昨日が泣かない理由




目の前で、落ちていくボールを見送った。そこに落ちるとわかっていても、それに手を伸ばすことはできない。控え選手に許された僅かなスペース。その白線の内側から、跳ね返されたボールが弧を描いて、コートの中に落ちるまでを見つめるしかない。稲荷崎が負けたことが悔しいのか、選手として最後までそこに立っていられなかったことが悔しいのか、よくわからなかった。ただ漠然と、胸に広がるどうしようもない感情を持て余す。やるだけのことはやった。練習も、それ以外も。あのときこうしていれば、という後悔はない。最大限、自分にできることは全てやり尽くした。だからこそ、天賦の才ひしめくこの強豪チームで、キャプテンの座とこのユニフォームを貰うことができた。全てやり尽くして、ミスをなくして、プレーのひとつひとつを丁寧にしても。あのコートに最後まで立つことは叶わなかった。終わりの決まる瞬間。自分はただ無力な観客に過ぎない。それを思い知る。落ちたボールの転がった先を目で追った。足が動かない。手も伸ばせない。勝敗は決まった。全国大会、二回戦敗退。それが結果だ。もう、どうにもできない。目で追った先に、横断幕があった。

思い出なんかいらん。

そうだ。思い出を作りに来た訳じゃない。全国大会出場。そのとき試合に出たんだ、なんて、いつかどこかで誰かに語るためにここに来たんじゃない。思い出なんかいらん。ただ、もっと、俺のチームメイトたちは、凄いやつらなんだぞ、と自慢してやりたかった。試合に出たことよりも、最高のチームメイトがいたことを、もっと。だけど。横断幕の、さらに後ろ。稲荷崎の応援団の、おばあちゃんの隣。そこに見覚えのある姿を見つけて、目が合った。かなりの距離があったけれど、目が合ったと、何故かはっきりとわかった。高校が違うのにどうしてそんなところにいるのかとか、久しぶりに会ったのに全然変わらないとか、今日はおばあちゃんと一緒に来てくれたのだろうかとか、そういうことがいくつか頭の中を通り過ぎていく。健闘を称えて拍手を送る他の観客と違って、胸元で両手を握りしめたまま、今にも泣きそうな顔でじっとこちらを見つめている。視線が交わったことに驚いたように僅かに目を見開いたけれど、逸らすことはない。

彼女、は実家の隣の家に住む幼馴染だ。

共働きのの家には夜になるまで誰もいなくて、よく親が帰ってくるまで遊んで過ごした。ちゃんとせなあかんよ。誰かが見とるよ。彼女もおばあちゃんに同じように教わって育った。神さまとか、そんなものは彼女もたいして信じていなかったけれど、お互いがお互いを見ていたから、小さい頃からちゃんと言いつけを守れたのだと思う。他の誰も見ていなくても、彼女は見ている。だんだんと歳を重ねて、男女の性差がはっきりしてきた頃には少し疎遠になってしまったけれど。その頃にはもう、反復・継続・丁寧が習慣として身体に染み付いていた。

誰かが見とるよ。

それを実感する機会はいくつもあった。ちゃんとしていれば、評価してくれる人は思っていたよりも沢山いた。中学では一度もレギュラーにはなれなかったけれど、稲荷崎に声をかけてもらえた。他のレギュラー陣のような派手さも才能もないけれど、三年最後の試合でユニフォームを貰えた。誰かが見てくれている。たとえ誰も見てくれていなくても、過程は自分の力になるし、身につけた力は自信になる。それがわかっているから、努力を無駄とは思わなかった。誰かが見ている。彼女も、見ているかもしれない。そう思うだけで、いつだって少しだけ背筋が伸びる心地がした。通う高校が違う。連絡先くらいは知っているけれど、普段連絡を取ることもない。昔のように、気軽に話さなくなってもう随分と経つ。彼女も彼女自身の高校生活があるのだ。自分のことなど、もう忘れているだろう。どこかで、そう思っていたのに。

彼女が見ている。背筋を正した。そうだ、ちゃんと、最後までちゃんとしなければ。

「整列!」

声を張る。この大きな体育館に響くように、項垂れる選手たちがちゃんと顔を上げるように、最後まで、ちゃんとやれるように。

「ありがとうございました!」

このコートに、最後まで立った者がいる。このコートに、まだ立ち続けられる者もいる。このコートに、最後まで立てなかった者も、いる。それでも様々な感情を綯い交ぜにして、頭を下げる。対戦相手に精一杯の敬意を表して、応援してくれた観客に感謝を込めて。ちゃんと、礼を尽くすのだ。涙を流す必要なんてない。後悔はない。ほんの少しの、悔しさと寂しさがあるだけだ。

