果たされなかった誓いによせて 下




翌朝。治は先に行くと言って出て行った。朝練に出るにしても、かなり早い。そろそろ朝練に間に合わなくなるくらいの時間帯に、侑はようやく家を出た。まだ登校時間には早いというのに、門扉には制服姿のが立っている。やっぱり、来たか。

「……なんでバレたんやって顔してる」
「そりゃ……そうやろ」
「治は、用もないのに私に電話してこない、絶対」

なんとなく、予想していた答えのひとつ。声で分かった訳じゃない。そもそも治が電話をしてくることがないと思っていたから、彼女は電話の相手を侑だと確信したのだ。は眉間に皺を寄せている。そんな姿は初めて見た。それくらい、怒っていた。

「からかってんの、って聞いてんの」
「……せや、可哀想な女をからかってやったんや」
「最低」

ぐさり。心臓に直接、刃物を刺されたみたいに、彼女の言葉が突き刺さる。からかうつもりはなかった。最初は、ただ声が聞きたくて。それだけだったのに。彼女が花火大会なんてカマをかけるから、こんなことになってしまったのだ。責任転嫁しても、彼女の中に一度芽生えた侑への怒りと不信感はそう簡単に消えてくれないだろう。それだけでこんなに、胸が痛む。これで終わりだ。長いこと不毛な時間を過ごしてしまった。彼女への想いも、もうこれで、全部終わりだ。の横を通って、学校の方へ足を進めた瞬間。

「ねぇ、夕方の六時でいいのよね?」
「は?」
「花火大会、全部奢ってくれるんでしょ?」
「はぁ?」

後ろからかかった声に振り向く。花火大会。それは、電話の中の嘘の約束だ。彼女が何を言っているのかわからずに、侑は首を傾げた。

「私をからかったお詫びは高いよ」
「うわ……お前貧乏学生にたかる気かい」
「侑が悪い」

そうか。花火大会奢りで、昨日のことを許してくれる気なのか。そうわかった瞬間、言いようのない安心感が身を包んだ。すきだ。やっぱり、諦めることなど出来やしない。彼女が、すきだ。どうしようもないくらいに。侑にそれを言うためだけに出てきたのか、彼女は自分の家に戻ろうとする。確かに、よく見れば鞄も何も持っていない。

「……っ、なぁ!」

その後ろ姿を、呼び止める。

「何?」
「サムはそう言うやろ思て、どっちでもええ言うたけど」

に興味のない治なら、服装なんてどうであっても気にしないだろう。けれど。

「俺は……浴衣、着て欲しい」

いつもと違う姿が見たい。浴衣で夏祭りなんて、いかにもデートみたいだ。お詫びの奢り要員で、にそんな気持ちが一切ないとわかっていても、そういう気分に浸ってみたかった。本当に、手の施しようがないほど、重症だ。

「わかった」

は眉間を緩め、少しだけ悲しそうな顔をして、頷いた。なんでお前が泣きそうやねん。そう思ったけれど、もう朝練に遅れそうな時間になっていて、それ以上彼女と話すことはできなかった。その週は、が体育館に現れることもなく、帰り道を送ることもない。がいないというのに、相変わらずさっさと帰る治に置いて行かれて、侑は一人帰路についた。いつもよりずっと、帰り道が長く感じた。

花火大会の当日。練習が長引いたが、なんとか夕方六時に間に合うように帰宅して、慌てて着替えているうちに家のチャイムが鳴った。ジーンズに黒のTシャツにサンダルを引っ掛けて外に出ると、彼女があからさまに顔を顰める。向こうは浴衣だというのに、こっちの手抜き具合が気に入らないのだろう。甚平でも着ればよかったか。そう思うが、甚平は家にないし、浴衣を着るには時間がかかりすぎる。は紺地に白の朝顔が咲いた浴衣で、普段下ろしている髪を結い上げていて、いつもとはイメージがかなり違う。どくん。心臓が大きく鳴り始めるのを誤魔化すように、笑って彼女に歩み寄る。

「馬子にも衣装やん」
「他に何か言えないわけ」
「……浴衣、よう似合うとる」

誤魔化しも何も通じない、彼女からのジトッとした視線を感じて、仕方なく、思っていることを口にする。彼女はやや不満そうだったが、ひとまず納得したようだった。

「うん、まあ、よしとする」
「上からやな」
「いいでしょ、今日はお詫びなんだから」

お詫び。そうだ、それを忘れないようにしなければならない。今日は、デートではないのだ。

「まずはかき氷からね!」
「へいへい」

出店のある通りに到着すると、彼女のテンションも徐々に上がっていく。結構大きめの花火大会だ。遠方からも来る客も多いし人通りも多い。はぐれたら二度と会えないかもしれないレベルの人混みで、知り合いに会うこともそうそうないだろうが、クラスメイトなんかに見つかって茶化されるのも面倒だ。けれど、彼女とはぐれてしまう方が、より面倒に決まってる。

