それでも僕らは恋をする



 恋とはまこと、面倒なものである。

 特に興味があろうとなかろうと、及川徹の噂はよく耳に入った。バレー部期待の新人、有名選手、カリスマ性があってイケメンで優しくて、来るもの拒まず去るもの追わず。良い噂も悪い噂も同じくらい耳に入るが、つまりは常に女子の噂に上るくらい、モテるのだ。及川は彼を取り囲むとろけた目をした女の子たち相手に、甘いマスクに負けず劣らずの甘い言葉をよく口にする。その言葉がひどく上辺だけを撫でているようで、笑顔の仮面は本当の顔を隠しているようで、まるで噂だけで形作られた本性の見えない彼が苦手だった。同じクラスではあったがとりたてて会話をするような仲でもなく、苦手に思っていたからといって何も不自由することはなかった。
 一年の秋、ちょうど隣のクラスの女の子と付き合っていた及川の別れ話の現場に遭遇した。遭遇したといっても、向こうは気付いてなどいないだろう。人通りの少ない渡り廊下から、たまたま彼と彼女が見えただけのことだ。会話の内容は聞こえなかったが、彼女が泣きながら何かを訴えていて、及川はそれを静かに聞いていた。最後に彼女が言い捨てた言葉だけが、こちらまで届いた。

「私のこと、好きじゃないなら付き合うなんて言ってほしくなかった!」

 そう言って走り去っていく後ろ姿を見ながら、好きじゃない相手と付き合うというのはどういう心境なのだろうと、単なる興味本位で及川に視線を移した。あれがきっと、きっかけだった。そのとき、及川は感情が一切合切抜け落ちたような無表情で、温度のない目をしていた。ああ、笑顔の仮面の下にはこういう顔が眠っていたのか。はじめて、及川徹という人間が見えた気がした。誰も知らないヒトの本性を覗いた気分。仮面を被った彼は苦手だったが、その向こうにある顔には興味が湧いた。

 それから一年が経った。二年目もクラス替えがあり、及川と同じクラスを熱望する女子生徒など掃いて捨てるほどいたにも関わらず、同じ教室に彼はいた。一年目と同じように大してよく話すわけではなかったけれど、あのときから彼を観察する時間は増えた。一年の頃から何度も席替えをしているのに、及川の近くになることはないが、及川の前方の席になることもない。観察するにはもってこいの距離感が常に用意されていた。
 その日はたぶん、夜更かしをしたのだろう。及川が寝坊したらしい。ホームルームの始まるギリギリに教室に駆け込んだ及川の、いつもセットしてある髪の後ろが一箇所だけ、あらぬ方向へぴょこんとはみ出していた。いつも完璧に整えているイケメンのちょっとした隙。それは教室の女子生徒たちの心を掴んだようだ。及川に話しかけたり、ヒソヒソと「可愛い」なんてはしゃぐ女子はいても、及川に寝癖のことを伝える子はいなかった。男子は男子で、寝癖が逆に及川の株を上げていることなど露知らず、かっこ悪いままでいればいいと思っているのか、こちらも及川の寝癖を指摘する者はいない。おもしろいと思うが、部活に行く頃にはきっとチームメイトの誰かに指摘されてバカにされるんだろう。でもどうせなら、指摘されたときの顔も見てみたい。そのときはまだ、興味本位だった。
 移動教室前の休み時間、教室にノートを忘れたことに気がついた。友人にノートを取ってくると伝えて教室に戻ると、同じく何かを忘れたらしい及川も教室に入ってくる。及川は誰もいないと思っていた教室に人がいたことに驚いたのか、少しだけ目を大きくした。こんなふうに教室に二人きりでも特に話しかけるような仲ではないが、今日ばかりは伝えたいことがある。

「あ、」
「及川」
「え、なに?」
「後ろ、寝癖ついてるよ」
「え!?」

 及川はひどく慌てて後ろ頭に手をやり、寝癖に気付いて大きく項垂れた。

「……早く言ってよ……」

 その言葉自体は責めているように聞こえるが、ただ照れているだけだとわかるのは、及川が耳まで真っ赤になってしまったからだ。片手では隠しようもない顔の赤さと咎めるような拗ねた瞳。
 その瞬間、肋骨の下で、17年間大人しくしていた心臓が、はじめて存在を主張した。

 どくん。どくん。

 青天の霹靂。寝耳に水。急転直下で真っ逆さま。苦手だったクラスメイトが、一瞬で面白い観察対象になったように、ただの面白い観察対象が、たった一瞬で胸のときめきへと姿を変えてしまった。

 恋とはまこと、面倒なものである。

 だからといって、ただのクラスメイトであった関係が進展するわけでもなく、及川徹という人間に対する興味が薄れるわけでもない。部活が本格的になったらしく、及川が彼女を作ることはなくなったが、相変わらずの笑顔の仮面で多くの女子生徒の心を奪っていた。三年に上がってもそれは変わらず、後輩の女子も含めてますます誑かされる人数は増えている。それを本人に伝えれば、誑かすなんて人聞きが悪い、と顔を顰められた。三年に上がってクラス替えはあったが、今回もまた同じ教室に及川はいた。流石に三年連続ともなると、なんとはなしに親近感が生まれるのかもしれない。及川と話すことが少し増えた。増えたといっても、ほんの少しだ。月に一度、日直が一緒になるようになった。そのときだけ、放課後二人で残って作業をしつつ、話すことがある。

