君の視線の先の人




窓際の席になって、ちょうど二週間。月曜日の五時間目。集中力も落ちて、眠気もピークの時間帯だというのに、赤葦のクラスはよりにもよって眠気を誘うと評判の古典の授業が入っている。けれど赤葦はその時間が嫌いではなかった。ただし見ているのは、黒板ではない。
校庭では、三年生がはしゃいだ声を上げている。もう受験勉強も追い込みにかかる時期だ。通常の体育の授業を行うのはやめにしたのだろう。三年生たちは日頃の鬱憤を晴らすかのように、ドッヂボールに興じていた。その生徒たちの中にいつも通り元気すぎる姿を見つけたので、それが木兎のクラスだとわかる。クラスの中心になって声を上げて、笑って、飛び跳ねて、ボールを投げている。どこにいても、何をやっていても、スターっていうのは目を引くものだな、と思う。そして、赤葦と同じように、彼をじっと見る目に気がついた。
前の席の、クラスメイト。。教科書を立てて、背筋を伸ばして、ちゃんと授業を聞いているふうを装いながら、窓の外に目を向けている。視線の先は、赤葦と同じだ。彼女は綺麗な黒髪を下の方できっちり二つに結んでいて、派手じゃない眼鏡に校則通りの膝丈スカートの、真面目そうな女の子だった。いつも教室で見ている限り、彼女は感情の起伏が大きくなく、何にでも真面目に取り組むけれど、部活にも入っていないし、特に何かに打ち込んでいるような印象はない。なんとなく、わかるな、と赤葦は納得する。
彼女は数年前の自分だ。自分が好きでも嫌いでもないものに、本気で打ち込んでいる。真っ直ぐに、ひたすら真っ直ぐに。人から言われたことだけを真面目にこなしてきた人間には、木兎みたいな人が一番眩しく映る。あんな人は、なかなかいない。

だから、見る目があるな、と思った。最初はただ、それだけだった。

次の月曜日、彼女はまた窓の外を見ていた。今日は何をしているのだろう。赤葦もつられて窓の外に目をやる。木兎は校庭にあるマウンドに立っていた。今日はソフトボールをするらしい。野球部だっているだろうに、当たり前のようにマウンドに立っているその姿に密かに溜息を吐く。きっとピッチャーをやりたいと駄々をこねたに違いない。とは言え、元々の運動神経が良いからなのか、その姿はなかなか様になっていた。三振も一つ取って、攻守交代。木兎に打席が回ってきた。四番だ。正直言って、欲張りすぎだ。クラスメイトも彼を甘やかしすぎだろう。ツーストライクスリーボール。ピッチャーにとってもバッターにとっても緊張の漂う一球。ピッチャーの投げた球が、木兎の肩に当たった。

「あ」

声を出したのは赤葦ではなかった。彼女は慌てて口を覆うが、それほど大きな声ではなかったので、眠りに誘われている他のクラスメイトたちは気付いていない。それでも気になったのか、彼女はそっと後ろを振り向いて、赤葦の方も確認する。ほんの少し眉を下げて、赤くなった顔。眼鏡の奥の瞳が、不安と心配の色をしている。木兎は肩を叩きながらピッチャーに笑いかけ、デッドボールで塁を進めていた。特に問題はなさそうだ。

「多分大丈夫」

赤葦は前の席に近くなるように身を屈めて、声を顰める。球速もそんなに出ていなかった。青あざくらいにはなるかもしれないが、それくらいで木兎のパフォーマンスが下がるとは思えない。だから心配しなくても大丈夫、という意味を込めて頷いてみせると、彼女は少し恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。その瞬間、赤葦の心臓は何故か跳ねた。彼女はあまり表情が豊かな方ではなくて、そういう部分も赤葦に似ている。そんな彼女が見たこともない表情で柔らかく笑ったから、ちょっとびっくりしただけだ。そう思えたら、どんなに楽だっただろう。

