片恋ギャンブラー




もう二年間。様子を見るには充分な期間だった。全国の決勝でネットを挟むよりある意味恐怖だが、勝負に出るしかない。

仁王はバレンタインに本命チョコは受け取らない。それは立海の生徒の間では有名な話で、だからこそ自分のように少しだけ彼と近しい女子生徒たちは義理の皮を被った本命を、友達ヅラを崩さずにあげるのが定例になっていた。それでも毎年十数人あるいは数十人は、彼への想いを胸にわずかの可能性にかけてチャレンジするのだ。『仁王雅治は好きな子以外の本命チョコは受け取らない』そのギャンブルに、参加できたことは未だにない。今年も今年で、義理の範疇から出ないような、それでも比較的可愛らしいものを選んで買った。本当は他の子たちのように手作りもしてみたいけれど、胸の奥にしっかりとしまい込んで隠してきた想いが、溶かしたチョコレートと一緒に溢れ出てしまいそうで。毎年軽い冗談と共に誤魔化して渡すたびチクリとした痛みが走っても、気持ちを偽る痛みより、受け取ってもらえない恐怖の方がずっと強い。だからこれでいいんだと恐がりな自分に言い聞かせながら、登校してくる彼を待った。

「おはよー、仁王。今年も遅刻ギリギリだね」
「今日は昇降口から教室までが遠くてのぅ」
「女の子に捕まってたんだ?その割には、今年は一個も持ってないね。全部本命だったの?あ、これ、私は毎年の義理だけど」
「……今年は、義理は受け取らん。すまんの」

頭を殴られたような衝撃だった。チョコレートを差し出した手が、行き場を失って震えそうになる。こんなシチュエーションは、想定していなかった。

「……あ、そうなんだ。もー、ほんと仁王って贅沢だよね!」
「そうかもしれんな」

なんとか冗談っぽく会話を続け、受取人のいなくなった箱を鞄の中にしまい込む。仁王が淋しそうな笑みを浮かべるのを見て、気がついた。彼はきっと、ずっと待っているのだ。好きな子からの、本命を。
その日の立海は大変な騒ぎだった。仁王雅治が義理すら受け取ってくれない。義理の皮を被ってももう受け取ってもらえないのならば、とばかりに本命チョコレートとして渡しに行っては散って行く女の子が後を絶たず、休み時間のたびに仁王はふらりと姿を消し、それを探して女の子たちも右往左往。女子トイレでは受け取ってもらえず散って行った女の子たちがすすり泣く声とそれを励ます女友達の声が常に聞こえ、ついには真田が学業に関係ないものを持ち込むなと怒り出し、気の強い女の子たちがそれに抗議するような事態となっていた。
こちらも例に漏れず、朝一番に義理を突き返されたにも関わらずまだ衝撃の余韻を味わっていた。突き返されたのを機に仁王への気持ちを昇華させてしまう潔さもなければ、この義理チョコを本命にジョブチェンジさせて散って行く勇気もない。斜め前は相変わらず空席のままで、またどこかで女の子がその男のために泣いているのだ。それとも。昼休みが終わるチャイムとともに戻ってきた仁王が何も持っておらず、浮かない顔をしているのを見て、ホッと息を吐く。まだ、ギャンブルに勝った女の子はいないようだ。仁王がチラリとこちらを振り向き、目が合った。

「……、放課後で構わんき、古典の宿題写させてくれんか」
「あ、うん、いいよ」

騒ぐ胸の内を見透かされないよう、いつもと同じように返事をする。なんでわざわざ放課後なのかと思わないでもなかったが、休み時間は女子たちに追い回されてそれどころではないのだろう。こうして三年間、他の女の子より少しだけ近い位置にいる。賭けでこの場所を手放す気には、到底なれなかった。



勝負をかけてみたものの、勝算はない。相手は驚くほどにいつもと変わらず、仁王は何度目かもわからない溜息を吐く。せめて、義理を突き返した際に反応を見せてくれたら、傷ついた顔をしてくれたなら、少しは勝算も見えたしこちらから動くことも考えた。だが、彼女はいつもと同じように冗談みたいな口調で笑いながらからかってきて、その心が全く読めない。二年間、念入りに義理だと言われたチョコレートを受け取り、それでも彼女が他に本命を渡している様子もなかったので安心していたが、そろそろ決着をつけたかった。放課後にも何人かの想いを断り、このまま部活に出てもどうせ集中できないだろうと誰もいない部室に避難した。このまま真田以外の誰かに伝言を頼んで部活はサボり、彼女に連絡をとって古典のノートついでに家まで送る約束を取り付ければいい。その間に勝負をつけられなければ、いい加減潔く諦めるべきなのだろう。部室のドアを開けて入ってきたのは、おそらく自分を探しに行くよう頼まれたダブルスの相方だった。力なく笑ってみせるだけで、彼は大体察してくれる。

