ずっと終わりが欲しかった




ザザッ。校内放送、チャイムが鳴る前のわずかなノイズがスピーカーから聞こえた。時間を置かず、予想通りに最終下校時刻10分前を告げるチャイムが校内に響く。この瞬間はいつも静かすぎて少し不気味だと、花巻は思う。チャイムの瞬間に世界が反転するような錯覚に襲われる。昔そういう怪談があったからだろうか。廊下に人の気配はない。先ほどまで校庭に散らばっていた部活中の生徒たちも、もうまばらだ。花巻が見つめた窓の外はもう赤を通り越して、夜に染まり始めていた。まるで世界が反転して、二人だけ置いて行かれてしまったような静けさ。本当にそうであればいいのに、と心の片隅で呟いた。

「とりあえず、帰るか?」

落とした声の先で、俯いた頭が左右に振れる。だからといって、これ以上この教室にいるわけにもいかない。夜に融けて暗くなった茶髪をわしわしとかき混ぜると、彼女はようやく顔を上げた。もう二年間見続けている、今にも泣きそうな顔。決してその涙腺が壊れないことを、花巻は知っている。知っていても、見続けていても、その顔に慣れることは未だない。いつも少し、どきりとする。そのたびまた胸が締め付けられるのだ。この顔をさせているのは、自分ではない。

「お前ん家の近くの公園。それでいいだろ?」

掌の下で頷くのを確認して、花巻はふたつの鞄を持って立ち上がる。最終下校時刻5分前。部活のない月曜日、最後のチャイムと共に校門をくぐる。それが二人の恒例行事となっていた。放課後、好きな子と一緒に下校する。それは男子高校生なら誰しも憧れるところだろう。最初は花巻だって心が弾んだ。けれど、二年以上経過した今でも、恋も愛も二人の間には存在しない。彼女はもうずっと前から、違う方向を見つめている。

「……告白、しねーの?」
「しない。上手くいくわけないって、わかってるもん。花巻だってわかってるじゃん」
「まあ、そりゃ、な。真面目すぎるもん、あいつ。バレーしか見えてないだろ、岩泉はさ」

岩泉一。彼女の想い人。バレー部で、同じチームメイトで、真面目で一本気な良き友人。たとえば、彼女の想い人が及川徹だったなら、普段体育館で黄色い歓声を上げるミーハーな女子と同じか、なんて思うことができた。諦めることも、諦めさせることも容易だったはずだ。それ以前に、恐らく興味を持つことさえしなかったかもしれない。だが、彼女はずっとずっと岩泉のことが好きだった。花巻の目から見ても、良い選択だ。最初は体育館の見える目立たない場所で、及川に群がらず岩泉を見ている女の子がひとりいるな、なんていう興味本位。それがクラスメイトだと気付いたときの野次馬的な面白さ。茶髪でピアスでネイルでミニスカートで薄く化粧もして、岩泉とは全く似合わない。普通は及川を彼氏という名のアクセサリーにしたがるような雰囲気の女の子が、岩泉を見ている。最初はそのことがただ単純に面白かった。ああ、今日もいる。今日も、今日も。それを積み重ねているうち、花巻は彼女から目が離せなくなっている自分に気がついた。

(どうして岩泉なんだろう)

彼女の選択は間違っていない。真面目で一本気な友人は、きっと恋人になれば相手を一番大切にしてくれるだろう。それはわかっているのに、どうしてと思うようになった。どうして岩泉なのか。どうして、自分ではないのか。きっと、自分と彼女の方が見た目も似合う。自分なら、絶対にあんな顔をさせたりなどしないのに。そんなことを考える頃にはもう、確固とした友人ポジションを手に入れてしまっていた。

さんって、岩泉のこと好きなの?』
『っ、それ』
『いつも体育館で見てるっしょ。あ、心配しなくていいよ。別にバラすつもりもないし』
『……何が言いたいの』
『別に?良いセンスしてんなーと思って。協力してあげようか?』

興味本位で近づくんじゃなかったと、あとから後悔することになるとは知らずに協力するなんて言ってしまった。あの頃の自分を殴りたい。最初は本当に、協力するつもりだった。こんなに抵抗する間もなく惹かれてしまうなんて、思いもしなかった。警戒心満載だった彼女が、少しずつ岩泉の話をしてくれたとき。岩泉の話をするときは恥ずかしいのか、決まって目を合わせてくれなかった。その頬を染めた横顔が、普段尖った外見の彼女にしては幼く見えて可愛らしくて。

『花巻……?』
『ん?ああ、ごめん、聞いてる聞いてる』
『聞いてないでしょ、その言い方』
『んなことねーって!の中の岩泉ってかっこよすぎねぇ?って考えてただけ』
『岩泉くんは、かっこいいでしょ』

二人っきりの教室で、そう言って目を逸らして赤くなる彼女に、花巻の心はあっという間に感情が興味から恋へと振り切れてしまった。始まったその瞬間から、胸の痛みと終わりを抱えた恋だった。一介の男子高校生には、重すぎる。高校生になったら、いろんな女の子と付き合って、もっと軽くて楽しい日々を過ごすのだと思っていた。

「……なあ、上手くいくわけないってわかってて、なんで好きでいるの。苦しくないの」

彼女は、何を今更といった顔で花巻を見つめる。公園の街灯はベンチだけを照らし出して、そこだけ空間から切り出されたように明るい。

「苦しいに決まってるじゃん。上手くいくってわかって好きになれるんなら、そうしてる」
「そう、だよな」

そりゃあそうだ。上手くいくとわかって好きになれるなら、花巻だって最初からもっと違う子を選んだ。お互いなんだって、こんな上手くいかない恋を選んでしまったんだろう。花巻は暗すぎて星ひとつ見えない空を見上げて、深く息を吐いた。そろそろ、こんなどうしようもない想いには終止符を打つべきだ。口を開こうとした瞬間、彼女が同じように空を見上げて息を吐く。白く濁るその空気に、もう冬が近いことを知った。

「……岩泉くんが、入学する前に痴漢から助けてくれた話、したでしょ」
「うん」
「あれから三年間、岩泉くんのことずっと見てた。やっぱり素敵な人だと思った」
「……うん、知ってる」
「そうだね、花巻にはずっと話してたから……いろいろ協力してもらったりしたけど、岩泉くんと話した時間なんて、この三年間で花巻と話した一日分もない」
「……そうかもな」
「うん、だからさ、もう自分の気持ちわかんなくなっちゃったんだよね」

話の方向が見えなくて、花巻が彼女に視線を向けると、彼女も花巻を見ていた。視線がかち合う。岩泉の話をしていたときには、絶対に合うことはなかったのに。彼女の目は泣きそうで、頬が少し赤い。どきり。心臓が、痛い。その顔は誰がさせているのだろうか。

「……あのさ、
「うん」
「苦しいってわかってても、上手くいかないってわかってても、好きになる気持ち、俺もわかるよ」
「……うん」
「岩泉より、素敵じゃねーかもしんないけど」

ベンチの椅子に乗っていた手に、手を重ねる。冷たい。やはり、もう、秋は終わってしまったらしい。

「手、繋いでもいいかな」
「……うん」

冬の始まり。一回りちいさな手が、終着点を見失わないように握り締める。握り返されたてのひらに、このどうしようもない想いの終わりを見つけた気がした。

この手を離すことは、きっとない。





(2015/5/24)