さらば、不可侵の青よ




化学の実験をした。ガスバーナーの空気を調節し、炎の色を赤色から青色へ変える。酸素量が少ないほど炎は不完全燃焼の状態となり赤くなる。酸素量が多ければ、完全燃焼し青く燃える。化学教師の教科書をなぞるような声を右から左へ聞き流しながら、その青い炎を見つめていた。完全燃焼した、熱く、青く、美しい炎。まるで彼のようだ。高校最後のインターハイを終え、来る春高の予選へと向かって突き進む、存外おおきな背中を思う。一年の頃からのクラスメイトである及川徹は、女誑しのひどく軽薄そうな男に見えるのに、強豪校の背番号一番を背負うとき、誰からも反対意見は出なかったらしい。外野としては、むしろ彼の幼馴染の方が主将に向いている性格ではないかと思うのだが、友人として付き合っていく期間が長くなるにつれ、なんとなく『及川を主将に』と推す気持ちも理解できた。女誑しに見えて、告白されて付き合った彼女にフラれる理由はいつも決まって同じだ。バレーばかりで遊んでもらえなくてつまらないから。彼女ができたとして、彼がバレーを疎かにすることはまずなかった。疎かにされるのはいつだってそれ以外のことで、その最たるものは彼の恋人だ。青く美しい炎をその瞳の奥に燃やし、彼が見つめるのはバレーだけ。あれだけの情熱を傾けるものがあるのなら、他が疎かになったって仕方がない。そう思わされるだけの力が、彼のバレーにはあった。あれを見てしまったら、あの、静かに美しく燃える青い炎に触れてしまったら、一瞬で心の奥まで全て燃え尽くされてしまう。だから過去に一度練習を見に行って以来、彼のバレーを見に行ったことはなかった。あの炎に、触れたら終わりだ。心のどこかでそう思っていた。

「高校最後のインターハイだし、暇なら見に来れば?」

触れたら終わりだ。わかっていたのに、彼に誘われれば断る理由もなかった。結果、三年間耐えに耐えて友情を守ってきた心は呆気なく燃え尽くされたのだ。あの、青い炎に。普段軽薄に見えるあの男が、あれだけひたむきに、ただ純粋に情熱を傾けるその姿に。三年間ずっと自分を誤魔化して、惹かれる気持ちをなかったことにしようとしていた努力は、あっさりと灰になった。及川は基本来るもの拒まず去るもの追わず。今付き合っている彼女がいなければ恋人になることは意外と容易い。けれど疎かにされる中でも、友人関係についてはそれなりに手を回してくれるものだから、敢えてこの関係手放すつもりもなかった。彼を煩わせるだけの恋人という肩書きなら必要ない。それより、気兼ねなく付き合える友人関係の方が気楽で確かだ。たとえその間に及川に何人彼女ができようと、気にしなければいいだけの話だった。

はさ、好きな人いないの」
「何、急に」
「いやなんとなく」

及川が高校三年になってから三人目の彼女にフラれた後、月曜日の放課後に日直が被った。突然に振られたその話題に、自分の気持ちが見透かされているのではないかと不安になる。動揺を見せないよう日誌にペンを走らせながら、及川の様子を伺った。

「及川は?好きな人いないの。彼女、いつも告られた人ばっかでしょ」
「だって彼女ができても、優先してやれないのわかってるのにこっちから付き合ってなんて言えないでしょ。バレー優先でいいから付き合ってって言われたら付き合うけど」
「へー意外。及川のくせにそんなこと考えてたんだ」
「どういう意味!?」

それは問いかけに対する答えのようで、答えではない。好きな人がいるともいないとも言わない。及川はいつもそんなところがあった。曖昧にはぐらかされる言葉たちに踏み込もうとしても、いつの間にか躱される。大して深入りも出来ないまま、上辺だけを撫でる会話。これでも彼の一番の女友達らしいのだから、及川の友人付き合いが心配になる。及川は先生に頼まれたプリントの束を適当にホッチキスで止めながら、不意に二人しかいない静かな教室を見渡した。

「ところで、いつも一緒に帰ってる子どうしたの。最近一緒に帰ってなくない?」
「ああ、あの子彼氏できたから、最近は彼氏と帰ってるよ。彼氏の方は夏で部活引退したらしくて」

