ベートーヴェンの五線譜




立海大附属のテニス部レギュラーは有名だ。特に、自分たちの代はかなり目を引くメンバーが集まっていると思う。しかし、名門私立なだけに有名な生徒は彼らだけではない。運動部、文化部、ともに全国出場レベルの者たちがひしめいていて、全日本に選ばれるような生徒も少なくなかった。特に彼女は有名だ。中等部に入学したばかりの頃から、その名前は全校に知れ渡っていた。天才少女、。いくつかの有名なピアノコンクールで入賞した経験を持ち、在学中にも海外のコンクールに出場するため長期に休むこともよくあった。関東ならば氷帝学園の方が音楽方面において長けていたはずだが、実家から程近い立海の方が練習時間が取れると言って、こちらを選んだらしい。同じクラスになったことはあったが、彼女は積極的に人と関わろうとしなかった。皆と同じように授業を受け、休み時間には大抵いつも楽譜を読んでいた。だから柳も、彼女と話したことはほとんどない。中等部で、同じクラスの隣の席になったときも、彼女は楽譜を、そして柳は小説を読んでいた。
高等部に入って一年ほど経った頃、その日は海外の小説に目を通していた。その中でピアノを弾く描写が出てきたとき、彼女のことが頭に浮かんだ。この主人公は恋人との関係に苦悩し、人生に絶望し、それでもピアノへと向かう。その感情を乗せ、鍵盤に指を滑らせる。その音は重厚で物々しいものと描写されていた。指に乗せる感情が異なるだけで、そこまで違った曲になるのだろうか。彼女は演奏するときに、何を考えているのだろう。ふと、そんなことが気になった。
が学内でピアノの練習するのは、昼休みのみ。放課後はまっすぐに家へと帰ってしまう。母親がピアノの講師らしく、帰宅後がレッスンの時間なのだと誰かが言っていた。だから昼休み、音楽室のドアの前で、彼女の音を聴いてみた。

「ベートーヴェンの月光か」

有名な曲だ。クラシックに疎い者でも、一度は耳にしたことがあるだろう。曲の終わるタイミングで声をかけると、彼女は目を丸くしてこちらを見つめた。中等部入学当初は物珍しさに彼女を見にやって来る生徒も多かったらしいが、ストイックに練習するのみという姿勢に冷やかしは減っていき、高等部の今では音楽室の周りに人影はない。

「柳くん?なんでこんなところに?」

たった一度、同じクラスになったことのある柳の名前を、彼女は覚えていたらしい。ろくに会話もした覚えはないのだが、テニス部のレギュラーというだけでもこの学校では有名だ。名前が聞こえてくることもあったのかもしれない。

「俺の読んでいる小説に、主人公がピアノを弾くシーンがあってな。それを読んでいたら、誰かがピアノを弾くのを聞いてみたくなった。流石は天才少女といったところか」

柳がそう言うと、彼女は僅かに目を逸らして苦笑した。

「ありがとう。でも技巧的にはそんなに難しくないのよ、十四番は」
「十四番?」
「ピアノソナタ第十四番。月光はベートーヴェンがつけた曲名じゃないの。楽譜通りに弾くことは難しくないんだけど、その分情感を出すのが難しいんだよね」

確かに言われてみれば、彼女の音は綺麗ではあったが、本に書いてあったような感情が響いてくるようなものではなかった。楽譜をなぞるだけでは人々はその曲に胸を震わせることはない。演奏者の想いが指先に乗って初めて、それは聴者の心に届くものらしい。

「この本にも書いていたな。感情を曲に乗せることで、全く違った曲になると。やはりそうなのか?」
「うん。そうなの。気になるなら、オススメのCD貸そうか?」
「いや、結構だ。クラシック音楽にはそれほど明るくないからな。それより、ここで生の音を聴いていた方が面白そうだ」

