美しい人のリアル




サーブを打つ前の及川徹は、ひどくうつくしかった。一本の張り詰めたピアノ線のような、薄氷の上に立っているかのような、危ういうつくしさがそこにはあった。空気が一枚の薄い膜を形成して、及川徹の周りを取り巻いている。そんなふうにすら見える。切り取られた空間のように、そこだけ空気が違っていた。そこに立っているわけではないのに息を飲んでしまう。手を固く握って、唇を噛みしめる。ボールが高く投げられて、しなる腕がそれを捉えた。強く、速く、鋭く。相手のコートに突き刺さるサーブ。審判の声が青城の勝利を告げ、ようやく肩の力が抜けた。もう、今日は彼のサーブを見なくて済む。それを見に来ているのに、帰る頃にはいつもそんなことを思う。

及川徹を初めて見かけたのは、中学最後の夏大会だった。女子バレー部の応援の友人の応援に出掛けて、試合会場の体育館を探している途中、体育館の足元の窓を覗きながら確認して。その隣の体育館で行われていた男子バレー部の試合に釘付けになった。エンドラインに立った選手の顔は見えなかったが、その背中から湧き上がる静かな闘志は見える気がした。背中が後ろに反って、その力を余すことなく伝えるように全身の力でもって放たれる強烈なサーブ。一瞬で目を奪われた。気付けば、そこから動けなくなっていて、後から応援に行けなかったバレー部の友人に怒られた。あれからずっと、青葉城西に進学したのちも、彼の試合を見続けている。

及川徹は不思議な人物だった。私生活においては軽薄な振る舞いをするくせ、本当に遊んでいる様子はちらりとも見せなかった。そして、コートの上に立ってボールに触れている瞬間の彼は、普段の彼とはまるで違う。いつも女子生徒たちにするような薄っぺらい言動、浅い付き合い。それを見ているからこそ、あの瞬間の及川はより一層全ての無駄を削ぎ落としたようなうつくしさがあった。ああ、あの男の心に深く喰い込んでいるのはバレーだけなのだと、思い知る。

さん?」
「……及川くん」

二年のクラス替えで同じクラスになってしまってから、何かの拍子に教室で二人きりになると、よく話しかけられるようになった。私生活の彼は無駄なほどに女子生徒に対して声をかける。

「なに?」
「いや、ちょっと気になっててさ。いつも見てるでしょ、試合」
「……うん。バレーの試合は、好きなの」

本当はバレーに興味なんてなかった。あの日の及川を見るまで、ルールも知らなかった。それほどの衝撃だったのだ。あれ以上に壮絶なうつくしさを持つものを、他に知らない。

「ふぅん?俺のこと、見てくれてるのかと思ってた」
「そうだね、及川くんのことも、見てるよ」

試合中の彼は好きだ。あれほど真摯に向き合えるものがあることを羨ましく思う。だが、薄っぺらい笑顔を浮かべて、人の奥底まで覗こうとするような笑っていない目をした彼は、好きではない。会話は上辺だけを撫ぜるようにスラスラとその整った口から零れていく。なのにその視線には目の奥まで覗き込まれるような心地がする。

「ねぇ、さん」
「……なに?」
「俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃ、ないよ」
「そう。ならよかった。あ、練習行かなきゃ。じゃあね」

へらりと手を振って、教室から出て行く彼の背を見届けて、肩の力が抜ける。いつの間にか強張ってしまっていたらしい。やはり普段の彼は苦手だ。

それからしばらくして、もう日課にでもなってしまったように再びバレー部の試合に向かった。白鳥沢学園。ずっと、中学時代から、及川の敵わなかった選手がいるところ。あんなに努力しても、あんなに真摯に向き合っても、届かないものがあるらしい。真摯に向き合えるものもなく、大した努力もしたことがない。だから、報われない悔しさも知らないが。歓声と掛け声の響く体育館。その中で、エンドラインに立つ及川の周囲だけが波ひとつない水面のようにひどく静かだった。きっと彼には今、どんな声も聞こえていない。見えているのはたぶん、向こうのコートに立つ男だけ。

ピーーーーーー。

甲高い笛の音。ボールが及川の手を離れて高く上がる。追いかけて跳躍する身体。全身がバネのようにしなる。全ての力が、腕の先へ、そしてボールへと集約される。鋭い一閃。相手コート、牛島若利の方へと向かったボールは、鍛え上げられた腕に当たり鈍い音を立てる。それでも、不恰好でも、ボールが上がった。上がってしまった。