「あれっ?なんか今日赤葦顔赤くね?風邪とか引くなよー!?」
「引きませんよ。木兎さんこそ風邪……引きませんね」
「おう!俺風邪引いたことねーから!」
「あーあ、木兎のやつ、馬鹿って言われたの気付いてないぜ」
「そりゃ木兎だからな」
「なんだと!?ききずてならんな!」
「なんでだろ。聞き捨てならんが平仮名で聞こえる」

木葉や小見の揶揄う声に反応して、そちらへ向かっていく背中から目を背けながら、赤葦は片手で顔を覆う。彼は意外と、人を見ている。赤葦の心情まで見透かされることはないのが、唯一の救いだ。気付かれた相手が木葉や小見なら、誤魔化しきれなかったかもしれない。多分、感情を大きく揺らすことが少ない自分が恋に落ちるとすれば、それは木兎のようなタイプだろうと、赤葦はなんとなく思っていた。無条件に人を惹きつけてやまない、眩しくて目が逸らせない、そんな人だろうと。まさか自分と同じようなタイプの、自分と同じ人に憧れる女の子に、一瞬で恋をしてしまうなんて思わなかった。

月曜日の五時間目。窓の外は雨が降っている。前の席の彼女は黒板を写しながら、ときどき寂しそうな瞳で窓の外を見つめている。赤葦も窓の外に目をやるけれど、外はいつもよりもずっと暗くて、窓ガラスに反射した教室ばかりがよく見えた。眠気に抵抗して舟を漕ぐ者、諦めて机に突っ伏している者が大半を占める中、窓の外を見つめているのは赤葦と前の席の彼女だけだ。不意に、窓ガラス越しに目が合った。彼女は少し驚いたふうに目をまるくして、そうしてまた恥ずかしそうに微笑んだ。あのときのことは気のせいだったと思いたいのに、赤葦の心臓は性懲りもなくまた跳ねる。ああ、やっぱり。自分は彼女に恋をしているのだと、何度だって思い知る。大半が夢の世界に旅立って、私語すら聞こえない静かな教室の中で、老年の古典教師の声だけが朗々と響く。

「和泉式部は、他にもいろいろと和歌を遺しています。つれづれと、空ぞ見らるる、思ふ人、天降り来むものならなくに。これは、物思いにふけって空を見てしまう。私の想い人が、天から降ってくるわけでもないのに、という意味で」

教科書にも載っていない、そんな雑学を披露しても、聴いている人間は僅かだ。誰もいない校庭を見つめながら、彼女はどういう気持ちでこの話を聞いているのだろう、と考える。黒板の方を向いている彼女の表情が見えないことを、少しだけ残念に思った。

「あーかあし!」
「うわびっくりした。なんですか木兎さん」
「全然驚いてなくね!?赤葦が珍しくボーッとしてたから声かけただけだけど」
「ああ、すみません。今日の晩御飯何かなと思って」
「俺んち今日カツカレー!」
「そうですか、いいですね」

木兎の気を逸らしながら、赤葦はそっと溜息を吐いた。訳もなくずっと体育館の天井を見上げていれば、木兎でなくとも不自然に思うだろう。今が二人だけの居残り練習の時間で良かった。古典の時間に耳に入ってきた和歌が、頭の中でリフレインする。上を見上げたって、そこに彼女がいるわけじゃないというのに。千年も昔から、人の行動はほとんど変わっていないらしい。
明るくて、前向きで、やりたいことをやれるようになるためなら、ひたすらに努力することが当たり前で、誰よりも真っ直ぐで素直で眩しい。ひと目で惹かれた。彼と出会えて、共にバレーが出来ただけで、梟谷に入って良かったと思えた。多分一生、赤葦の憧れはこの人だけだ。いろんな意味で、絶対に敵わないと思う。

