嘯く夏の影を追う




夏が終わろうとしている。夏でも冬でも体育館は変わらず熱気が渦巻いていて、全日本ユースに選ばれた牛島が三年、高校最後の一年となる今年は、白鳥沢高校のみならずバレー関係者のほとんどが彼に注目していた。朴念仁、人の心を読み取るなんてこともまるでできない男だが、その力強いプレイスタイルとブレない姿勢はわりとモテていて、女子生徒からの黄色い声も年々数を増していく。まあバレーにしか興味のない彼が、誰かと付き合ったりなんてすることは考えられないのだけれど。どんなに可愛い格好をしても、どんなに可愛い声を出しても、どんなに頑張って手紙を書いても、牛島にしてみれば彼女たちはただ黄色い声のひとつに過ぎない。そこに個性なんて存在しないし、下手したら五回告白したって名前すら覚えてもらえないだろう。だが、牛島がひどいと思ったことはなかった。どちらかと言えば、そんな男を好きになる女の方が悪いのだ。
体育館の側、皆が滅多に使わない水飲み場の陰で蹲っている女に、天童は舌打ちした。やっぱりいた。中学の頃から、六年連続クラスメイトの腐れ縁。牛島に憧れて、憧れ続けて、何度も告白して手紙を渡して、未だ名前すら覚えてもらえていない黄色い声のひとつ。今日も練習を見に来ていて、しばらくしてから姿が見えなくなったと思ったらここにいた。いつも応援してる女の子が途中で消えたら、牛島くんは気付いてくれないだろうか。どうせ考えているのはそんなところ。読み通りすぎる。そんなことをしたって、最初から興味のない人間が消えたところで、牛島は気付かない。黄色い声は、相変わらず体育館の周りにひしめいているのだから。水道の蛇口を上に向けて、水を出す。それに口をつけて喉を潤している間も、彼女はちっとも動かなかった。

「オイ、夏休み終わっちまうぞ。お前、いつまでこんなとこいんの」
「ほっといてよ……」

天童が来たことには最初から気付いていたんだろう。声には覇気も驚いたような様子もない。

「いい加減、諦めたらいんじゃね?若利君、の名前すら覚えてないんだろ」

鬱陶しいし、と続けて口にすると、ようやく彼女が振り向いてキッと天童を睨んだ。何度目かの告白、何度目になるか数えることもできないほどの手紙、そのどれも牛島の琴線には触れなかったらしい。最新の告白で判明した事実。隣のクラスになっているにも関わらず、彼女は名前を覚えてすらもらえていなかったそうだ。あの牛島のことだから、きっと顔だって覚えちゃいないだろう。。自分の頭には六年も前からずっと鎮座しているその名前も、牛島にしてみればただの文字の羅列で、そんなものは歴史上の有名人物ほどにも記憶には残らない。

「お前が若利君に何回フラれようが全然キョーミないけど」
「なによ、覚に協力してもらったわけでもないんだから、ほっとけばいいでしょ!」

ほっとけ、と言いながら、わざわざ天童しか使わないこんな水飲み場にいるくらいなのだから、協力でも要請するつもりだったのかもしれない。泣きそうな、怒ったような顔をして、彼女は足早にその場から去って行った。先ほど潤したばかりの喉が、もう乾いてしまっていることに気付く。

「……協力とか、するかよ」

ちょろちょろと流れ出る水を口に含みながら、天童はじくりと痛む胸の傷に、また見ないフリをした。馬鹿だ。六年間も、報われない想いを抱えたまま、自分の傷に見ないフリをして、相手がいつか振り向いてくれるかもしれないなんて、ありもしない希望に縋り続ける。そんなのは、馬鹿のすることで、彼女も、そして自分も、本当に馬鹿だと心から思った。
出会ったときには、既に彼女は牛島のことしか見えていなかった。天童は彼女にとって、牛島と同じバレー部に所属するクラスメイト。そんな認識で、何かひとつでも彼に近づくきっかけが欲しかった彼女は、天童に話しかけにきた。そんな奴らは他にもちらほらいたから、天童にとってはまたか、くらいの印象。だが話してみれば不思議と二人はウマが合って、こうして腐れ縁が続いたまま、今に至る。彼女の打算的なところは気に食わなかったけれど、音楽の趣味も映画の趣味もバレーの話も、二人で盛り上がることができた。牛島に憧れて見始めたバレーに彼女もすっかりハマッていて、慣れもしない専門用語を使って話したがるところが可愛くて。でも、彼女がずっと好きなのは牛島で、それはちっとも揺らがなくて、いい加減疲れる。諦めたら、いいのに。告白しても告白しても、牛島は彼女の名前すら覚えてくれない。それでも牛島に恋人ができることがないから、彼女はそのわずかな希望に縋り続けている。
だが振り向くことはないのだ。残念ながら。牛島は興味のある人間には自ら近づく。わかりやすいくらいに。だから、何年経っても一向に距離の近づかない二人が結ばれることはないと読んでいる。そして、牛島はきっと、他に好きなやつがいると、天童の嗅覚が告げていた。あの朴念仁のような男が唯一表情を緩ませる瞬間があることに、天童は気付いている。たぶん牛島自身も、その感情の正体に気付いてはいないだろうけれど、あれは紛れもなく、恋と呼ばれる類のもの。
天童が翌日練習を終えて水飲み場に向かうと、彼女は昨日と同じ場所に蹲っていた。無視して蛇口を上に向ける天童に、彼女はおずおずと話しかける。

