美しさの隙間に




あれは果たして告白と呼べるのだろうか。そして、これは付き合っていると言えるのだろうか。及川徹に告白のようなものをされてから、彼は今までよりも少しだけ、話しかけてくることが多くなった。だが、言ってみればそれだけのことで、彼の言葉がどういう意図だったのか、今更聞くことも憚られた。及川のサーブは相変わらずうつくしい。彼が何を考えているのかはわからなかったけれど、二人の関係もそこまでの変化はなかったから、何もなかったことにしようと思った。そうして何もないまま冬が近付いて、今日も、まるで決められた習慣のように体育館へと向かう。

「及川くーん!頑張ってぇー!」
「きゃー!及川さーん!」

彼に向かってかけられる多くの歓声。その向こうに、へらへらと笑う彼の姿を見つける。口元は笑っているのに目はちっとも笑っていなくて、11月の気温のせいだけじゃない寒さが背中を通り抜けた。歓声とは少し離れた場所から、コートを眺める。練習に戻っていく及川の背中が、不意に振り向いた。びく、と肩が強張る。二人の間には、随分と距離がある。それでも、その目に見つめられると逃げ出したくなる。逃げ出して、しまいたいのに、動けない。視線が外れ、及川がボールを受け取った。クルッ。手の中で回されたボール。彼の目がそっと閉じる。相変わらず歓声は体育館に響いていて、チームメイトの声も多く飛んでいる。なのに、どうだろう。及川の周りの空気は、思わず息を飲んでしまうほど、静かだ。胸の前で握りしめた手に、力が篭る。外の寒さなんて、気にならなかった。及川のサーブは、夏よりも一層全ての無駄を削ぎ落として、磨かれた剣のような鋭さと危うさがあった。及川は負けない。あの力強くて鋭くて、どうしようもないくらいうつくしい一閃が、返されるはずがない。最早盲信に近いほどの想いを抱きながら、そっと体育館を後にした。

さん」

その翌日、なんでもないみたいに声をかけてきた及川に、また体が強張る。それを見て、及川はもう何回見たかわからない困ったような笑みを浮かべた。

「そんなに警戒しないでよ」
「して、ないよ」
「それならいいんだけど……週末、試合があるんだ」
「知ってる」
「うん、そうだね。観に来てくれるんだよね」
「そのつもり、だけど」

及川は、その答えを聞いて静かに笑った。

「そう。よかった」

俺のこと苦手でも、試合だけは観に来てくれるんだね。そう言いたげな視線。心の中を覗き込まれるようで、また身が竦む。彼はしばらくその場で立ち尽くしていた。

「……試合が続く限り、さんは俺を見てくれる」

でしょ、と笑いかけられた言葉に、胸が詰まる。何故こんなに彼が苦手なのだろう。別に、何をされたわけでもないのに。そんな自分が悪いような気さえする。そう、ただ。こちらに伸びてきた及川の手が途中で止まり、離れていった。週末、待ってる。それだけ言って、体育館の方へと去って行く。ただ、及川が何を考えているのかわからないのだ。だからどうしたらいいのかわからない。及川が本心では何を考えているのかわからないのに、自分の心だけが丸裸にされるような気がする。それだから、苦手なのだ、彼が。

その日は、朝早くに家を出過ぎた。ジャケットを着ても肌寒い。陽はまだ昇り切っていない。息が白く染まる。赤いチェックのマフラーを、口元まで上げた。及川はもう起きただろうか。会場には、何時頃向かうのだろう。応援席には、いつ頃入ろうか。そんなとりとめのないことを考えながら、早朝の道を歩く。途中のコンビニでホットコーヒーを買った。活気からは、まだ程遠い街並み。少し靄掛かって、静かで冷たくて、全ての音を飲み込んでしまいそうな光景は、どことなくサーブを打つときの及川に似ていた。ふる、と体が震える。
烏野と練習試合をしたことは聞いていた。及川はほとんど出ていなかったようだけれど、それで負けたことも、知っている。及川がほとんど出ていなかったのなら、それは青城の100%ではなかったはずだ。インターハイでは勝っていた。その試合は、会場でずっと見ていた。だから、心配など必要ない。及川は負けない。確かにそう思っているのに、昨夜はなかなか寝付けなくて、今日は驚くほど早く目覚めた。コーヒーの匂いがする息を吐き出す。白く空気を濁すそれを眺めて、ポケットに手を突っ込んで、また歩き始めた。コンビニの先には学校がある。きっと学校で集まって、バスに乗っていくんだろう。まだ時間は早い。いっそ会場まで歩いていこうか。そんなことを考えていると、見覚えのある姿が目の前を横切った。