「信介」


全部が終わって、体育館を出たところで彼女の声が後ろから聞こえた。久しぶりに呼ばれた名前は懐かしい響きで、久しぶりに呼んだ名前も、共に過ごしたあの頃を思い起こさせた。彼女には、何でも話すことができたあの頃を。

「俺、バレー、好きやったんやなぁ」
「うん」

本当に、ポロリと口から零れ落ちていた。そうか、バレー、好きだったのか。自分で言った言葉を反芻する。そうしてやっと、自分の中にある感情に気がついた。もっとたくさん、バレーがやりたかった。けれどもう出来ない。もう、あのコートに立つことは二度とないのだろう。バレーで食っていけるほどの才能はない。努力で全てカバーできるほど甘い世界じゃないことは、身近にいる天才たちを見ていればわかる。だからきっと、こんなふうに全国の舞台で試合のコートに立つことは、もうない。きっと後輩たちは、次のインターハイで自慢の後輩だと胸を張れるくらいの活躍を見せてくれるだろう。けれどそれは、自分の力ではない。勿論、そう言ってくれたことが嬉しくはあるけれど。でも、気付いたもうひとつの感情だけは、諦めるわけにはいかなかった。

「誰かが見とっても見とらんでも、どっちでもええ。お前が見てくれとるんなら、それだけでええ」
「……うん」

目の前で落ちていくボールを見送った。その白線の内側から出ることは出来なかったから。手を伸ばしたくても伸ばせない。ただ視線で追うしかない。ああ、負けるのか。その瞬間の、どうしようもない気持ちを持て余した。そんなふうに、なりたくはない。こればっかりは。

「好きや、

ちゃんとやる。ちゃんと、伝える。後悔しないように。結果は副産物だ。ちゃんと伝えていれば、たとえ結果が上手くいかなくとも納得はできる。納得は、できる。けれど、多分、これは諦めることが難しい。思い出なんかいらん。でもこの想いは、思い出にできない。こんな状況は練習したことがないから、足が震えそうになる。ぶっつけ本番。そんなことは、本来したくないのに。握った彼女の手は小さくて、外気に晒されて少し冷たかった。その手が、ぎゅっと握り返してくる。泣きそうな顔で、強く手を握りしめて、彼女は何度も頷いた。

「私も、好きや。ずっと、好きやった」

そのたった一言で、緊張が解ける。結果は副産物に過ぎないけれど、でも、何よりそれが欲しかったのだと、思った。

「付き合うてくれるか」
「どこに?」
「ベタなボケかますな。俺と、や」
「当たり前やん!」

そう言って笑う彼女につられて、口角が上がる。懐かしいやりとり。ああ、こうだった。彼女との会話は、テンポは、距離感は、こんな感じだった。

「あー!北さんが女の子とおる!」
「しかもめっちゃ笑てへん!?あれ!!」

少し離れたところから飛んできた声に、溜息を吐く。彼らがどんな表情をしているのかさえも、ありありと想像できた。振り向くと、想像と全く違わぬ驚きと好奇心が入り混じった顔で、レギュラーメンバーたちが遠巻きにこちらを見つめている。

「はー、うっさいのが来たわ。また後で連絡する」

彼女の手を離す間際、少し名残惜しくも思ったけれど。早く彼らと合流しなければならない。まだ、キャプテンの最後の仕事が残っている。最後まで、終わるまで、ちゃんとしなければならない。同じ温度になった指先が離れていく。その瞬間、彼女の手が再び力強く手を握った。

「信介!」
「なんや?」
「声聞きたいから、電話にして!」

それだけを告げて、彼女は手を離す。メールをするより声が聞きたくて、でも本当は、電話をするより直接会いたい。多分、お互いに考えていることは一緒なのだろう。

「ははっ、りょーかい」

笑う声に、後ろの連中が更にざわつき始めたけれど、そんなもの全く気にならなかった。バレーに心残りはない。自分のやれる限りをやりきった。彼女とのことも、そうだ。だから、悔しさに涙することはない。明日からもきっと、ずっと、笑っていられる。いらんと言った思い出を集めて抱えて、彼らの方へと一歩、踏み出した。





(2018/3/10)