「やーぎゅ、今日は部活やめとくって真田に伝えてくれんか」
「……逃げ回るのも、大変そうですね。いっそ貰ってあげてはいかがですか。せっかく貴方に用意してくれたものでしょう?」

本命を渡しに来る女の子たちの気持ちは痛いほどわかる。その勇気が自分にもあればと思うし、尊敬もしている。それを断られる痛みも想像できる。だからこそ。

「気持ちを受け取ってやれんのに、物だけ受け取っても意味なかろう。それに、全部受け取ったら、本命とそれ以外を区別してやることもできんじゃろう」

欲しいものはひとつだけ。特別はお前だけなのだと、わかってもらえなければ意味がない。柳生がそうですか、と呟いて俯く。その手に可愛らしい包装が握られていることに、そのとき気がついた。

「柳生は貰ったんじゃな。本命の相手か?」
「……そうですね」

隅に置けんのぅ。口ではそう言いながら、心底羨ましいと思った。本命の相手からのものだというのに浮かない顔をしているのは、自分に気を遣っているからだろうか。どこまでも紳士な男だと、笑ってしまう。柳生ならきっと、こんな回りくどい勝負を仕掛けたりはしないのだろう。



「別に、送ってくれなくてもいいのに」
「俺のせいで待たせてしもうたし、もう真っ暗じゃろ。も一応女なんじゃけぇ、気をつけんとな」
「一応って何よ、一応って!」

軽口を叩きながら隣り合って帰る時間も愛おしい。この距離が保っていられるのは、仁王と自分が友達だからだ。ふと、仁王が押し黙り、それに合わせてこちらも口を噤んだ。2月の冷たい風が住宅街を吹き抜ける。街灯の光は弱弱しく、光の下から抜けるとかなり暗い。彼がどんな顔をしているのか、ここからではわからなかった。それは同時に、彼の方からも自分の顔が見えないということだ。

「……そういえば、さ、今日は貰ったの、本命」

なんでもないように、友達としての枠を出ないように、軽い口調で。気になってしかたなくて、一日中仁王の荷物が増えていないかを気にしていたなんて悟られないように、いかにも帰り道の話題の一つのような話し方で。

「……はあげたん、本命」

質問には答えずに切り返すその問いは、ずるいと思った。が、別に隠す理由もないので、素直にあげてないと口にする。ふ、と空気が震えた。仁王が笑ったのだとわかる。でもそれはどこか、淋しげで。おそらく今、朝と同じような顔をしている。

「……そんなら、俺が本命を貰える見込みはないのぅ」

暗がりの中の仁王の表情は読めない。その言葉がどういう意味を持つのか、期待して騒ぐ心臓を鎮めながら考える。グルグルと堂々巡りを繰り返す思考では、どうやったって都合のいい答えしか導き出せなくて、だけど掴み所のないこの男相手に、そんな期待を持っていいものなのかと心の防衛線が警鐘を鳴らす。結局何も聞けないでいるうちに、家の近くまで来てしまった。ここでいいよ、と指定した公園の前で、でもただ別れを告げるには、先ほどの言葉が引っかかったままで。

「……ひとつも貰えないの、可哀想だから、あげようか、これ」

意地っ張りで意気地なしの、最大限の勇気を振り絞って、朝方突き返されたそれをもう一度差し出した。仁王は公園を照らすオレンジの街灯の下で、表情を曇らせる。

「……義理なら、いらんよ」

二度目だ。さすがに少しくらい期待した心はあっけなく崩れ落ちて、冗談みたいな口調を装うのにも無理があった。

「……もー、ほんと、あんたって贅沢なん、」

箱を引っ込め、泣きそうになりながら彼を見遣り、言葉は途中で止まってしまった。仁王の方が、泣きそうな顔をしていたから。義理ならいらん、その意味を、都合よく解釈してしまいそうになる。

「……はっきり言ってくれなきゃ、わかんないよ。こわい」
「これでもかなり、頑張っとるんじゃけど。俺だってこわい」

夜の公園は、ひどく静かだ。呼吸の音も、息を飲む音も、期待して弾む心臓の音まで聞こえてしまいそうな。仁王は何度か息を吸い込み、何か言おうとして口を噤むことを繰り返して、長い長い沈黙の後に、ぽつりと呟くように吐き出した。

「………本命なら、もらう」

仁王は好きな子以外の本命は受け取らない。ずっと、そのひとつの贈り物を待っている。街灯のオレンジの光で誤魔化せないほど赤く染まった顔は、いつも詐欺師と呼ばれる飄々とした彼の姿とは程遠かった。おそらく自分も、同じくらい赤くなってしまっているのだろう。

これではもう、賭けにすらならない。





(2015/5/24)