甘く苦しい息を継ぐ




桜の蕾が、薄く桃色に色づいている。うっすらとまだ雪の残る早朝、通学路の脇にある桜の木が、もうすぐ春が来ることを教えてくれる。まだずっと、来なくてもいいのに。吐く息は白く濁ったままだ。このまま、冬のままでいい。早めについた学校には、人の気配はほとんどない。階段を登って、自分の席に荷物を置いて、一直線に来た道を逆戻り。外に出て、裏門側に回れば、彼がいた。

「松川」

弾む声はたぶんきっと隠し切れない。いっそ気付いてくれないだろうか。そんな期待も込めて見上げた顔は、いつもと同じ、眉の下がった優しい笑みを浮かべていた。

「こんな朝早くに、よく来るなー」
「松川こそ。勉強とか、いいの?」
「んー。まあそこそこ?」

朝早くに二人集まって、ジョウロに水を注ぐ。緑化委員の仕事のひとつ。交代で、花壇の水をあげること。三年は希望があればやらなくてもいいのだけれど、松川は希望を出さなかった。それなら、希望を出すなんていう選択肢は、最初からないも同然だ。

、マフラー巻くならしっかり巻かないと寒いぞ」
「え?わ、ちょっ、松川」

松川は可愛く見えるようにゆるく巻いた赤いマフラーを手に取って、グルグルと首に巻きつけ、後ろ側で結んでしまう。顔の半分がマフラーで埋まってしまった。花の女子高生だというのに、親戚の農家のおばちゃんみたいだ。松川はそれを見て満足げに頷く。

「よし」
「よしじゃないっ」
「ははは」

松川は笑うと顔が幼くなる。背が高くて体格が良くて、性格も落ち着いているから大人びて見えるけれど、こういう悪戯っぽいところもあって。笑った顔は可愛くて、バレーをするときはドキッとするほど真剣な顔もする。知れば知るほど松川は魅力的で、もっといろんな顔を知りたくなった。だけど、松川の魅力を、他の人に気付いてほしくは、ない。花壇に水を遣りながら、目の前で揺れる深緑のマフラーの端を掴む。

「松川もマフラーしっかり巻いてないんじゃん」
「えー?じゃあ、巻いて」

ほら、と言わんばかりに松川が急に屈んで、近くなった顔に動揺する。全く意識されていないのか、慣れているのか。松川はいつも不意に距離が近くなる。早鐘を打つ心臓の音が聞こえないように、動揺を隠しながら、マフラーを手に取った。冬の暗い森の色を切り取ったような、落ち着いた深緑色のマフラーは、彼によく似合う。

「……よし、巻いた」
「なぁ、苦しいんだけど」
「気のせいでしょ」

同じようにぐるぐるに巻いたマフラーから、松川が口を覗かせる。隙間なく巻いた首元は温かい。お揃いになったマフラーは小さな特別感を与えてくれて、胸の鼓動が速くなる。この水やり当番のときだけの、松川とのちょっとしたやりとり。朝早く来て、たまに昼休みも潰れる面倒な委員だから人気はなくて。この一年間、友人たちには気の毒がられることこそあれ、羨ましがられることはなかった。けれど、松川と二人で過ごせる口実のためなら、朝早く起きるなんて全然苦ではない。少しずつ、登校してくる生徒が多くなってきて、この仕事がまた一回、終わりに近付いていく。春なんか、来なければいいのに。性懲りも無くまだ、そんなことを思っている。花壇の向こうによく見知った姿を見つけて、松川がのんびりと声をかけた。