「レフト!ブロック三枚!」

及川の声が飛ぶ。相手の攻撃は読み切っている。牛島若利のプレイは、及川とはまるで違う。力のみで全てをねじ伏せてしまう。三枚ブロックをものともせず、ボールは青城のコートへと落ちた。コートで跳ねたボールが、こちらの真下の壁へとぶつかる。及川の視線が、ボールを追って。目が、合った。

「試合終了ーー!勝者、白鳥沢学園!」

一瞬だった。すぐ逸らされた彼の目には悔しさが滲んでいる。拍手がちらほらと会場から起こり、すぐに大きな波となった。何人かの選手が涙を浮かべている。胸がキュッと苦しくなる。コートで戦ってもいない、そこまでの血の滲むような努力も知らない、それでも彼らの悔しさが伝染して、目頭が熱くなる。涙だけは零さないように、唇を噛み締めた。泣いていいのは、私じゃない。

さん」
「……及川くん」

次の週の掃除当番で、たまたまゴミ捨てを任された。ゴミ捨て場に向かうまでの道のりには、体育館がある。ヒョイ、と突然扉から現れた姿に身体が強張った。

「この前も来てたでしょ、試合」
「うん」
「……かっこ悪いとこ、見せたね」
「っ、そんなこと」

ない、という言葉は喉につかえた。及川が両手に抱えたゴミ袋をひとつ手にとって隣に並んだからだ。

「手伝うよ。大変でしょ、一人じゃ」
「…ありがとう」

気まずい沈黙が流れる。何か話した方がいいのだろうが、何を話していいかもわからない。あんなにいつも試合を見ていたのに、彼自身のことはといえば、何も知らない。話題のひとつも思いつかなかった。あと百数十メートルがこんなにも遠い。ふ、と及川が笑った。

さんって、いつも真剣に試合観てくれるよね」
「え?」
「こう、肩に力入っちゃってさ。周りの歓声も何も聞こえてないみたいに、ひとりで静かにじっと見てる」

でしょ、と同意を求められても、わからない。肩に力が入ってることは確かだ。そして、及川のサーブの瞬間に音がなくなることも。一体いつ見ていたというのだろうか。こうして言葉として並べられると、自分の観戦の仕方が通常と違っていて、気持ち悪い。恥ずかしくて穴があったら入ってしまいたかった。そんな心境など思いもよらないのか、及川は息をするみたいに言葉を続けた。

「そういうとこが、いいなぁって思ったんだ、俺」

柔らかい声だった。いつもの、上辺を撫ぜるような話し方とは違う。

「……及川くん?」
「だけどさ、さん、俺と話すときすごい警戒するでしょ。岩ちゃんには『お前が嫌われてるだけだろ』とか言われちゃうし、やっぱそうなのかな〜って落ち込んだし、地味に傷ついてたんだよね」

嫌いではない。嫌いであれば、わざわざ毎回試合を観に行ったりはしない。けれどこれが恋かと言われると、それはそれでよくわからなかった。今まで、友人たちと「あの先輩がかっこよくて、好き」なんて話していた単純な好みとはまるで違う。一瞬で自分の世界の価値観が変わってしまうかのような衝撃。これを恋というなら、世の中に溢れる恋愛を題材にした読みものにはひとつも共感できそうにない。及川はゴミ捨て場にゴミ袋をふたつ放り入れて振り向いた。用事は終わったのに、その目に見つめられると足が地面に縫い付けられたように動けなくなる。教室に帰れない。

「でも、いっつも試合で、俺のサーブあんな真剣に見てくれてたから……望みあるかなって、期待してるんだけど」
「えっ、と……」
「俺のこと、嫌い?」
「嫌いじゃ、ない」
「嫌いじゃないなら、好き?」

まるでサーブを打つ直前のように、及川の周りが何も見えなくなる。空気の膜が二人の周りにできたように、周囲の音が遠い。エンドラインのあの瞬間、ボールを見つめるときの、真摯な目。心の奥底まで覗き込むようなその目に、追い詰められる。その静かで凄絶な眼差しは、ときに凶器だ。いつの間にか、頭は小さく縦に振れていた。及川は、眉を下げて、やはりうつくしく笑うのだ。

「ずるくてごめんね、でも、逃がしてあげないよ」





(2015/5/26)