アインシュタインの手記




かの有名なアルベルト・アインシュタインは、かつてこう言った。恋に躓いたくらいならば、立ち直るのは簡単だ。けれど、一度でも恋に落ちてしまったら、そこから抜け出すのは容易なことではない、と。彼ほどの頭脳をもってしても、恋とは難解なものらしい。柳は、テニスコートから少し離れた図書館の大きな窓を見つめた。普段ならば、カーテンは当然閉め切られている。直射日光は本にとっては良くないからだ。大学部まである立海の図書館は、蔵書が多い。きちんとした司書がいて、館内は冷房で快適に保たれ、直射日光を遮る分厚いカーテンがきっちりと引かれている。けれど、今、カーテンは少しだけ隙間が開いていた。あの場所からは、テニスコートがよく見える。ここからカーテンの向こうはあまり見えないが、誰がそこに佇んでいるのか、柳は知っていた。幸村のクラスの図書委員。綺麗な黒髪の、お嬢様然とした女子生徒だ。
。中学三年の頃、一度、同じクラスになったことがある。が幸村に片想いしているクラスメイトに、テニスコートへ応援に行くように勧めていたのをはっきりと覚えている。その放課後。幸村の試合に黄色い歓声を上げて喜ぶクラスメイトを尻目に、静かに大人しく、いかにも付き添いという雰囲気を醸し出しながら、彼女はそこに立っていた。片時も、幸村から目を離さずに。応援はありがたいが、うるさい声は集中を妨げる。テニスコートの中の姿に、そんなふうに熱を上げていても、ほとんどは一過性のものだ。それをわかっているから、テニス部のレギュラーは彼女たちには振り向かない。そんなことも、全てお見通しだと言わんばかりだった。だというのに、友人にそれを勧めていたということは。全国大会の決勝で負けた後、そのクラスメイトが幸村に告白し、振られたという話を耳にした。そこまで全て、の計算通りだったのだろう。クラスメイトを慰める彼女の姿が、柳には酷く白々しいものに見えた。その日の放課後、はテニスコートの見える図書室の窓から、引退してもなおコートに残る幸村の姿を追っていた。図書館で勉強しているだけです、という体を崩さずに。柳は静かに、彼女の目の前の椅子を引く。

「……そんなところから、見ているだけでいいのか?それほど謙虚な性格には見えないがな」

話しかけるのはほとんど初めてだったが、柳の方を見つめ返してきた意志の強い瞳だけでわかる。頭の回る女だ。不意にかけられた問いかけの意味を瞬時に理解し、こちらがどれだけ彼女のことを把握しているかも、恐らくわかっている。彼女は繕うこともせず、持っていたシャーペンをくるりと回して微笑んだ。とても愛らしい、という部類には入らないであろう、計算を孕んだ笑みだった。

「だって幸村くんは、テニスコートに群がって黄色い声を上げるしか能のない女には振り向かないでしょう?玉砕覚悟でぶつかっていくことなんて、私には出来ない」
「鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす、というやつか?それとも」
「もちろん、両想いの確証がないうちには動かない、という意味で」

両想いになるために動き、その確証が得られるまでは想いを告げることはしない。賢い選択だ、と思った。確実に手に入れたいものがあるのなら、そして、それが努力すれば手に入れられるものであるのなら。だが、人の気持ちばかりは努力で動かせるものではない。勿論、努力して振り向かせることも不可能ではない。確率で割り出すことは出来ないが。

「俺には本性を隠さないのか?」
「柳くんには、バレちゃってるみたいだから。それなら隠すよりも、協力してもらった方がいいじゃない」
「それで俺に何の見返りが?」
「私、本当は性格悪いけどバレてないから、女友達は案外多いの。柳くんの好きなデータ集め、手伝えると思うんだけど?」

図書館の中、周りの人間に聞こえないくらいにトーンを落として話す彼女の声は、耳に心地よかった。そう思った瞬間、いや、もしかしたら幸村を見る真っ直ぐな視線に気付いたとき、既に落ちていたのかもしれない。大人しい外見に反して意志の強い黒の瞳も、強気な笑みも、性格の悪さも含めて。かの偉人たちすら悉く落ちていった、恋、というやつに。

「計算高い女は、嫌いじゃない」
「ありがとう」

そのときの彼女の微笑みは、何よりも美しかった。これも恋に落ちたが故なのだろうか。あれから、三年近くが経とうとしている。この三年間で、幸村に惚れて恋敗れた女は両手両足の指を合わせても足りなくなった。そして、彼女たちの中で未だ幸村を想い続けている者はいない。この図書館で、三年間、幸村を見つめ続けている以外は。

「告白して恋敗れれば立ち直って次へ向かう。お前の女友達の方が、余程したたかだろう?ずっと余所見をすることなく、たった一人を見続けたやつがいるか?」

所詮、彼女たちは恋に躓いたに過ぎない。新たな恋を始めて、今は幸せそうに通学路を歩いているカップルもいる。立ち直るために必要な時間は、早ければ一日、遅くとも半年。時間さえあれば傷は癒える。だがアインシュタイン、やはり恋に落ちると厄介だ。目の前の女は、頑なに視線をこちらに向けようとしない。の視線の先には、高校のテニス部を引退してなお、テニスコートに顔を出している幸村がいる。柳は机の上で指を組んだ。

