心だけは夏に置き去り




眩しいくらいの夏の日差しはもうすっかり勢いを失い、うるさかった蝉の鳴き声はいつの間にか消え去っていた。夏の間、青々とした葉を茂らせていた学校前の桜の木は葉を落とし始めている。頬を撫でる風が冷たい。知らぬ間に秋が通り過ぎていく。街中のショーウィンドウには、一足先に冬物の服が並んでいる。
まだ熱いのは、ここだけだ。体育館の前で足を止めた。きゅきゅ、と、シューズが床を擦れる音。掛け声。ボールが床を叩く強烈な破裂音。ギャラリーのいる体育館の二階や入口を避けて、横にある小さな窓から中を眺める。室内の熱気で少し曇った窓から、バレー部の面々が夏と変わらない、いや、夏以上の熱さを抱えてコートを走り回っているのが見えた。サーブラインに立ち、ボールを回す。その手が高く高くボールを放り投げ、渾身の力を込めて脚が床を蹴る。大きく反った背中。力のある腕がしなる。コートを切り裂く一閃。ボールの跳ねる音が体育館に響く。ごくり。喉を鳴らす。
及川徹は夏以上の気迫で練習に臨んでいる。誰が見たってわかる。その及川の気迫に圧されるように、ギャラリーから声は出なかった。頑張れなんて言うまでもない。あれよりさらに頑張れなんて、言えるはずがない。及川が集中を高めるように目を瞑り、息を吐く。その双眸が相手コートを見据える。ピアノ線のように張り詰めたその集中を、黄色い声で乱してはならない。誰が言い始めるでもなく、それは体育館全体に浸透していた。静かだ。見物人が減ったわけではない。及川は、変わらず女子を惹きつけている。けれど、これだけ人が見ているのにほとんどバレー部のメンバーの声しか聞こえない。皆がわかっている。今の及川に、バレー以外が入る隙間はない。だから息を詰めて、ただ彼の練習を見つめている。それ以外に、外野ができることはないから。
及川とは二年連続同じクラスだ。一年生のときから噂は聞いていた。バレーの上手いイケメンがいる。友人が騒いでいたのを覚えている。いつだったか、廊下ですれ違った及川は確かに整った顔をしていた。そのときはただそれだけだった。テレビの向こうのイケメンを見るのと、大して変わらない。目の保養には違いないが、自分には関わりのない人間だ、という印象が強かった。二年生のとき、同じクラスになった。それでもまだ及川は遠い人だった。いつでも人に囲まれている彼を遠目に眺める。ずっと笑っていて疲れないのだろうか。彼に対して思うのはそれくらいだった。印象が変わったのは体育祭の、フォークダンスのときだ。一回りするうちの、ほんの一瞬。彼との順番が回ってきて、手が触れた。その瞬間。

「え」
「ん?」

握られた手のひらの硬さに驚いた。指の付け根が硬くなっていて、けれど、指先はしなやかに柔らかく、こちらの手を包む。一見軽薄にも映る及川の姿から、その手のひらの硬さは容易に想像が出来なくて。

「ごめん、及川くんの手が」
「手?」
「頑張ってる人の手だったから、びっくりして」

それだけ伝えて、次の人へと移る。及川は一瞬きょとんとした顔をして、綻ぶように笑った。

「ありがとう」

たったそれだけ。たったそれだけで、馬鹿みたいに簡単に、恋に落ちてしまったのだ。同じクラスだったから、それから徐々に挨拶くらいはするようになった。さん。及川がそう呼んでいたのが、三年に上がる前には、、と呼び捨てになった。こちらも、及川くんから、及川と気安く呼ぶ。気安く呼んだふりができるようになるまで、煩い心臓の音を彼に気付かれないように、制服の下で宥めていたことは秘密だ。気安く、なんて呼べる訳ない。及川。もう何回も、何十回も呼んだ。たったそれだけの名前を呼ぶのに、未だに心臓は早鐘を打つ。

「及川」
、来てたんだ」
「うん。あ、これ、差し入れ」
「サンキュー!牛乳パンじゃん!なんで?今日なんかあったっけ?」

今日は特別な日じゃない。及川の誕生日でもなければ、クリスマスでもバレンタインでもない。でも、恋する女子高生にとっては特別な日だった。。彼が初めてそう呼んでくれた日を、ずっと覚えている。本当に、馬鹿みたいだ。