著名な演奏者が弾いても、その者が何を考えてその曲を演奏しているのかなんてわからないし興味もない。の弾く曲なら、何を考えて弾いているのか、彼女に訊けばすぐにわかる。それからしばらく、昼休みは音楽室に通うのが日課になった。彼女はストイックに練習する方だと聞いていたが、曲の合間にはいろいろと話してくれた。

「今は何を考えて弾いてたんだ?」
「え?今日の晩ご飯はハンバーグかなって」
「昼を食べたばかりだろう?もう夕飯の話か」
「だって冷蔵庫に牛挽肉が入ってたのよ!ご飯以外に楽しみがないし!柳くんは好きな食べ物ないの?」
「なんでも好きだが、薄味のものがいいな」
「じゃあアメリカに行ったら何も食べられないね。暴力的よ、あっちの料理は」
「音にすると?」
「こんな感じ」

重低音がいくつも重なって胃に響く。なるほど、これは重そうだ。思わず笑いがこみ上げる。彼女の方を見ると、同じように笑っていた。隣の席にいた頃には気付かなかった。話してみると彼女は気さくで、意外に明るく、よく喋る。それに、柳が思う以上に練習漬けの日々を送っているらしかった。あれからほんの二週間で、の音は全く違うものになっていた。ピアノソナタ第十四番、月光。母親に言い渡された課題であるというそれは、最初の頃よりも音に深みがあり、音楽室を照らす真昼の陽光が月の光に見えるようだ。

「俺が最初にここに来た頃から、だいぶ変わったな」
「そうかな」
「ああ。情景が浮かぶようだ。あの本が言っていたのはこういうことだったんだな」
「ありがとう。柳くんのおかげかもしれないね」
「俺の?」

音楽室に来て、彼女の曲を聴いて、他愛もないことを話すだけ。それだけで、彼女の音は変わったのだろうか。

「ううん、なんでもない」

それからその曲は合格を言い渡されたらしく、コンクールの課題曲であるショパンなどを聴くことが多くなった。クラシックに興味はなかったが、彼女が演奏する曲は何度聴いても飽きなかった。耳に澄んだ音。鍵盤を滑る指。真剣な表情で、ときには笑みを浮かべながら奏でられる曲。全てが柳を惹きつける。おそらく最初から、興味があったのはピアノだけではない。しばらくして、彼女はコンクールのためにまた何日か学校を休んだ。主催のホームページをチェックして、が順調に勝ち進み入賞したことを知る。もし連絡先を知っていれば、彼女はこの一報を直接伝えてくれただろうか。そんなことを思って、苦笑した。
翌日、彼女が再び登校し始めたことをクラスメイトの噂で聞き、音楽室へと足を向ける。彼女はピアノの前の椅子に座っていたが、鍵盤の蓋は開けられていなかった。まるで誰かを待っているかのように。その誰かは、自分に他ならないのだろうが。柳がドアを開けると、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。その意味に、もうなんとなく気付いている。

「コンクール入賞おめでとう」
「ありがとう」
「あまり嬉しそうじゃないな。また留学するんだろう?」

これも、クラスメイトの噂で聞いた話だ。また一年。彼女はこの学校からいなくなる。

「うん……そうだ。柳くんに、これあげるね。ベートーヴェンのピアノソナタ集」

そのたった一枚のCDだけを残して、彼女はまるで最初からいなかったみたいに、姿を消した。連絡先も知らないまま。そもそも連絡を取り合うほどの仲ですらないのかもしれない。彼女のクラスメイトも誰一人、彼女と離れても連絡を取り合っている者はいないらしい。まるで、最初からいなかったみたいに。静かな音楽室で、柳は棚の奥からプレーヤーを取り出した。少し埃を被ったそれに、CDを入れる。流れ出した、よく知った曲。ピアノソナタ第十四番。彼女の弾くものとは違う、他の誰かが弾いた曲。違った人間が、違った感情をのせて弾くだけで、これほど違った曲になる。当初知りたかったことを、こんな形で知ることになるとは思わなかった。

