心臓だけが、こんなときにも全身に血液を送るために大きく脈動する。松川の制服は夕焼けに染まっていたが、その頬を染めるのは夕焼けだけではない、朱色。

「……そういうつもり、なんだけど」

大柄な背を丸めて、拗ねたように尖った唇から、それはそれは弱気な小さな声が聞こえた。ボソボソした聞き取りにくい声だったというのに、大型トラックにでも撥ねられたような衝撃が、17歳の心をぶっ飛ばした。

「呼んでくれねーの?」

撥ね飛ばされてアスファルトに叩きつけられた心を蘇生するのに必死すぎて、言葉のひとつも発せられないでいると、松川がさらに言葉を重ねる。そんな大きな体で、子どもみたいな顔をしないでほしい。衝撃が大きすぎて、言葉が継げなくなる。深呼吸をひとつ。吐き出す息とともに、なんとか声を絞り出す。

「……呼んでいいの?」
「条件、飲んでくれるなら」

ずっと呼んでみたかった。こっそりひとりで口にしていた響き。

「……一静」

その名前はやはり、この物寂しげな時間によく似合う。呼んだ名前が静かに溶ける夕焼けの中で、拗ねた顔をした松川がようやく少し、笑った。





(2015/6/20)