「明日からでしょ、試合。激励だよ、激励!」
「試合日程、覚えてくれてんだ。意外と友達甲斐あるよねー、は」
「大事にしてよね。貴重でしょ、こんな優しい女友達」
「大事にしまーす!」

そう言いながら、牛乳パンにかぶりつく。欲を出さなければ、女友達として、及川は自分を大事にしてくれる。誕生日にはコンビニで買った新作のお菓子をくれるし、休み時間に話しかけてくれる回数だって多いし、バレンタインに義理チョコをあげればホワイトデーにちゃんと返してくれる。欲を出さなければ。たった一人、及川の特別になりたいなんて思わなければ。多分、このままずっと、彼と繋がっていることはできるだろう。

「……、応援は?来てくれるの?」
「来て欲しいの?」
「うーん、来て欲しいような、来て欲しくないような」
「なんでよ」

応援、来て欲しくない、なんて言われたら流石に堪える。思わず尖ってしまった声に、及川は苦笑して肩を竦めた。

「負けるかもしれないから」

負けるかもしれないから。及川が今吐き出した言葉をもう一度反芻する。負ける。及川が。頭が理解を拒むみたいに、その言葉が上手く処理できなくなる。黙っている間に、及川は再び言葉を重ねた。

「負けるとこなんて見られたくないでしょ」

長い指が食べ終えた牛乳パンの袋をぐしゃぐしゃに丸めて、その辺のゴミ箱に放る。そうして及川が振り向いてから、ようやく声を出すことができた。

「じゃあ観に行く」
「なんで」
「見られたくないなら、負けなきゃいいじゃん」

まるで怒っているような、可愛くない声。実際怒っていた。負けるなんて、たとえ一瞬頭を掠めたって言葉にして欲しくない。及川にだけは。

「大体、こんだけ頑張ってる人の手しといてさ!負けるわけないじゃん!負ける時のことなんて考えないでよ!」
「ははは、、ずっとそれ言ってくれるよね」
「それ?」
「頑張ってる人の手ってやつ」

及川は、それだけ努力できる人なのだ。へらへらとしながら、天才だと揶揄されながら、及川はいつだって頑張っていた。決してそんな様は見せずに、才能が違うんだという外野の声を笑って躱して、及川は、いつも。だから、負けるはずがない。

「俺さぁ、あれ言われた瞬間に、落ちたんだよね」

及川が、あのときみたいに、綻ぶように笑う。彼はそうして、花のような笑顔のまま、爆弾を放った。

「好きな女の子が応援しに来てくれるのに、負けらんないよねー」
「……どういう……」
「あはは、、真っ赤だよ。可愛いとこあるじゃん」
「及川だって、赤いよ」
「そりゃ、俺一世一代の告白中ですから。赤くもなるんじゃない?」

告白。頭の中で矢印が混線する。なんとか反撃のつもりで放った言葉を、及川はさらに威力を増して返してきた。心臓が痛いくらいに脈打っている。顔が熱い。

「そろそろもっかい、呼び方変わるのもアリじゃない?ねぇ、サン」
「なんでサン付け?」
「照れ臭いからに決まってんでしょ。思春期真っ盛りの男子高校生だよ、こっちは」

欲を出さないと決めたつもりだったのに。たった一人、及川の特別になりたい、という願いは心の奥底に押し込めて殺してしまうはずだったのに。そんなことを言われたら、欲が出てしまう。

「徹」
「うわ、やばい」

多分、気安く呼んだふりは出来なかったと思う。呼んだ瞬間に、胸が熱くなって何故か泣きそうになった。

「応援行くから」
「うん」
「差し入れ持ってく。スポーツドリンクとかレモンの蜂蜜漬けとかでいいの?」
「あと牛乳パン」
「高くつくよ」
「うん、払うよ。八十年ローンでいい?」
「長すぎ!死んじゃうでしょ!」
「うん。だからそれまで」

今度こそ、視界が滲む。ぼんやりした景色の中で、及川の大好きな手が涙を掬っていった。

「バカ」
「うん。俺バカだから、今、負ける気しないわ」

日が落ちるのが早くなったから、夕日に燃えていた空はすぐに暗くなる。頬を撫でる風が冷たい。知らぬ間に秋が通り過ぎていく。冬はもうすぐそこだ。
なのに、顔に集まり続ける熱を冷ますことは出来そうにもなかった。





(2018/7/20)