、手」
「え?」
「手、出し。この人混みや。はぐれたら敵わん。しゃーないやろ」
「……ん」

イチゴのかき氷を買って渡す。他にもクレープだの人形焼きだの、甘いものばかりを選ぶ彼女に付き合ってやる。ひと通り店をまわり尽くしたところで、侑の左手にも彼女の右手にもいくつか袋がぶら下がっており、財布も随分軽くなってしまった。繋いだままの手のひらが、熱い。夏の暑さよりも確実な熱が、手のひらに伝わる。周りの客は、徐々に花火の見やすい場所へと移動を始めている。

「花火、そろそろやな」
「あ、待って侑……っ」
「あぶな!どないしたんや」

何かに躓いたのか、バランスを崩した彼女を支える。歩きにくそうな、普段履き慣れていない下駄。ゴミか何か落ちているものに躓いてもおかしくはないし、すれ違う人並みに足を取られることもあるだろう。けれど。

「靴擦れしとるやろ」
「……してない」
「我慢したってええことないで」
「足痛い」
「やっぱりな」

僅かに見えた彼女の足元は、少し赤くなっていた。血が出ているかもしれない。そういうところまで、強がらなくたっていいというのに。もし治が相手ならどうしただろう。強がらずに甘えただろうか。いや。きっと彼女のことだから、大好きな治と一緒なら余計に、このことは知られないように振る舞ったはずだ。心配をかけたくないとか、楽しんでいるところに水を差したくないとか、そんな理由で。くだらない。

「ここで一旦休んどき。こっからなら花火も少し見えるやろ」

人混みを抜けて、ガードレールの縁に彼女を寄りかからせる。手を離すと、彼女は少し不安そうな顔をした。

「侑、どこ行くの」
「そこのコンビニ!すぐ帰ってくるわ。なんや、寂しいんか?」
「そんな訳ないでしょ!」
「はは、せやろな。待っとき」

わかっている。期待はしない。彼女が好きなのは、ずっとずっと、治だけだ。

「ほら、絆創膏」
「……買ってきたの?」
「どうせ今日は全部俺の奢りやろ。貼ったるから、足出し」

浴衣のままでは屈むこともままならないだろう。彼女はおとなしく足を出した。指の間と、鼻緒が擦れるところが赤くなって皮が剥けている。これは見ているだけでも、かなり痛い。小さい足。それなりに枚数がいるかと思ったが、数枚で事足りた。応急処置の絆創膏を貼って、下駄を履かせる。

「ありがとう、侑。優しいとこあるんだね」

ずっと黙っていた彼女が、そう言って笑った。期待はしない。そう、思っていたはずなのに。

「……なぁ、やっぱ、サムやないとあかんの」

押し込めていた想いが、溢れそうになる。

「え?」
「あ、花火、始まったな」

花火の音が遠くに聞こえる。花火が上がり始めて慌てた様子の女子グループが、横を通り過ぎていった。ここからでは、花火は半分も見えない。そのせいか、人通りは徐々になくなっていった。は動かない。その足では、花火が見える場所までは行けそうにない。帰るのが精一杯だろう。けれど、おそらくそんな理由だけでなく、彼女は足元を見つめて動かなかった。

「私は治が好き」
「さよか」
「だから……だから、もう、優しくしないで」

わかっていた。だから期待しないと決めていた。なのに。

「私のこと馬鹿にしまくる、憎たらしい侑でいてよ。でないと、わからなくなる。私が、治を好きだった理由が」

チッ。舌打ちした音に驚いたのか、が顔を上げる。期待しないと、決めたのに。そんなことを言えば、決意なんか簡単に吹き飛んでしまう。

「……なぁ、教えたろか。俺とサムの似てへんところ」

知りたくない、とでも言うように、彼女の頭が左右に振られる。それを無視して、言葉を続けた。彼女は視線を逸らして、聞きたくないと、耳を塞ぐ。

「そもそも女の趣味がちゃう。俺は用なくてもお前の声が聞きたい。他の男が好きでも、ずっと、お前みたいなめんどくさい女が諦めきれへん。なぁ、、こっち向きぃや。ちゃんと聞け。お前が言うたんや。大事な気持ちまで、誤魔化すなて」

そうだ。そう言ったのは、彼女の方。馬鹿だと思った。阿呆なんて言葉じゃ生温い。全く脈のない相手に惚れて、なおかつ一途に好きでいるなんて、馬鹿でしかない。そう思っていても、馬鹿な彼女への想いを諦められない。諦めればいいのに。彼女に思うのと同じくらい、自分でもそう思ってきた。それでも。

「俺は、お前が好きや」

の腕を掴んで、無理やりこっちを向かせる。耳は塞がせない。知りたくない、聞きたくない。そんな彼女の気持ちなど、知ったことか。期待しないと決めたのに、期待させたやつが悪い。

「……狡い、よ」
「褒め言葉やわ」

負けるのは嫌いだ。それがたとえバレーではなくても。この負けず嫌いと諦めの悪さは、世界一級品だ。

好かれた時点で、諦めろ。





(2018/2/4)