「及川くん?」
「っ、さん?なんで……」

こんな朝早くに。そんな疑問がどちらの頭にも浮かんでいることは、火を見るよりも明らかだった。及川の吐き出す息も白い。青城バレー部のジャージは、冬が近付くこの季節によく似合う。学校はまだ静まり返っていて、バレー部の集合時間が近いとは考えられない。及川は観念したようにひと息つくと、足元を見つめて呟いた。

「……今日さ、二試合目、烏野と当たると思うんだよね。和久南も強いチームだけど、たぶんあいつらが上がってくる」
「うん」
「それで、俺は全部勝つつもりだけど」
「うん」

及川は負けないだろう。あの磨かれたサーブも、針の穴を通すようなトスも、強気で攻撃的な姿勢も。全部全部、勝つために与えられたものだと思えた。きっと、もともと凄いだけの人なら、最初からあのサーブにこんなに惹かれたりはしなかった。及川のあのサーブの静けさの奥にあるのは、圧倒的な自信。積み上げた練習を、自分のやってきたことを、そして仲間を信じている。それが、及川のサーブをあそこまで強く、うつくしくする。及川のその、いつも自信に溢れた表情が、わずかに曇った。

「勝つって、思ってるのに、不安になるんだ。あいつらはいつも予想を超えてくる。だから……」

及川が寒さにか、それとも数時間先の試合の見えない相手に対する武者震いか、大きな身を竦めた。あのエンドラインに立つ大きな背中に見える、いつもの静かな闘志と自信はなりを潜めている。

「こんな朝早く目が覚めちゃってさ。かっこ悪いでしょ。だから、見られたくなかったんだけど」

足元に吐き出した言葉はどこか自嘲的で、人の目の奥まで覗き込んでしまいそうな、あのこわい及川とは別人だった。

「ううん、そんなことない」

自分の口から零れた声が、普段よりも明るく聞こえることに気付く。何より及川が、その声のトーンに驚いたようだった。ずっと及川に対しては怯えてしまっていたから、仕方がないのかもしれない。

「私、及川くんが今まで何考えてるのかわからなくて苦手だった。でも及川くんも、普通の高校生なんだね」

よく考えれば、当たり前の答えだ。及川だって生きてきた年数は自分とそれほど変わらない。

「……そりゃ、普通の高校生だよ」

肩を落とす姿が、やはり普段よりも数倍高校生らしく見える。悔しがったり、不安になったり、自信を失くしたりしてみせる、普通の高校生。けれど。今はこんなふうに唇を尖らせて拗ねて見せるが、エンドラインに立った及川は、きっと誰よりうつくしいのだ。

「っくしゅ」

随分と小さなくしゃみが耳に届いた。及川が、身を縮めている。よく見れば、彼はかなり薄着だ。陽が完全に昇れば、そのジャージでも充分なのだろうが。

「及川くん」

首に巻いたマフラーを外して、及川の首にかけた。

「あげる」

ヒールを履いていても、少し背伸びをしなければいけない。ああ、今日はヒールを履いていたから、及川が少し近く見えたのかもしれない。及川は目をまんまるにして、首にかけられたマフラーに手をやった。返されるかな、と心配したが、及川はそれを大事そうにギュッと握りしめただけだった。

