不時着した楽園



 グラウンドに面した窓が大きく開いている。二口が開けたドアに向けて吹き抜ける風が、バサバサと白のカーテンを揺らしていた。ドアを閉めると、行き場をなくした風が室内に充満して、勢いをなくした。窓も同様に閉める。それでもわずかな音とカーテンの揺れが止まないのは、頭上から冷たい空気が流れ込んでいるからだ。エアコンで心地よい温度に調節された部屋で、冷房つけっ放しのまま窓を開けるなどという地球に優しくない暴挙。それを行うひとを、二口はひとりしか知らない。おとなしくなったベッドを仕切るカーテンを開け放ち、そこの住人を見下ろした。

せーんぱい」
「また、あんたか。二口」
「残念、また俺でした。先生は?」
「会議だって。で、今度はどこ?」
「足首、着地するときにドジっちゃって」

 保健室の先生は、放課後よく彼女に任せて保健室を空けている。保健委員で、帰宅部で、サボリ魔。保健室の主とでも言うべき彼女に、バレー部に限らず、運動部の連中は大抵一度はお世話になっている。ベッドのひとつで横になっていた彼女を起こすために手を差し出せば、簡単に重ねてきた。それだけで、単純な心臓はどくんと跳ねる。布団をかぶっていたというのに、冷たい指先。冷え性なのか、運動して血の巡りが活発な二口の手とは正反対に温度のない手は、起き上がると同時にするりと離れた。彼女が慣れた様子でテープやアイシングの袋を用意するのを眺めながら、椅子に腰掛ける。少し熱を持った足首に「捻挫だろうけど、痛くなるようなら病院行きな」と声をかけ、丁寧にテーピングしてくれた。ヒヤリとした感覚はアイシングだけではなく、わずかに触れた彼女の指先も、やはり冷たいままだった。

先輩って冷え性?」
「まあね」
「俺があっためてあげよっか」
「ありがとう遠慮しとく」
「ばっさりいくなぁ」

 いつもの軽口を叩くように、冗談みたいに口にするのは、それを断られるときのダメージを軽減するためだ。本当は八割くらい本気なんだけどなぁ、と足をブラブラさせていたら怒られた。おとなしく安静にして、アイシングを当てる。その間にも何人か怪我人がきて、彼女はその都度適切な処置をしていた。地味で、色気もなくて、愛想もどこかに忘れてきたような顔をして、校則なんてあってないようなものなのに、スカートなんて膝丈で。そんな彼女にどうして惚れてしまったのかと、二口は膝に頭を埋めながら考える。

「……先輩って愛想ないスよね」
「まあね」
「ほら、先輩、女の子は笑った方が可愛いって言うじゃん」
「別に二口に可愛いと思われても、ねぇ」
「……そんな見るからに呆れきった顔で、地味に傷つく回答やめてもらってイイデスカ」

 おそらく彼女は二口が実際に傷ついているなんて、おもってない。ただのいつもの軽口の応酬。それに胸を痛める方がおかしいのだ。ふてくされた二口を慰めるように頭をぽんぽんと撫でて、ベッドへと戻っていく。惚れた弱みか。たとえ地味で色気も愛想もなくても、こんな小さなご褒美で、お菓子をもらった幼子みたいに簡単に喜んでしまう。普段愛想がないから、余計になのかもしれない。ツンデレってこういうことなのだろうか。普段部活の先輩たちにそう揶揄され反発することも多い二口だが、自分が彼女と同じ属性に分類されるのであれば、それも悪くない。末期だ。

先輩、俺先輩の笑った顔見てみたいんですけど」
「面白くもないのに笑えないでしょ」
「面白かったら笑ってくれるんスか?」
「面白かったら、ね」

 彼女が戻ったベッドの端に腰掛けて、その体重分ぐしゃりとシーツが乱れる。熱をもった足首と同じくらい、首元から耳の奥まで響くように、心臓の音が大きくきこえる。けれどたぶん、彼女の心臓は、その指先と同じくらい、冷え切っているに違いない。

「……なんで、俺が先輩の笑った顔見たいと思うのか、とか、気にしたことあります?」

 真夏の不快な暑さの中で、唯一快適な温度に調節された空間。白のカーテンで仕切られたこの小さな箱庭は、二口にとっての楽園だった。今でこそ個性として認められて、むしろからかわれることの増えた生意気な性格は、しかし入部当初には目をつけられて当時の三年にはひどく叱責され詰られた時期があった。持って生まれた身長と運動能力でバレー自体がそこそこできたから、余計に。そんなとき、怒りのやり場もない不貞腐れた気持ちのまま怪我を抱えて保健室に行けば、いつも彼女がいた。どうしたの、どこを怪我したの。それ以上深く事情を聞かずにいつも適切な処置をしてくれる彼女に、いつだったか零れるままに現状の愚痴を吐露してしまった。彼女は二口の言葉が終わるまで、何も言わずにじっと聞いてくれていた。

『……君がほんとに敬意を持っているんなら、たとえ生意気だろうとその敬意は伝わるはずだけど』
『……敬意?』
『たとえ一年だろうと二年だろうと、それだけ君より長く部を支えてきたのはその先輩たちなんだから……敬意は持つべきでしょ』

 君がこの高校でバレー部に入れたのだって、部活を繋いできてくれた先輩たちのおかげ。そう言いながら、テキパキとした動作で救急箱を仕舞って、微笑んだ。

『そうやって考えていた方が、反発するより生きるのが楽でしょ?』

 一年前の夏。校庭は太陽を反射してキラキラと明るく、それに対して保健室は電気もついていなくて薄暗かった。逆光だったが、確かに彼女は微笑んでいた。従順なのか、したたかなのかわからない彼女の言葉は、微笑みと共に二口の胸にストンと落ちた。きっとあれが、はじまりだった。

「俺はずっと、先輩の笑顔見たいと思ってたよ」
「なんで?」
「ほんとにわかんない?」

 いつも冗談みたいに口にして、本気を見せないように過ごしてきた。それは、本音をぶつけて、拒絶されるのが怖いから。よく『この関係を崩すのがこわい』なんていうが、崩すほどの関係すらない。ただ、この白の箱庭から追い出されてしまうのがおそろしい。

「先輩が鈍いの?それとも俺が隠すの上手すぎるの?……ちがうでしょ。先輩は鈍くないし、俺も隠すの、そんな上手くない」

 ベッドに投げ出された冷たい手を取る。じわりと、二口の手の温もりが奪われていく。彼女が振り向いてくれるなら、全て奪われたって構わないのに。

「こんな気持ち、気付かない方が楽だった」

 生きやすさを教えてくれた彼女は、生き苦しさをも与えてくれる。ぐしゃり、乱れたシーツみたいに胸が潰される心地がする。もう冗談にできない。もう誤魔化せない。触れ合って少しだけ汗ばんだてのひらに、彼女がゆるりと力をこめる。

「……二口は、生きるの大変そう」

 痛みに耐えるように刻まれた眉間の皺を反対の手で撫でながら、彼女は楽しそうに微笑んだ。本当に、ずるい。

「誰のせいだと思ってんスか」

 夕陽が白の箱庭を染める。校庭の喧騒が遠くなる。いつの間にか、冷房の音だけが響いている。下校時間が近い。体育館に戻って、捻挫だけでなんともなかったと報告しなければならないのに、胸が苦しくてたまらない。

「私のせいなら、うれしい」

 この苦しみから楽になる術は、彼女だけが持っている。





(2015/5/24)