二人乗りの地球




小さい頃は、幼馴染って特別だと思っていた。昔よく遊んだ公園の、誰もいないブランコを揺らす。黄昏時の公園って、不思議だ。勝手にノスタルジックな気分になってしまう。あの頃は、よく二人でタコみたいに見える滑り台の下に隠れて遊んだっけ。暑い夏だった気がする。中にいると、蝉の声や他の子供の遊ぶ声、車の走る音なんかも遠くなって。光が遮られた暗いスペースで二人、子供らしい他愛もない話をして笑い合った。あのときはなんだか、世界に二人きりしかいないように感じた。まだお互いの家と公園だけが、世界の全てだった頃の話だ。

「ブンちゃん」

誰もいない公園で、小さくその名を呼んでみる。今はもう、そんなふうに彼を呼ぶことはない。小学校まではそう呼んでいたけれど、中学に上がったくらいに、どちらともなく名前呼びをやめて、苗字で呼ぶようになっていた。それが正解、なのだろうか。彼はそのことについて、何も言わない。というか、話をすること自体が極端に減った。廊下ですれ違えば「よっ」とか「おお」とか、それくらいは言ってくれるけれど、昔のように互いの家に遊びに行くこともない。せいぜい母親同士が何かを持たせて、向こうの家に届けて来なさい、なんて言われたときに、玄関先にお邪魔する程度だ。
中学で有名なテニス部に入って、髪を真っ赤に染めた彼は学校の中でも目立っていた。同じ学年の、一年生からレギュラーを勝ち取った三人と共に、彼も徐々に頭角を現していく。結構近寄りがたい雰囲気のある面子の中で、彼は弟がいるからか面倒見も人当たりも良くて、特に後輩からは凄い人気だと聞いたことがある。もちろん彼からではなく、女子の噂話で、だ。そんな彼と名前で呼び合っていたら、無用のやっかみを受けることになったかもしれない。苗字で呼び合うようにしてよかった。

本当に、そうだろうか。

思考はいつも、堂々巡りを繰り返す。マンモス校の立海で狙って同じクラスになれることなどほぼない。高校に入ってからも、彼とは近くて隣のクラスだ。クラスメイトの幸村に会うために、ちょくちょく教室を訪れる彼の姿を見かけるだけ。少しずつ少しずつ離れた距離は、ゆるやかに幅を広げていて。最初はいつでもひょいと飛び越えられそうな小川だったのに、いつの間にか足を踏み外せば流されてしまいそうな、越えられそうで越えられない大きな川が二人の間に流れている。それを渡る勇気は、ない。

「幼馴染って、なんかもっと特別っていうか、仲良いもんかと思ってた」
「別に仲悪いわけじゃないし、良いと思う……けど」
「仲良い幼馴染がいるのに、忘れた教科書を俺に借りる必要ある?」
「それは……部活とか、最近は幸村の方が丸井と関わる時間長いからでしょ」
「ほら、呼び方とかさ。二人とも苗字で呼ぶだろ」

偶然一緒になった日直の仕事をこなしながら、幸村はズバズバと核心に踏み込んでくる。彼の幼馴染という事実はテニス部のメンバーには伝わっているらしく、そのおかげなのか彼らは最初に出会った頃から親しくしてくれている。しかしその反面、言葉に遠慮はない。

「高校生にもなって名前で呼び合ったりしないでしょ」
「そういうもん?」
「そういうもんだよ」
「ということは、昔は名前で呼び合ってたんだ」
「そうだけど」
「へぇ、幼馴染っぽいね、それ」
「ぽいじゃなくて、幼馴染なんだけど」

言い返すと、幸村は驚いたように目をまるくしている。しまった、と思ったがもう遅い。口から出た言葉は戻せない。案の定、幸村は完全に揶揄うような慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。何も言ってこないのが、逆につらい。

「なによ」
「いや?別に何も言ってないけど?」

絶対何も思ってない顔じゃないくせに、白々しくそんなことを言う。しかし、ここでそこを突けば薮蛇になることはわかりきっていた。日直の仕事を終わらせると、幸村は早々にグラウンドへと向かう。テニス部の練習があるのだ。帰り支度を整えながら、窓の外を見る。日が随分長くなった。夏は、もうすぐそこだ。ひと足早い蝉の声に混じって、グラウンドから響くかけ声が聞こえた。

夏風邪は馬鹿が引く。そういった俗説が本当かどうかは知らないが、初めてこの身に降りかかってきた疑惑に天井を仰ぐ。仰ぐまでもなく、ベッドに寝ているのだから、視界にあるのは最初からほぼ天井なのだけれど。ラインで同じクラスの友人グループに風邪を引いたと連絡すると、ノータイムで返信がいくつも来た。通学時間帯とはいえ、女子高生の即レスは本当にすごい。心配してくれる言葉たちに、ありがとうと返しながら、ふと違うことを考える。彼に連絡した方がいいだろうか。一応、ラインは知っている。最新のやりとりは一ヶ月前。『お母さんがいちご持ってけって。今から行っていい?』『マジ?サンキュー。おばちゃんに愛してるって言っといて』だ。愛してるって、と伝えた母親は、ほんと息子に欲しいわー、と大層デレデレした顔をしていた。

「あんたがブン太くんと結婚すれば義理の息子になるのよねー」
「はいはい」

昔から、耳が腐るほど聞かされた言葉だ。今更何を思うこともなかった。それを思い出しながら、ラインの画面を見つめる。多分、朝のホームルームで風邪で休みということはクラスメイトに伝えられる。流石に朝には来ないだろうけれど、昼休みとか、最悪部活で彼は幸村と話すはずだ。そしたらきっと、幸村がこのことを伝えてくれるだろう。それなら別に、今わざわざラインしなくてもいいじゃないか。同じクラスならまだしも、隣のクラスだ。あえて伝えることじゃない。ぐるぐると考え込んでいる間に、かなり熱が上がってきたような気がする。瞼が重い。スマホを置いて目を閉じると、睡魔が一気に意識を奪い去ってしまった。