夏のインターハイ予選に敗退して部活を引退した多くの生徒たちは、夏休み前に一度告白ラッシュを迎えるようだ。それまでに付き合っている恋人たちもいないわけではないが、やはりそれなりに部活に注力している彼らを邪魔したくないと、好意を寄せる女の子たちは彼らが引退するまで待っている。そして、随分と長い間淡い好意を寄せていた相手に告白して、見事彼を射止めた友人は、ここのところずっと彼氏と登下校していた。その代わりといってはなんだが昼ご飯は一緒に食べているし、ずっと彼に思いを寄せる彼女を見てきたのだから、上手くいってくれて嬉しい気持ちの方が大きい。及川は自分から聞いてきたくせに、さして興味もなさそうにホッチキスを止める手元に視線を落とす。

「ふーん、じゃあ帰りぼっちなんだ。可哀想だね」
「別に。あの子が幸せそうにしてたら嬉しいし、やっと好きな人と付き合えたんだから、お祝いしてあげたいくらいだよ」
は彼氏いないのに、随分寛大だね」
「うるさい。余計なお世話」

長い睫毛が影を作る整った顔立ちを見やり、は小さく息を吐き出す。おおきく膨らみかけた胸の奥の風船の空気を抜くように。そうやって、いつも自分を誤魔化すのだ。

「大好きな友達に彼氏が出来たんだから、そりゃ祝うでしょ」
「へー。なら、俺に本当に好きな彼女ができたときも祝ってくれる?」
「当たり前じゃん」

平静を装うのが、この頃は一段と上手くなった。一拍も置かずに彼の言葉に笑顔で返せた自分を褒めてやりたい。及川も今は彼女がいない。また誰かに告白されたら付き合うこともあるのだろうが、それだっておそらく春高を終えてからだ。こんな性格の男だから、すぐにそんな彼女ができるとは思わないけれど。彼にもし。もし、本当に好きな彼女ができたとしたら。おめでとう、と笑って言ってやる。そして、その後独りになったら、泣いてしまうかもしれない。

「友達の幸せは、望んであげるもん?」
「そりゃ、そうでしょ」

及川はいつの間にかホッチキスを置いて、こちらを見ていた。陽が傾くのが早くなって、オレンジに染まる教室の中で、及川が目を細める。その奥にちらちらと揺らめく青い炎が見えた気がして、は息を飲んだ。

「じゃあさ、は彼氏作らないでね」
「はあ?なんでよ!」
「俺の幸せ、望んでくれないの?」
「あんたは私の不幸を望むわけ?」

触れたら、終わりだ。警告音が身体中に鳴り響く。及川は机の上にプリントの束を雑に重ねると、の方に向き直る。彼との間の距離は机一個分。それを無くすみたいに、及川は机の上に肘をついて身を乗り出した。とっくに書き終えた日誌を、及川が机の隅に追いやる。触れたら終わりだ。わかっているのに、目が逸らせない。

「彼女ができても優先してやれないのわかってるのに、付き合ってなんて言えないから、友達でいいって思ってたけど。でも、お前に俺以外の彼氏ができても、やっぱり祝えない」

そうやって最大級の爆弾を落として、及川は最上級の笑みを浮かべた。

「だからは、彼氏作らないでね」
「何、それ」
「のろい」

好きな人がいるともいないとも言わない。及川はいつもそんなところがあった。曖昧にはぐらかされる言葉たちに踏み込もうとしても、いつの間にか躱される。大して深入りも出来ないまま、上辺だけを撫でる会話。それがいつものことだったのに。こんなときばかり、及川の声は強く深く、この身に抜けない楔を打ち込む。

が、俺以外見えなくなる呪い」

呪いと言いながら、願うようでもあるその切実な声に、胸が締め付けられる。目の奥に揺れる青とは反対に、及川の目元は教室に射し込む夕陽よりも赤く染まる。より一層冬が近づき、春高が始まって終わって高校を卒業しても、及川のバレーは終わらない。この男の情熱はそんなところで尽きはしないだろう。けれど、いつか。いつか、完全燃焼した、熱く、青く、美しい炎が燃え尽きたとき、彼の隣にいたいと望むことはできるのだろうか。躊躇いながら机の上に置かれた綺麗に整えられた指先に触れると、及川の指がこちらの指に絡まった。指先に心臓があるのかと思うほど、おおきく脈を打つ。呪いにかけられた心臓は、きっと及川以外に鼓動を速めることはない。触れた青に、心はとっくに焼き尽くされている。





(2016/12/12)