「俺は、お前みたいな女は嫌いじゃない」
「私は、貴方みたいな男は好きじゃない」

幸村に向ける視線は、果たして全て幸村を想うが故か。意識すまいと思うあまり、逆に彼女は柳を強く意識してしまっている。たとえ視線がこちらを向かなくとも、意識はもう幸村ばかりに向かってはいない。それをわかっているから、柳は悠々とを見つめている。テニススタイルもカウンターパンチャーだ。元来、性格的に我慢強い。こういった持久戦は苦手ではなかった。

「シェイクスピアを知っているか?」
「少しくらいなら」
「求めて得られる愛は素晴らしい。だが」
「求めることなく与えられる愛は更に良い?」

テンポよく続く言葉のラリー。だから彼女は面白い。だが、不意にそのテンポが乱れた。の視線が幸村から外れたのだ。彼に向けられていた真っ直ぐな視線が、今度は柳に突き刺さる。予期せずこちらを見据える双眸に、何と言えばいいのかわからず、柳はしばし言葉に詰まった。その間に、彼女が口を開く。

「柳くんはさ、言わないんだね」
「……」
「幸村くん、好きな子が出来たんでしょう?」

どこかで、耳に入るだろうとは思っていた。幸村は口にしなかったが、好きな女が出来たことは間違いないだろう。相手も見当がついている。それくらい、傍で見ている者にはわかりやすい変化だった。だがまだ彼女が出来た訳じゃない。の言うように、それはまだ恋に落ちた、という段階に過ぎない。そう、落ちたのだ、幸村も。そして幸村ならば、相手も同様に恋に落とすことは難しくないだろう。このデータを手にしたとき、に伝えることを真っ先に考えた。幾通りものパターンを検討したが、結局伝えることをしなかった。何も返さないことに痺れを切らせたのか、彼女は声のトーンを抑えたまま、いくつも言葉を重ねた。

「何年も見てたらわかるよ。結局両想いになるための努力なんてひとつもしなくて、こんなところから見つめ続けることしかできなかった臆病者に、幸村くんが気付かないのは当たり前。他に好きな子ができちゃうのは至極当然。なのに柳くんは、私の恋を、終わらせてくれないんだね」
「終わらせることができるのは、本人だけだろう。俺も、誰も、精市でさえ、お前の恋を終わらせる権利は持っていない」

伝えて、何事もなく彼女が幸村への想いを諦めることが出来るのなら。その恋を終わらせることが出来るのなら、喜んでそうしただろう。だが出来なかった。たとえ終わらせることが出来たとしても、その過程で百パーセントの確率で、彼女はその瞳を潤ませる。たったそれだけのことで、といえばそうなのかもしれない。そうだ、たったそれだけのことで、に失恋の事実を告げられなかった。どうせ知らせなかったところで、いつかは彼女が気付くとわかっていたのに。くだらない時間稼ぎだと理解していて、柳はその一番愚かな選択肢を手にしていた。恋愛とは二人で愚かになることだ、と言った詩人がいたが、恋に落ちた男は一人でも愚かになってしまうらしい。けれど、がもう己の恋が敗れたことを知ってしまったのなら。柳は声をひそめたまま、彼女の方へと身を寄せた。机の上で、二人の指先が触れる。男にしては細く整っている柳の指よりも更に細い指が、ぴくりと跳ねる。だが、指先は触れ合ったまま、振り払われることはない。つまりは。

「離れればいくら親しくともそれきりになる代わりに、いっしょにいさえすれば、たとえ敵同士でもどうにかこうにかなるものだ、と、夏目漱石は言っている。この三年、かなりの時間を俺たちは共に過ごした。気持ちが動いてもいいくらいには、な。俺は良いパートナーになれると思うぞ」
「そんなの、都合が良すぎる。幸村くんがダメになったから柳くん、なんて」
「都合が良いに越したことはないだろう。それで誰も困りはしない。それにお前がそんなに軽い性格じゃないことはわかっている。三年もあったんだ。俺しか知らないお前の気持ちが動いていたって、誰も責めない」

つまりは、そういうことだ。彼女が恋に落ちて敗れたことも、新たな恋へと落ちることも、全て、ここにいる二人しか知らない。の、見た目に反して気の強いところも、それでいて自分の恋に関しては臆病なところも、性格の悪いところも、可愛くない笑顔も、真っ直ぐな視線も全て。柳しか知らない。

「俺は、お前が好きだ」

使い古された言葉だが、誰の引用でもない、柳自身の言葉だ。そして彼女同様、柳も勝算のない賭けでこんなことは口にしない。触れた指先が熱い。必ず彼女は落ちてくる。潤む瞳を真っ直ぐに見据え、柳は柔らかく微笑んだ。もうその双眸に涙を浮かべさせることはない。優しく、確実に、この深い恋へと落としてやろう。持久戦の勝敗は、おそらく最初から決まっていた。





(2017/9/21)