「なるほど。置いて行かれる側も、寂しいものだな貞治」

一人呟く声にも、答える者はいない。

次にが立海に帰ってきたとき、互いに最終学年となってしまっていた。同じクラスになることはなく、また誰かの口から彼女が帰ってきたことを聞く。昼休みに音楽室へ向かうと、一年前よりも一層磨かれた音が耳に届いた。

「ピアノソナタ第二十三番か」
「柳くん。なんだか久しぶりね」
「ああ。クラシックにほとんど興味がなかった俺が、ベートーヴェンのピアノソナタをいくつか覚えてしまうくらいには久しぶりだな、
「ほんと。CD聴いてくれたんだ」

彼女は柳が現れたことに、ほとんど驚かなかった。少し髪が伸びた。背も高くなっただろうか。柳の方も伸びている上、彼女は椅子に座っているので、よくわからない。屋内で練習漬けで、あまり陽に当たる生活をしていなかったのだろう。肌はあの頃と同じく白いままだった。天才少女。そう呼ばれた彼女の努力がどれほどのものか、柳にももうわかっていた。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。は柳の座右の銘そのものだ。

「熱情。その通称の示すように、情熱的な曲だ。かなり難易度も高いんだろう?」
「うん。この曲はね、ある伯爵に献呈されたものなの。ベートーヴェンはその伯爵の令嬢と恋人だったけど、身分違いの二人が結ばれることはなかった……そう考えると、少し悲しい曲よね」
「そうか?」

彼女がいない間にいろいろと調べる時間はいくらでもあった。ベートーヴェンは恋多き人生の中で、想い人と添い遂げることはない。その理由は様々だが、貴族の令嬢との恋の果てに身分の違いで引き裂かれることも一度や二度ではなかったようだ。これも、相手が離れていってしまう中で、その女性に対して贈られたもの。

「この曲は、彼が五線譜に乗せた恋文だろう?確かに結ばれることのない苦悩はあったかもしれないが、それ以上に相手への想いの方が強く綴られているんじゃないか?」
「柳くんって、結構ロマンチスト?」
「そうかもしれないな」

彼女は意外そうな顔をして、笑った。

「でも柳くんの言う通りだね。それに、恋人が離れていく苦悩はあったかもしれないけど、それだけ想える人がいるっていうだけでも、幸せなことなのかも」

離れていく苦悩よりも、それ以上に想える人のいる幸せ。彼女はそう言いながら鍵盤に指を置くが、その指先が鳴らす音は、全く幸せそうには聞こえなかった。胸がぎゅっと掴まれるような音色。

「音が、泣いているように聴こえるな」

柳の言葉に、が静かに顔を上げる。

「私、高校を卒業したらフランスの大学に通うの」
「ああ。聞いている」
「学校も休みがちだったし、友達が出来なくても仕方ないって思ってた。恋なんて絶対しないって、諦められるって思ってたのに」

今にも泣きそうな表情だった。コンクール入賞の翌日、彼女が寂しそうにしていたあの意味にも、一人の音楽室でピアノソナタを聴いたときの寂しさの理由にも、今この胸を占める感情の正体にも、柳はもう気付いている。

「今は昔とは違うぞ。五線譜に乗せなくても、想いを伝える手段はいくらでもある。電波に乗せれば地球の裏側にいたって声は届く。映像もな。身分制に比べれば、距離は大した障害じゃない。それに幸い俺は、気が長い方らしい」

視線の先で、彼女が目をまるくする。その瞳から零れ落ちた雫を指先で拭って、そのまま鍵盤の上の彼女の手に重ねた。

「試してみるか?」

の一回り小さい手のひらに重ねた指が、鍵盤を鳴らす。うつくしい和音と、彼女の答える声だけが静かな音楽室に響いた。





(2018/2/2)