「……ねぇ、さん、この試合が終わったら、聞いてほしいことがあるんだ」
「うん」

及川の言葉の先が、期待したものであればいい。今日はいつもより少し、及川の本心が見える気がした。
会場にはやはり早く着いた。一試合目は相手のセッターが不慣れなのか、伊達工との試合を危なげなく勝ち進み、次は及川の言った通りに、烏野との対戦。まずは、及川のサーブ。味方の野次を受けながらエンドラインに立った及川が、一度目を閉じる。周りの音が聞こえなくなる。このうるさいくらいの声援も、及川の耳には届いていないのだろう。思わず膝の上で、手を握りしめた。

ピーーーーーー。

試合開始の笛が鳴る。高く放られたボールと、それを追って跳躍する身体。反った背中、振り上げられたしなる腕。それら全てがボールひとつに集約される。力強く、鋭く、うつくしい一閃。コートの端に決まるかと思われたそれは、相手チームのキャプテンに拾われた。あれを返せる人がいたのか。衝撃のままコートを見つめる。惜しくも、先制したのは烏野だった。及川のサーブは、威力を増した分、今まで打ち分けていたコースの精度は下がっているように見える。ただ、あのサーブを打つ瞬間の、静けさ。誰も反応すらできないほどの、一点突破の攻撃力。鳥肌が立つ。会場の熱気は増す一方なのに、勝手に粟立つ二の腕をさすった。緊迫感の溢れるシーソーゲーム。試合はまだ、1セット目だ。

青城と烏野の試合が終わって、三日が経った。あれから一度も及川とは会っていない。クラスが離れているので、そうそう会うこともなかった。試合が終わった後は声なんてかけられるはずもなくて、チームメイトに囲まれた及川を、遠くから見つめることしかできなかった。応援席に頭を下げた及川が、こちらをじっと見ていたあの目だけを、ずっと思い出している。放課後、大学の過去問題を借りるために訪れた進路指導室から出て、ほとんど誰も使わない狭い階段を下る。きゅ、きゅ、と誰かが階段を登ってくる音がした。途中の踊り場に下りたときに、ようやくその音の正体を知る。及川が、目をまるくして、ばつの悪そうな顔でそこに立っていた。しばらく、二人とも何の言葉も発せないまま、そこに立ち尽くす。最初に口を開いたのは、及川だった。

「……負けちゃった」
「うん」
「かっこ悪いや」
「……かっこよかった」

夏には喉につかえて伝えることのできなかった言葉。かっこよかった。試合の結果が負けだったとしても、コートの中の及川は鳥肌が立って心臓を掴まれるくらい、かっこよかったのだ。及川の手には、あの日渡した赤いマフラーが握られている。

さん、マフラー返すよ」

及川の手で首に回されたそれが、ゆるやかに引き寄せられた。誰も通らない、狭い階段の踊り場。触れた及川の唇は、ちいさく震えていた。驚いた。でもそれ以上に、あんなに自信に満ち溢れて、普段は軽薄なフリをしてみせる男が、こんな触れるだけのキスをするのにもいっぱいいっぱいなその様子を、いとおしいと。そう、思った。胸が、心臓が、ぎゅっと掴まれるような感覚。マフラーの巻かれた首元が、やけに熱い。エンドラインに立った瞬間の真摯な目。それを向けられては、最早逃げることなんてできはしない。

さん、俺のこと、好き?」
「……及川くんは、私のこと、好きなの?」

あのときと同じだけれど、あのときとは違って聞こえる、切羽詰まったような声。及川は、眉を下げたまま、ふっと笑う。

「たぶん、どうしようもないくらい」

言葉の先は、実際に言われてみると密かに期待した答えよりも、余程胸を突いた。

「……私も」

たぶん中学のあのとき、及川のサーブに目を奪われたあの一瞬に、心ごと全部持っていかれていたのだ。それはもう最初から、どうしようもないほど、恋だった。





(2015/8/7)