夢を見た。世界に二人しかいなかった頃の夢だ。滑り台の下は日陰だけれど、熱がこもって暑かった。それでも、世界から隔離された秘密基地のような特別感があって、そこから出て行く気にはなれない。蝉の声が遠くに聞こえる。外で一人ボールを蹴っていた彼が、それを抱えて滑り台の下へ入ってくる。

「ここあついな」
「そともあついよ」
「でも、そとのがたのしいだろ。いっしょにあそぼうぜ」
「そとやだ。ブンちゃんもこっちであそぼ?だってここ、ひみつきちみたいだもん」

その頃二人でハマって見ていた戦隊モノ。そこに出てくる秘密基地はもうちょっと広くて快適そうだったけれど、子供だけの秘密の場所という意味ではそこも充分秘密基地だった。

「たしかに……おれがレッドでおまえはブルーな!」
「えー!ピンクがいい」
「ブルーのほうがかっこいいだろ。それにブルーはレッドのあいぼうなんだぜ」
「ブンちゃんのあいぼう?」
「そう!そっちのがいいだろ?」
「うん!」

なんて単純なんだろう。単純で純粋で、まだ世界は二人きりで、互いが一番特別だった頃の思い出。たぶん、きっと、あの頃から。可愛い女の子でいるよりも、彼の特別でありたかった。

夢から覚めて目を開けると、明るい天井が見えた。あれ、電気ついてたっけ。そう思ってぐるりと首を巡らせると、勉強机の椅子に座っている後ろ姿が目に入る。真っ赤な髪。最近はずっと見ることもなかった、彼の背中。

「ブンちゃん……?」
「ん?起きたのかよ、熱は?」
「わかんない……多分下がってる……」

のろのろと起き上がってそちらを向く。彼が座ると、小学校のときから使っている勉強机が少し小さく見えた。それほど身長が高いわけではないけれど、体格はがっしりとしている。最初からわかっていたことだが、彼も男の子なんだな、と実感させられた。夢から覚めたばかりの咄嗟のことで、自分の口から昔の呼び名が出ていたことに気付いてハッとするが、彼は全く気にしていないようだった。

「なぁ、これ続きねぇの?」

彼の手にあるのは、ずっと購読している人気の少女漫画だ。机に向かって何をしているのかと思えば、それを読んでいたのか。

「続きはあるけど、友達に貸してて」
「ふぅん。じゃあ返ってきたらまた読みに来るわ」

また来るんだ。貸して、ではなく、また来るという言葉に、ほわ、と胸があたたかくなる。この想いを、なんと言葉にすればいいのだろう。当たり前のように彼がそこにいて、あの頃みたいに話せている。たったそれだけのことが、こんなに嬉しいなんて。

「いいけど……ブンちゃん、何しに来たの?」
「何って、プリント届けに来てやったんじゃん」
「そうなんだ。普通クラスメイトとかじゃないの、そういう役目って」
「お前のクラスメイトより俺のが近いもん、ここ」
「そうだけどさぁ」

やはり幸村あたりにでも聞いたのだろうか。それでわざわざ、隣のクラスなのにプリントを届ける役目に名乗りを上げてくれたのかもしれない。嬉しくて胸が詰まりそうになる。

「なに、不満?」

おどけたように彼はそう言うが、不満なんて持ちようがなかった。

「ううん。ありがとう」
「どーいたしまして!じゃ、これも読み終わったし帰るかな」
「え、帰るの?」

思わず口から飛び出た言葉に自分で驚く。彼もそれは同様だったようで、少しだけ目を見開いた後、優しく微笑んだ。幸村とは違う。仕方ないなぁ、とでも言いたげな、ただただ優しい目だった。

「相変わらず寂しがりだな、お前」
「……なんかブンちゃん、すっかりお兄ちゃんらしくなったね」
「まぁな、俺兄ちゃんだもん」

彼に弟が生まれる前から一緒にいるからか、あの頃はあまり意識することがなかったけれど、しばらくぶりにこうして話すとよくわかる。ずっと見ていてわかっていたつもりだったが、面倒見の良さが滲み出ている。これは確かに、後輩から人気が出るわけだ。少しばかり面白くない気持ちになってしまったのは、仕方がないことだろう。彼はお兄ちゃんらしい笑みを浮かべたままベッド脇に近付くと、くしゃりと髪をかき混ぜるように頭を撫でてきた。心臓が大きく跳ねる。頬に熱が集まってきた。急にそんなことをされたら、せっかく下がった熱がまた上がってしまう。

「しっかり寝て、ちゃんと治せよ。俺らはいつでも会えるんだからさ」
「……うん」

そんな心情を知ってか知らずか、彼は優しい声でそう言った。いつでも会える。多分これまでは、その言葉に甘えていた。会おうと思えばいつでも会える。話そうと思えばいつでも話せる。この幼馴染という特別な距離は、絶対変わらない。そう信じて、徐々に開いていく距離に見ないふりをした。きっと、お互いに。だからそれをわざわざ言葉にした。今度はちゃんと、二人がわかるように。大丈夫、離れてなんかいない。まだ二人で一緒にいるときの距離は、あの頃のまま。

「おやすみ、ブンちゃん」
「ああ、おやすみ、

久しぶりに呼ばれた名前は、二人だけの部屋に優しく響いた。





(2019/7/30)