だからきっと、赤葦の片想いは実らない。

「木兎さん」
「ん?」
「もし木兎さんが、絶対無理な相手に片想いしたらどうします?」
「え、絶対無理なの?」
「はい……多分」

願望が出た。百パーセント、どう足掻いても無理だとは思いたくない。そう考えている時点で、赤葦の中で答えは出ている。木兎は腕を組んで上を向く。

「んー、俺なら諦めない!本気でぶつかって、絶対振り向かせる!本気でぶつからずに諦めるのとか絶対嫌だね!後悔するに決まってる!」
「そうですね。俺も、そう思います」
「だよな!あれ?つーか赤葦、それって」

流石に気付かれただろうか。それでもいい。赤葦の中で既に答えは出たのだから。そう思っていると。

「もしかして俺が好きって話!?」
「一回生まれ直した方がいいんじゃないですか」
「ひどっ!!つーか生まれ直して女の子になったら俺絶対美女だかんな!?」
「ぼく子さん、早く片付けないと置いて帰りますよ」
「キーッ、赤葦くんったらつれないんだから!」

斜め上の答えを弾き出してくれた木兎を置いて、帰り支度を整える。次の月曜日には、たとえ絶対に敵わなくても、気持ちだけは伝えよう。そう決意する。それに彼女だって、木兎に気持ちを伝えそうな気配は見えない。もしそのまま諦めるつもりなら、赤葦にだって脈がないわけじゃない。

次の月曜日はすぐにやって来た。また、朝から雨が降っている。運動場は使えそうにない。雨の場合の外の体育は自習になるんだったか。木兎はきっと残念がっていることだろう。その分、放課後の練習に力を入れてくれるからいいのだけれど。

「また雨で、残念だね」
「え?」

窓の外を眺めていた赤葦は、かけられた声に驚いた。前の席には、いつの間にか彼女が座っている。昼休みも、もう終わりかけの時間になっていた。眼鏡の奥の瞳が、窓の外を見つめて寂しそうに伏せられる。そんな姿にも、心臓のあたりがギュッと締め付けられるような心地がした。最初は、彼女の気持ちがわかると思ったはずだった。木兎はスターだ。目を引く。心奪われる。それは仕方ないことだと思っていたけれど。

「残念なのは、俺よりさんじゃないの?」

つい、意地の悪い言い方をしてしまって、赤葦は慌てて手のひらで口元を覆った。彼女は少しだけ驚いた顔をして、何かを誤魔化すように笑った。

「うん、そうだね。木兎さんって目を引くから、つい見ちゃう。赤葦くんも、そうでしょう?」

確かに木兎は目を引く。心奪われても仕方ない。赤葦だって、そうだった。けれどそれは憧れで、決して胸を締め付けるような恋ではない。

「いや、俺が見てるのは」

言葉にする前に、始業のチャイムが鳴る。起立、礼、着席。その間に教室はしんと静まり返って、老年の古典教師は今日ものんびりと教科書を開く。

「我が恋は、み山隠れの草なれや、しげさまされど 知る人のなき。これは、私の恋は山に隠れている草のようである。山の中の草花が生い繁っているのを人々が知らないように、私の募る思いを知る人もいない、という心を詠ったものです。このように恋の歌が多く残っていることから」

中途半端に投げやられた言葉をどうするべきか。赤葦は少しだけ考えて、腕を伸ばし、彼女の横の窓ガラスに指を当てた。もうすっかり寒くなってしまった外と、暖房の入った中との気温差で、窓ガラスは薄く結露している。授業が始まって早々に夢の世界に旅立ったクラスメイトたちを確認して、赤葦はそこに文字を書く。できるだけ丁寧に、ちゃんとわかるように。たとえ彼女が誰を想っていようと関係ない。知る人のいない想いなど、赤葦にとって何の意味もないのだ。飾らない、たった二文字の言葉。横目でそれを確認していた彼女の首筋が、徐々に赤く染まっていく。伝わったのなら、今はもうそれでいい。次の月曜日からは、窓の外ばかりに意識を割かれることはないだろう。彼女を振り向かせるための時間は、まだまだ残されているのだから。再び結露し始めた窓は、古典の時間が終わるまで、うっすらと赤葦の想いが残されたままだった。





(2019/1/12)