だってあなたをすきになる




目が合った。最初はたった、それだけのことだった。

別に、たった一回目が合うのなんて特別なことじゃない。家を出てから学校に来て帰るまで。目が合う人間の数なんて両手両足でも足りない。道で偶然すれ違うだけの人。仲の良いクラスメイト。廊下で、階段で、体育館で、運動場で。学校の名前も知らない誰かと視線を合わせる。そして大抵は、そのままスッと目を逸らす。
けれど、彼は違った。彼と目が合った瞬間に、時間が止まったような錯覚を起こす。

観月はじめ。

隣のクラスだが、名前はよく知っている。テニス部に所属している彼は補強組と呼ばれているらしく、容姿が整っていることや同級生にも常に敬語で話すこともあって、それなりに目立つのだ。あ、噂の観月くんがいる。何とはなしに彼に視線を向けていたら、ばっちりと目が合った。彼は本当に整った顔をしていて、その瞳がこちらを向いていた時間はもしかしたら一秒にも満たなかったのかもしれないけれど、もっとずっと、長く感じた。隣にいた友達の声も、休み時間の周囲の喧騒も、全部が遠くなって、彼の瞳の色だけが強く頭に焼き付く。

「ねぇ、聞いてる?」
「あ、ごめん。ボーッとしてた」

友達に肩を叩かれて、ようやく時間が動き出す。いつもみたいにスッと目を逸らせばよかったのに、何故か彼にはそうできなかった。顔の整っている人は、人を惹きつける力があるんだな、なんて。そんなことを呑気に思う。観月くんと目が合った。それは、透明な日常の中にほんの一滴垂らされた色水みたいに、少しだけ記憶に残って、すぐに透明になった。

透明な水に色水を垂らすと、最初はずっと透明だけれど、量が多くなれば水はその色に染まっていく。

多分、そんなふうに少しずつ、日常が変わっていった。隣のクラスの男の子と毎日目が合うのは、一体どれくらいの確率なのだろう。それまでずっと気にしたことはなかったのに、一度目が合ってから、学校で彼の姿を探してしまう。彼は目立つから、いつでもすぐに見つけることができた。あ、観月くんだ。そう思って見つめると、彼はすぐに視線に気付いたようにこちらに顔を向ける。流石にずっと見つめているのは気恥ずかしくて、すぐに何でもないフリをして目を逸らす。しばらくして、もう一度彼の方を振り向くと、またばっちりと目が合った。そんなことが何度も続く。日常に垂らされた色水は段々と増えて、いつも頭の端っこで彼のことを考えてしまう。
たった一回目が合うのなんて、特別なことじゃない。だったら、何度目が合えば、それは特別になるのだろう。そんなことを思うようになる頃には、彼はとっくに特別になってしまっていた。

多分、こういうのを、恋というのだろう。

けれど、隣のクラスの彼との接点などあるはずもなくて、ただどうしようもなく彼への想いだけが色を濃くしていく。もう中学三年生だ。クラス替えもない。高校は、親の希望もあって女子校に進むと決めている。このまま卒業して、このまま別の学校へと進めば、彼のことを考えることも減っていって、この想いはいつか透明に戻るのだろうか。そう思っていた。

「失礼。野村を呼んでもらえませんか」
「え、あ、はい」

年が明けて、最後の席替えがあった。引いたのは、廊下側の一番後ろの席だ。教室の扉から入ってすぐ。人の出入りが多くて、休み時間にはあまり勉強に集中できそうにない。一番後ろの端っこ、というのは気楽でいいけれど、意外と教卓から見ても目立つ席ではある。ハズレだったかな。溜息を吐きながら、次の授業の準備をしていると、扉の外から声がかかった。振り向くと、そこに立つ彼と目が合う。記憶に焼き付いている、瞳の色。彼に話しかけられたことに一瞬呆けた後で、慌ててテニス部の副部長だったクラスメイトを探す。