「あ、花巻おはよー」
「おはよーって、お前ら何それ」

花巻はこちらを向くと、マフラーがぐるぐる巻きの二人を見て不審そうに眉をひそめる。それはそうだろう。周りを見てもそんな巻き方をしているのは二人だけだ。

に巻かれた」
「ちがう!最初に松川がやってきたの!」
「あーはいはい、お前ら仲良いねー」
「うん、俺ら仲良しだよね」
「えっ、うん」

仲良し。三年間、同じクラスであれば、自然と距離は縮まった。松川は特に女の子とよく話すようなタイプではなく、男友達の方が多い印象だった。最初は接点なんてまるでなくて、ただ背が高い男の子がいるくらいにしか思っていなかった。男子の名前や顔を覚えるよりも、高校に入ってガラッと変わってしまったクラスの女子グループに馴染むことの方がよっぽど重要な事項だ。放課後や昼休みは友達と遊んだりご飯を食べるために空けておかないと、一人だけカラオケに行けなかったなんてことになっただけでちょっとした疎外感を味わうことになってしまう。だから委員会決めは、放課後や昼休みを潰されたりしないものを、と気合を入れていたはずだったのに、ジャンケンに負け続け、ついに一番人気のない緑化委員になってしまった。そして、と書かれた名前の横に、同じくジャンケンに負け続けた松川の名前が並んでいた。素晴らしくジャンケン運の悪い自分をそのときは呪ったけれど、結果として松川と距離を縮めることができたのだから、今はあのときの自分に金一封でも贈ってやりたい。
早速放課後に委員会が入ってしまい、机を並べた初対面に近い松川に、一人だけカラオケに行けなかったと愚痴ったら、カラオケ好きなの、なんて世間話の延長みたいに聞かれた。そんなに好きじゃないけど、と答えれば、じゃあなんで行きたいの、と純粋な疑問をぶつけられる。行きたいところも、好きなことも、全部合わせないといけないような関係を、本当に仲良しと呼べるのだろうか。そんな友人関係を作って、本当に楽しい高校生活が送れるだろうか。首を傾げる松川が「それって友達?」と考えているのが伝わる。ほぼ初対面にも関わらず、松川は、もっとに合った友達がいると思うけど、と笑っていた。何も知らないのに、適当なことを言う人だ。そのときはそう思ったけれど、松川の言葉はどこか説得力があって、すとんと胸の中に落ちてきた。結局その後友人関係は何度かの変遷を経て、今は自分によく合った友人がいつも傍にいてくれる。その中に、松川は入っていない。

「松川、おはよ」
「おー、おはよ

朝早く。まだ白い陽射しが東の空からほんの少し、街を照らしているくらいの時間。吸い込んだ空気には、春の匂いが混じる。まだまだ冷え込んでいるというのに、通学路の桜は僅かに綻び始めていた。松川の唇からは、白く濁った息が吐き出されて、少しずつ空気に溶けて透明になっていく。こんなふうに、今胸の中に溢れている松川への想いも、白く染まる息になって、空気に溶けるようになくなってくれれば、いいのに。松川には仲良しの女友達は他にいない。おそらくきっと、女の子の中では、いちばん近い。けれど、なりたいものは仲良しの女友達なんかじゃ、なかった。委員会やクラスで話すうちに、松川の良いところをたくさん見つけていって、自分で歯止めがきかないほど、どんどん松川に惹かれていった。松川の中では自分はただの友人なのかもしれない。でも、松川のことをただの友人という枠に入れてしまうには、あまりに想いが育ちすぎた。

「……寒いね」
「マフラーちゃんと巻いてないからだろ?」
「うわっ、またぐるぐるにする」
のマフラー長いよね」

マフラーをぐるぐるにされるたび、頬や髪の毛を擽る松川の冷たい指先に胸が痺れる。マフラーに埋もれた顔を見て、松川が笑った。あどけなくなる、その笑顔が好きだった。顔に集まる熱に気付かれないように、マフラーに鼻先まで埋める。

「松川のも長いよ」
「ん、俺のも巻きたいの?」
「私だけぐるぐるじゃ、かっこ悪いじゃん」
「はは、可愛いのに」

まだ陽が昇り始めたばかりで、気温は全く上がらない。肌を刺すような寒さ。ぐるぐる巻きにされたマフラーのおかげで、首元だけはひどくあたたかったが、手も足も、末端は冷たく凍えている。なのに、可愛いの一言で胸の奥が熱くなった。大きくなる心臓の音が、聴こえる。マフラーが赤で良かった。でなければ、きっとこの頬の色を隠し切れない。松川は昨日と同じように、目線が同じになる高さまで屈んでみせる。

「はい、巻いて」
「松川さー、あんまりこういうことさせない方がいんじゃない。勘違いさせちゃうよ」
「勘違い?どんな?」

深緑色のマフラーを手に取って、松川の首に腕を回す。近くなった顔と、指先に触れる柔らかい髪の毛、そして春に混じる、松川の匂い。ギュ、と胸を締め付けられる痛みに、心の中で目を瞑る。