「誑かすってさ……好きって言ったって、ファンがアイドルに向けるみたいな気持ちじゃん」
「そうかな、真剣に好きな子もいると思うけど」
「どうだか。だって皆『今好きじゃなくてもいいから付き合って』なんて言うくせに、最後は『好きじゃないなら付き合ってほしくなかった』とか言ってどっか行っちゃうんだよ?」
「ああ、そうなんだ」

 あのときのあれは、そういうことだったのか。二年前の出来事を思い出しながら、喋り続ける及川に適当に相槌を打つ。それはきっと、付き合ううちに好きになってほしかったのだろう。だけど及川は笑顔の仮面を全く取らずに、彼女は内側に踏み込ませても貰えないまま、距離を感じて別れを告げたに違いない。その気持ちは、よくわかる。

「ていうかさ、人のことばっかり胡散臭いとか言うけどだって読めない顔してるじゃん。ポーカーフェイス」
「そうかな。昔から感情が顔に出にくいとは言われるけど」
「そうだよ。三年間同じクラスなのに、俺がちゃんと笑った顔一回しか見たことないもん」
「むしろいつ見たの」

 顔に出ないね、とはよく言われる。表情筋も仕事が少なすぎていつの間にかニートになってしまったのか、最近では写真を撮るときなどに笑っているつもりでも笑えていないことが多い。

「あー、あの、二年のとき」
「え?」
「二年の、ほら、が『寝癖ついてる』って言ったとき」

 あのとき。自分は笑っていたのだろうか。確かに、いつもの営業スマイルな及川よりも、寝癖をつけている彼が男子高校生らしくて微笑ましいとは思ったけれど。寝癖がついていたときのことを思い出したのか、及川があのときと同じような顔をしている。どくん。不意に、心臓が跳ねる。どんなにポーカーフェイスを繕おうとしたって、心臓の音は肋骨を叩いて痛いくらい主張する。この男に、恋をしている。

「あのさ、は、好きなやつとかいるの」
「……なんで」
「俺のことはよく聞くけど、自分のことは言わないでしょ。ズルくない?」

 こんなに近くにいても、心臓の音は自分にしか聞こえないものなんだなぁ、と感慨深く思う。

「いた方がいい?いない方がいい?」

 及川は整った顔を顰めた。眉間の皺が深くなる。美形はこういう表情をすると迫力がある。新しい発見だ。

「そういう言い方、ズルいね。俺よりよっぽど性格悪い」
「そうだね。性格は悪いかも。恋って面倒だと思ってるから」
「ああ、それは、同意見」

 笑顔の仮面を被っている及川と、感情が顔に出ないポーカーフェイスな自分はよく似ている。及川は大きく溜息を吐いた。

「こんなに面倒なら、知りたくなんてなかったのにさ」
「何の話?」
「恋が面倒な話?」
「恋してるの?」

 及川徹が恋。あの他人を寄せ付けない、心を見せない笑顔を貼り付けている男が、恋。それはかなりの衝撃だった。誰にも見せない仮面の内側を密かに知っているのは自分だけだと思っていたが、その相手には見せるのだろうか。心臓が、今までとは違う、嫌な感じの音を立てる。どこかにぶつけてもいないのに、こんなに簡単に胸が痛い。ああ、本当に、面倒だ。痛みを誤魔化すようにボールペンを握り直して、日誌に向き合う。一限目は数学、二限目は世界史。今日の授業を思い出しながら記していく。及川は机に頬杖をついて窓の外に視線をやり、聞いてもいないのにペラペラとよく喋る。

「もう、めちゃくちゃめんどくさいって思ったよ。ポーカーフェイスで何考えてるかわかんないし、恋は面倒とか言うし、滅多に笑わないのに、笑顔が予想外に可愛いし」

 思わず日誌から顔を上げた。及川はあのときみたいに耳まで真っ赤にして、片手で口元を隠している。咎めるような拗ねた目が、こちらに向けられていた。

「ばかみたいって思うだろ?俺だってそう思う」

 面倒なら、恋なんてしなければいいのに。わかっていても、どうしようもなく惹かれてしまうから、恋というものは本当にめんどくさい。放課後の教室に落ちる夕日では誤魔化しきれないくらい赤くなった顔と拗ねた瞳が子供みたいで可愛らしくて、思わず口元が緩む。

「……本当に、めんどくさいやつ」

 仮面の下は、ふたりしか知らない。




(2015/5/24)
お題【及川徹で「ばかみたいって思うだろ?俺だってそう思う」】
Hallow Trickのトーコさんと。
→cf.「ポジティブ・シンカー」