「ありがとう。助かりました」
「はい……」

部活の連絡をいくつか交わして、彼は立ち去り際に微笑んだ。扉から近い席で良かった。ひとつ、ふたつ、みっつ。一気に心を染め上げた色は、薄くなるどころか日に日に濃くなっていった。彼はそれから数日も空けずに、このクラスを訪れるようになり、ここに来た時にはいつも話しかけてくれるようになった。

「何を読んでるんですか?」
「えっと、小説です。最近流行ってる」
「そうなんですか?ああ、そういえばタイトルを聞いたことがありますね。面白いですか?」
「はい。あ、でも、恋愛小説だから、男の子にはあんまり面白くないかも」
「僕は好きですよ、恋愛小説」

受験勉強の息抜きに読んでいた小説の話。男の子はそういう話を退屈がるかと思っていたけれど、彼は意外とロマンチストなことがわかって嬉しかった。

「可愛らしいペンですね。どこのメーカーですか?」
「えっと、ここのやつ」
「ああ、このメーカーは使いやすいですよね。こんなデザインのものもあったんですね」

ペンに印字してあるメーカー名を示すと、彼は笑って自分のペンを見せてくれた。同じメーカーの名前がさりげなく刻印してある。文具店に大量に並んでいる中から選んだものと違って、彼のペンは更にデザイン性を重視した高価そうなものだった。後日文具店に立ち寄った際に、高校生のお小遣いから出すには結構値の張るそのペンを手に取ってしまった。学校に持って行かなければ、お揃いを持ってるなんて誰にもバレない。そのペンは、机の中に大切に仕舞った。

「実は今度姉の誕生日でして。もし良ければ最近女子の間で流行っているものなど教えてもらえませんか?」
「うーん……髪飾りとか嬉しいけど。って、私が嬉しいものじゃ意味ないよね」
「いいえ、参考になります。ありがとうございます」

お姉さんがいるのか。そんな彼の情報を、ひとつひとつ知るだけで心が弾む。真反対の窓際の席にいるテニス部の野村くんが、廊下の方にやって来るまでの僅かな間。それが、彼と話す時間だった。
大半のメンバーが持ち上がりのまま進む私立校らしく、中等部での部活は引退、という概念があまりなく、高等部の練習に混ざる形で続く。聖ルドルフのテニス部は補強組が来てから歴史が浅いからか、練習は高等部ではなく、従来のテニスクラブで行われているらしい。だから、彼らはこんな受験シーズンにも密に打ち合わせをしているというわけだ。

「最近、観月くんと仲良いね?」
「そうなのかな……たまたま、話しやすい席にいたからじゃない?」
「でも、満更でもないでしょ〜?」

クラスメイトの友人はニヤニヤしながら肩を小突く。周りから見ても、仲良くなっているように見えるのだろうか。彼はとても話しやすいから、きっとクラスでも仲の良い女子は多いのだろうけれど。心が過剰に期待してしまわないように、おどけた調子で予防線を張る。

「そりゃ、イケメンに話しかけられて嬉しくない女子なんていないよ」
「それはわかる!あ、ねぇ今年はバレンタインどうする?」
「受験があるから私はパス。でも友チョコくれたらホワイトデーにお返しはするよ」
「三倍ね!」
「無理!」

バレンタイン。校内全体が浮き足立つような行事だ。彼もチョコを貰うのだろうか。おそらく、たくさん貰うはずだ。イベントに乗っかって、告白でもしてみようか。きっぱりフラれれば、早く諦めがつくかもしれない。一瞬だけ考えて、すぐにやめた。卒業までの僅かな間でも、彼が教室に来て話しかけてくれる時間を失いたくない。でも、友チョコくらいなら。顔を合わせれば話をする程度の間柄にはなったけれど、この関係が友人と呼べるのかどうかもわからない。普段なら大量に友チョコを手作りして、女友達同士で交換し合うバレンタインだけれど、今年は受験で手作りしていられる時間もない。作り過ぎた、なんて言えば渡す口実にはなりそうだけれど。友人にバレンタイン不参加を表明してしまったし、彼に渡せるほどのものは作れる気がしなかった。
どうしようもない。何も出来ない。わかっているのに、帰り道でちょっとコンビニに立ち寄っただけでも、バレンタインコーナーで足が止まる。可愛いラッピングの、小さいチョコレート。これくらいなら重くもない。渡せるかどうかはわからない箱を手に取って、レジに並んだ。本当に、諦めが悪い。
そんなふうに浮ついていたからだろうか。翌日、そのチョコレートをしっかり鞄に入れたことだけ確かめて、肝心の教科書を一冊、勉強机の上に置いたまま忘れてしまった。

