運命に甘やかされた成れの果て




カンカンカン、と鳴り響く音と共に目の前で遮断機が下りる。
立海の近くには、開かずの踏切がある。通勤通学の時間帯に一度閉じてしまえば、なかなか開いてくれないことで有名だ。生徒たちはできる限りそこを通らないようにするか、通学時間を早めるかといった対策を余儀なくされる。けれど放課後の帰宅時間帯においては、よっぽど急いでいない限りはそこを通る生徒も少し増える。運悪く踏切が閉じてしまっても、おとなしく待っていた方が遠回りするよりもマシだ、という判断だ。柳はその踏切を通ることはほとんどないが、時折踏切の向こうにある古書店に通うために、その場所を横切らなければならないことがある。しかし、踏切を通過する電車の時間を把握しているため、それほどの不便を被ったことはあまりなかった。なかった、のだが。

「……参ったな」

柳は久々に心からの溜息を吐くことになった。電車の時刻表の変更を、想定に入れるのを忘れていたのだ。痛恨のミスである。目の前で下りたままの遮断機は、一向に上がる気配を見せない。柳の溜息と小さな独り言も、カンカンカン、と鳴り続ける警報音に残らず掻き消されてしまう。運が悪い、と思うしかなかった。いつに開くのかも全くわからない。そもそも、この踏切は遮断機が下りるのが早く、上がるのが遅いのだ。安全に配慮されすぎである。いっそ、今日は古書店に寄るのを諦めようか。そう考えていると。

「あれ?柳くん?」

後ろからかかった声に振り向く。その姿を認める前から、声の主はわかっている。柳は振り向いて、そして諦めるのはやめにした。

「偶然だな。あの古書店か?」
「うん、そう。柳くんも?」

隣に並んだ彼女が柳を見上げて微笑む。それだけで今日は運が良いと思ってしまうのだから、自分も大概現金な性格だと、柳は胸の内で自嘲した。

は、中学の頃から六年間で三度ほど同じクラスになったことがある同級生だ。高校三年生の今は、隣のクラスにいる。それでもまだ離れすぎていないだけマシだ、と柳は思っていた。隣のクラスなら休み時間に廊下に出れば、幾らでも姿を垣間見ることができる。そんな千年も昔の人々がしているような恋を、柳は何年も後生大事に抱え込んでいるのだった。
元々本好きな彼女とは、最初に同じクラスになった中学一年生の頃から話が合った。古書店で出会ったこともある。古い紙の匂いが好きなのだ、と彼女は言った。図書館などの広く大きな場所ではあまり味わえない、小さな古書店独特の、むわっと立ち上るような紙の匂い。電子書籍なんかが台頭して、何冊もの本を持ち運ばなくとも、いつでも好きな本を選んで読める。そんな時代になっても、沢山の本が並ぶ棚の間に立って、古い紙の匂いを嗅ぎながら、思いも寄らない運命の一冊との出会いを探す。そういう作業が、たまらなく好きなのだと語る彼女の横顔に見惚れた。きっと、あのときから、柳は彼女に心奪われてしまったのだ。

「テニス部は、もう引退したんだっけ?」
「ああ。夏までだな。幸村なんかは、まだ部室に顔を出しているようだが」
「そうなんだ。だからこんな時間にここにいたんだね」

カンカンカン。鳴り響く警報音にかき消されないように、肩を寄せ合って話をする。ここまで近付いて話すことは今までなかった。彼女のシャンプーの匂いまで香ってくるような距離感に、心臓はさっきから警報音に負けないほど大きく鳴り響いている。それでも表向きには普段と全く変わらない表情を取り繕えているだろう。テニス部の中でも、感情の読みにくい方だと自負しているが。彼女と話しているとどうしても、口角が緩んでしまいそうになる。彼女の口から楽しそうに語られる、最近見つけた本の話を聞いていると、開かずの踏切が開くまでもあっという間に感じられた。目の前を電車が通り過ぎる。流石にそのときばかりは、肩を寄せても声を張り上げても、言葉が届くことはないだろう。二人とも耳障りな音に僅かに顔を顰めながら、口を噤んだまま電車を見送った。警報音が鳴り止み、遮断機が開く。

「先月に出た新刊は読んだ?」
「ああ、あれもなかなか良かった。あれだけ大風呂敷を広げながら、よくああも上手く纏め切れるものだと感心させられたな」
「そうそう。私もあのラストにはびっくりしちゃった」

話しながら歩く古書店までの道のりも、いつもよりもずっと短く感じてしまう。もうそろそろか。そんなことを考えながら、彼女の横顔を見つめ、小説の話題に相槌を打つ。その彼女が、何か言いたげに柳の方を見つめ返してくるものだから、余計に意識はそちらに集中してしまいーー、気付いたときには、手遅れだった。

「あ、柳くん、」
「ん?ぐっ……!」

割と盛大に、それはもう言い訳のしようもないほどがっつりと、おそらくその場に幸村でも居れば、蓮二がそんなことになるなんて、と呼吸が苦しくなるくらいの大笑いをしそうなほど、柳は派手に電柱にぶつかってしまったのだった。何か言いたげな視線と、少しだけ焦ったように名前を呼ぶ彼女の声は、それを知らせるものだったのかとようやく気付く。これは、かなり。否、相当、恥ずかしい。