「ほら……松川、私のこと好きなんじゃないかなぁとか。私はしないけど」

これは特別なんかじゃないんだと、勘違いしないようにしなければ。自分で自分に言い聞かせるようにしている時点でもう手遅れではあるのだけれど、そう言葉にすれば、まだ気持ちを押し留められるような気がした。松川とは友達だと割り切ることもできないけれど、告白する勇気もない。松川はしばらく目を瞬いていたが、すぐに目尻に皺を寄せて笑い出した。

「ははは、じゃあ大丈夫だ」

そんな表情にも、胸がときめく自分が悔しい。

「だからぁ」
「だっては勘違いしてくれないんでしょ?」

松川は笑っている。唇は弧を描いている。それなのに、眉が下がったその顔は、ひどく悲しそうにも見えた。ぐるぐるに巻かれたマフラーの下で、松川が今何を考えているのか、全くわからない。

「まあ勘違いじゃないんだけどネ」

その、言葉の意味だって。松川は急にしゃがみ込むと、首に巻かれたマフラーに手をかけて、小刻みに呼吸を繰り返す。

「くるしい……」
「えっ、そんなに締めてないでしょ、っ」

松川のマフラーも長かったから、かなりしっかり巻いてしまったことは否めない。けれど呼吸が苦しくなるほどではないはずだ。心配してしゃがみ込むと、松川が顔を上げた。不意に近くなった目に吸い込まれるように、時間が止まる。睫毛の長さまでわかる、その睫毛の奥に見える、黒い瞳よりも黒くぽっかりと空いた瞳孔まで、よく見えた。少しだけカサついた唇が、リップクリームをたっぷりと塗りたくった唇に重なる。二人の口から漏れる白く濁ったあたたかい吐息が、透明になる前に頬を撫でた。

「苦しいよ」

唇を離した松川が、しゃがみ込んだままそう口にする。苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまった。息は、どうやって吸って、どうやって吐き出すんだっけ。松川の唇には、リップクリームが残って艶めいている。ああ、心臓が煩い。回らない脳みそに送るべき酸素は、まだ全然取り込めていないのに。

「苦しいは、こっちのセリフだよ!」
「はは、顔、マフラーと同じ色な」

赤いマフラーでももう隠しようがないくらい、顔に熱が集まっているのは自分でもわかる。ぐちゃぐちゃになった頭の中で、どうしてと、なんでが行き来する。期待して跳ね上がる心臓と、高揚して考えをまとめられない頭では、どうしてもさっきの出来事を、都合の良いようにしか捉えられない。松川はぐるぐるに巻かれた深緑のマフラーに口元を埋めた。赤いマフラーの端っこは松川の手が掴んでいて、立ち上がることもできない。

、そんなふうに無防備にしてたら俺は勘違いするよ」
「どんな」
って、俺のこと好きなのかなって」

冬の暗い森の色を切り取ったような、落ち着いた深緑色のマフラーは、彼によく似合う。そして、その暗い森の色では、どうしたって顔の赤さは誤魔化せなかった。松川の目元の赤が、網膜に焼き付く。どう足掻いても、期待、してしまう。こんなに高く舞い上がったら、あとで落ちてしまうかもしれないのに。

「……勘違いして、いいよ」

出した声は、僅かに上擦って聞こえた。徐々に登校してくる生徒の声が多くなってくる。

「そっか」

朝の喧騒の中でも、耳は呟くように吐き出された松川の声をきちんと拾う。その声が、いつもより高い。松川も、同じなのだろうか。期待して、緊張して、声が喉に引っかかって。心臓が跳ねて、頭がぐちゃぐちゃになっているのだろうか。

「じゃあ、も、ちゃんと勘違いしてよ」

松川の口から零れた言葉の意味を、ひとつひとつ噛み砕いて、理解しようと試みた。春の匂いがする。冬は、もうすぐ終わってしまう。けれど、冬が終わっても、松川の隣にいることが許されるのなら。白く吐き出した息は透明になるより先に、再び重なった唇に飲み込まれた。





(2016/3/1)