「やばい」
「どうしたの?」
「教科書忘れたかも……」
「うそ、借りてきなよ。あの先生そういうの煩いし」
「うん、そうする」

しかも、よりにもよって一限目はその厳しい英語教師の授業だ。借りるにしても急がなければ。隣のクラスの友達に借りようと教室を出たところで、彼と鉢合わせた。

「あ、観月くん」
「ああ、さん。おはようございます」

優雅に微笑んで、彼は鞄を抱え直した。一瞬だったけれど、少し開いたその鞄からは、数個の鮮やかな包みが見えていた。もう、そんなに貰っているのか。告白されたのだろうか。彼は、何て答えたのだろう。思考が明後日の方向へと飛びかけるが、今はそんなことにショックを受けている時間はない。

「おはよう。あ、あの」
「何ですか?」
「もしよかったら、英語の教科書貸してくれない?忘れちゃったみたいで」
「ああ、いいですよ。ちょっと待ってください」

彼はその場で、鞄の中を漁る。チョコは何個貰ったのだろう。どうしても気になって、ちらりと視線をやったけれど、彼は上手い具合に中を見せてはくれなかった。

「どうぞ」
「ありがとう。終わったらすぐに返すね」
「急がなくても大丈夫ですよ。今日使うのは午後ですから」

差し出された綺麗な教科書。使い込んではいるけれど、男子によくあるような雑な扱いはされていないのがわかる。教室に戻って、授業が始まる前に、そっと表紙の名前欄を撫でた。丁寧に書かれた、観月はじめ。教科書の中には落書きひとつなく、丁寧に、綺麗に、ポイントを押さえた解説なんかが入っていた。これ自体が参考書のようだ。真面目で几帳面。彼から受ける印象そのままの教科書を捲りながら、鞄の中に転がっている小さなチョコレートのことを考えた。
授業を終え、友達に見つかる前に、教科書と小さな箱を抱え込むようにして、隣のクラスへ走る。彼もちょうど授業を終えたようで、廊下に出てきたところだった。こちらに気付いて、ふわりと笑う。そんな笑顔を向けられたら、英語の授業中に考えたセリフが全部飛んでしまいそうになる。何でもないようなフリをして、平静を保って、顔が赤くならないように。そっと深呼吸をして、教科書と可愛らしい箱を差し出した。彼はほんの少し、目をまるくする。

「観月くん、これ、ありがとう」
「どういたしまして。……これは?」
「あの、友チョコ買いすぎちゃって……今日バレンタインだし、教科書借りたお礼に、どうぞ」
「……ありがとうございます」

ちゃんと言えた。声も上擦らなかった。顔も赤くなってはいないだろう。よかった。早く教室に帰らないと、こんなところを友達に見られたら、変に勘繰られてしまう。

「じゃあ」
「ちょっと待って」
「え?」

彼の声に、足を止める。授業が終わって教室から出てきた人たちが、何を話しているのかと気にしながら通り過ぎて行くのがわかる。ただでさえバレンタインで、男女が一緒にいると揶揄われやすい。それに加えて、彼は目立つのだ。友達に見つかったらどうしよう。そう考えていると。

「……他の人にもあげるんですか?チョコ」
「え……」
「いえ、違いますね」

彼もちらほらと注目を集めていることは気付いているのか、他の生徒からは聞こえないよう、耳元で囁く。そんなに近付かれたら、平静を装えなくなる。心臓が煩い。透明な日常を、彼があっという間に染め上げる。

「僕以外の男には、あげないでください」

彼の声は、チョコレートよりも甘く響いた。





(2020/2/14)