「覚、昨日はごめん」

天童はさして怒っていたわけではないけれど、舌打ちまでしていたせいか、彼女は怒っていると考えたようだ。何に怒っているのか、わかってもいないくせに。

「別に、怒ってないから」
「嘘。覚怒ってるよ」

そういうところだけは、鋭い。これが牛島なら、言葉通りに受け止めて、サラッとスルーするようなところだ。他のチームメイトだって天童が隠そうと思えば、どんな感情だって気付かないだろう。

「じゃあ、お前なんで俺が怒ってるかわかってんの?」
「……私が鬱陶しいからじゃないの」
「半分正解。ついでに言うならすげー馬鹿だと思ってる」

ムッとした顔をしてみせる彼女に笑えてくる。それは自分自身にも言えること。彼女に向かって発する言葉は巡り巡って、天童自身にも突き刺さる。

「いいか、若利君はお前には振り向かない」

彼女もきっとわかりきっている。胸の前で握られた小さな拳が震えていた。バレンタインのたび用意していた願いを込めたいくつものチョコレートも、ことあるごとに書いては下駄箱に忍ばせていた手紙も、何度か直接言葉にして伝えた想いも、そのどれもちっとも届いてはいなかったのだから。

「俺の読みと嗅覚が外れたことはない」

牛島が下駄箱に入れられたり告白のたびに渡される手紙を一つも読んでいないのを、天童は知っていた。応えられないものを読む必要はないという、なんとも彼らしい理論のもと、わかりやすく教室のゴミ箱へ破棄される手紙の中から彼女の手紙を持ち去って、毎回ゴミ捨て場で粉々に破いてやるのが、天童にできる精一杯だった。読んでやってくんない、なんて後押しするようなことは全く言えなかったけれど、彼女の傷つく顔も見たくはなかった。読みや嗅覚が出るまでもなく、牛島は彼女を選ばない。

「でもお前が幸せになれる道はひとつある」

校舎の東側の水飲み場は、この時間にはもう影になってしまって、まだ夏だというのに、少し肌寒い。夏の終わりの蜩の声が、物淋しげに聞こえる。今まで一度だって言わなかったし、そんなこと匂わせもしなかった。勝算のない勝負はしない主義だ。いつか彼女が疲れて諦めたら、その隙に付け入ってやる。来ることのないいつかを六年間も待ち続けた、自分も大概馬鹿だ。声が震える。二人の他には誰もいない校舎裏に、情けない声が響いた。

「俺を選べ」

目線の先で、彼女は目をまんまるにして突っ立っている。手は胸の前で握られたまんまで、風に揺れる髪の毛とスカートの裾以外、ぴくりとも動かない。しばらくしてようやくゆっくりと瞬きだけはしたけれど、アホみたいに開いた口もまだ塞がっていない。

「……というわけだから、俺は若利君とのことを協力する気はない、から」

沈黙に耐えられなくなったのは、天童が先だった。今更言ったことは撤回できないし、する気もない。けれど、できる限り茶化して、笑えるような雰囲気で、いざとなったら気持ちごと誤魔化すことができるように、笑うが。彼女は笑わなかった。

「私、一度でも覚に協力してって、頼んだことあった?」
「……ない」

そういえば。天童は六年間を思い返す。彼女は牛島が好きで、牛島と同じバレー部だから、天童に近づいてきた。それは確かなのに、仲良くなってからも彼女が何か協力してくれと、天童に頼むことはただの一度もなかった。天童に手紙を託すことも、牛島を呼び出させることも、牛島の連絡先を訊くことさえしなかった。いつだって彼女は天童の知らない間に勝手に動いていたし、相談はいつだって告白してフラれたとか、手紙の返事が来ないとか、事後報告の愚痴に近い。

「嫌だったの。覚と話すの、いつもすごく楽しかったから、覚を利用したみたいになるのが嫌だった」

利用できるものは、利用しなくてどうするんだ。そんなだから、名前すら覚えてもらえないんだろう。協力する気も更々ないくせにそんなことを思いながら、鼓動がどんどん速くなっていくのを感じる。この場所に西日は差し込まない。彼女の頬に差す赤みは夕陽のせいではないとわかっているから、余計に困惑する。何故、彼女がそんな赤い顔をしているのか、わからない。

「覚の読みでは、ここで私は何て言うの」
「……わかるかよ、そんなの」

肋骨を内側から叩きつけるように鼓動する心臓を、ジャージの上から押さえつける。それでも、痛いくらいのその主張は、全く収まりそうにない。読めない、わからない。自慢の嗅覚もすっかりいかれてしまっている。覚にもわからないことがあるんだね、なんて、視線の先で彼女が笑う。

「私は牛島くんを諦めて覚を選ぶわけじゃないの、よくわかってて」
「まだ若利君のこと、諦めないってことか?」
「馬鹿だな、違うよ」

馬鹿だなんて、お前には言われたくない。そんな憎まれ口も、最早口から出てこない。幸せになれる、なんて大それたことを言っておいて、そんなプランなんて今はただの一つもないけれど。もし、頬を赤く染めて穏やかに微笑む彼女がこの手を選ぶというのなら、絶対に後悔だけはさせやしない。





(2015/9/3)