「ご、ごめん、危ないって言おうとしたんだけど、まさか柳くんが電柱に気付いてないとは思わなくて……」
「い、いや、すまない。話に気を取られていたようだ」

人通りの少ない道なのもあって、その場面を見ていたのが彼女だけというのは唯一の救いであったが、出来ることなら彼女に一番見られたくなかったのが正直なところだ。まあ、彼女がいなければ、電柱にぶつかるほど気を取られることはなかったのだろうけれど。ぶつかり方の派手さほど痛みはないが、それでも頭が痛くなる。なんとか彼女の記憶から、この場面を消し去る方法はないものか。最初は心配そうに眉を下げて慌てていた彼女も、心配するほどの怪我がないことがわかったのか、徐々に唇を震わせ始めた。こんな状況だというのに、普段は大きく表情を変えない彼女が、堪え切れないというふうに笑っているだけで、柳の心臓はまた大きく跳ねてしまう。

「ふ、ふふっ、柳くんでも、そんなふうになることあるんだね」
「いつもは、ここまで不注意なことはない」
「じゃあ今日は特別なの?」
「あ、いや」

しまった。これでは、いつもと違う原因が、彼女にあるのだと察されてもおかしくない。本当に、自分でも呆れるほど、彼女の前では柳蓮二らしく振る舞えない。

「ふふふ、いつもと違う柳くんが見られて、私はラッキーなのかもね」

どうもツボに入ってしまったらしい彼女の笑いが止まらないうちに、目的の古書店まで辿り着いた。扉を開いた瞬間、本の匂いが鼻腔を満たす。図書館や図書室よりも、さらに濃縮されたような、古い紙の匂い。

「……この匂い、大好きなんだよね」
「ああ、俺もだ」

二人で顔を見合わせ、また笑う。入り口の近くのレジに座っている老店主に会釈しながら、棚と棚の間を歩いていく。彼女は時折立ち止まりながら、棚を上から下まで眺め、柳はその様子を伺いながら、気になる本を探す素振りをする。

「柳くん、これ読んだ?」

彼女が本の海の中から選び取ったのは、古びた恋愛小説だ。偶然は二度重なれば、それは運命になる。作中でそんな台詞と共に、男が異国のカフェで二度出会った同じ旅行者の女に言い寄る。そんなどこかありきたりな設定だが、台詞回しや描写が巧みで妙に惹かれる話だった。たった二回の偶然で運命になるなら、どんなにいいか。

「ああ。それなりには楽しめた」
「へぇ、意外かも。柳くんは、運命とか信じない人かと思った」
「運命かどうかは所詮後付けだ。一つの事象に対して、後から思い返した場合にいくらでも理由をつけることはできる」
「ふふ。じゃあ、運命かどうかを決めるのは、それが運命であってほしいと願う人の心ってことね」
「……そうだろうな」

軽く店内を一周して、それぞれ目当ての本を買い求める。と言っても、柳の方は適当に手に取った本だ。彼女といるとどうしても意識がそちらに集中してしまい、ゆっくり本を吟味する余裕もなくなってしまう。そうして帰路につきながら、自然と足が踏切に向かっていることに気付く。まだ、もう少し。二人で話す時間が欲しい。そんな時間はいくらあったところで、満足することはないだろうけれど。
カンカンカン、と鳴り響く音と共に目論見通り遮断機が下りる。一人であれば走ったかもしれないが、今日その必要は感じなかった。そもそも、家までの帰り道であれば敢えてここを通る必要すらない。隣の彼女も特に慌てた様子もなく、開かずの踏切の遮断機が下りるのを見ていた。もし、彼女も同じ気持ちなら。同じように自分と過ごすことを心地良いと思ってくれているのなら、どんなにいいか。そんなことを考えていると、彼女が警報音の中で口を開く。

「偶然は二度重なれば、それは運命になる」

それは先程話した小説の台詞だ。ところどころ音にかき消されて聞き取りにくくもあったが、よく知った言葉であったので聞き間違えることはない。前を向いたままだった彼女が、ふと柳の方へと視線を転じた。口元は微笑んだままだが、目は笑っていない。読みにくい表情だ。続く言葉を聞き逃さないように、顔を近付ける。心臓の音がこれだけ大きくとも、表情はいつも通りに取り繕えているだろう。今日ほど自分のポーカーフェイスに助けられたことはない。

「柳くんは、運命って信じる?」
はどうなんだ」
「運命を願う人の気持ちは、分かるかな」

驚きに、目を見張った。もし、彼女も同じ気持ちなら。そう願った。それは、彼女も同じだったのだろうか。先程まで真剣そのものだった瞳に、柔らかな光が宿る。きっと自分も同じ目をしているのだろうと、柳は思う。

「私ね、本当はここ通らなくても帰ることはできるんだよね」
「奇遇だな。俺もだ」

ここまで言われれば、流石に希望的観測かもしれないと自分を戒める必要も感じなかった。心臓の音が耳の奥で響く。カンカンカン、と鳴り続ける警報音よりもずっと煩い。彼女が口を開こうとするのを、待て、という一言で止める。それだけを言うのにも、喉がカラカラになってしまって苦労した。

「お前が言わんとすることを、俺が正しく理解できているかはわからない。だから、俺の言葉を先に伝えさせてくれ」

おそらく、きっと。彼女が次に口にする言葉は、柳の中にあるものと同じはずだ。それでも、百パーセントの確率で当てる自信はない。全く、恋愛というものは難しい。轟音を立てて、電車の音が近付いている。それにかき消されてしまわぬよう、彼女の耳元に口を寄せる。

「   」

届いただろうか。そんな心配は、無用だった。おそらく自分はひどく満足げな笑みを浮かべているはずだ、と柳にはわかる。何故なら彼女は頬から耳元まで、真っ赤に染まってしまっていたのだから。





(2019/8/12)