花束から刃




叶うはずのない恋なら、いっそ粉々に砕けて散ってしまおうと思った。憧憬と敬愛と恋慕が入り混じってぐちゃぐちゃになって大きく膨らみすぎたこの想いも、粉々に砕いてしまえばきっと最後には青春の思い出として、キラキラと輝くに違いない。

一世一代の勇気を振り絞って告白した中等部三年のあの日。バレンタインだのクリスマスだの誕生日だのを狙っていたら絶対に今世中に彼と二人きりになることなど出来ないので、なんでもない平日、部活終わりまで彼を待った。部活が終わってもまだ彼は練習を続けていて、チームメイトも、彼を見ていたギャラリーも一人、また一人と帰って行く。最終下校時刻を知らせる予鈴がなって、彼はようやくラケットを下ろした。ボールをひとつひとつ、丁寧に拾って、カゴへ戻していく。ボール拾いなんて、彼が頼めばいくらだって残って拾う人間がいるだろう。それだけの人を惹きつけるカリスマ性を、彼は持っている。けれど彼はそうしない。跡部景吾は、そういう人だった。そういうところが、好きだった。ギュッと心臓を直接掴まれたみたいに、胸が苦しくなる。すき、すき、すき。想いが溢れる。

「あ、跡部くん!」
「あ?か。なんでこんな時間まで残ってんだ」

幸運にも一年生の頃に同じクラスだったためか、顔も名前も彼は覚えてくれている、とそのときは思ったけれど。まさか彼が全校生徒の顔と名前を覚えているなんて考えもしなかった。上に立つ者は、下にいる者全てに目を配る責任がある。中学生にして彼のとんでもなく高貴な王の理論を知ったときには、頭を抱えたものだった。すき。大人になっても彼の下で働きたい。本当にどうしようもない。こんな片想いを、大人になっても持て余すつもりか。

「私、跡部くんがすき」
「……そうか」
「うん。聞いてくれて、ありがとう」
「話はそれだけか?」
「うん。呼び止めてごめんね」

彼はフッてくれなかった。ただ想いを受け止めてくれただけだった。きっと他の人にもそうしているのだろう。跡部くんにフラれた、という話は、そういえばあまり聞かない。あれだけいつも告白されていれば、バレンタインにはざっと二百人はフラれてもおかしくないと思う。それでも泣き崩れるような女子が少ないのは、憧れの彼への告白を、彼が受け止めてくれるからなのだろう。受け入れることはしなくとも。

「待て、今から帰るんだろう。もう遅い。うちの車で送ってやる」
「え、あ、ありがとう」

想いを受け入れることはしなくても、彼は優しい。懐が広い。運転手の人がドアを開けてくれた車に乗り込み、彼の隣に腰掛ける。こんなに近くに彼を感じたのは久しぶりで、鼓動が速くなる。これでは、諦め切れないんじゃないだろうか。窓から移り変わる景色を眺めながら、そんなことを思う。それくらいに久しぶりだ。こんなに近くに彼がいるのは。確か、あれは中等部一年生のときだった。あの日、ずっと抱いていた彼への漠然とした憧れは、しっかりとした輪郭とカタチを持った恋になった。

「一年のときにも、こうしてお前を送って行ったことがあったな」

ちょうど同じことを考えていたらしい彼の声に、心臓が跳ねた。それを宥めて落ち着かせ、なんとか平常を装った声で返す。

「文化祭の準備で遅くなったときだよね。看板と飾り付けがなかなか終わらなくて」
「大体一人で押し付けられすぎなんだよ。どんだけお人好しかと思ったぜ」

そもそも準備段階で思うように人数が集まらなかったのもあって、文化祭の前日だというのに準備はまるで終わっていなかった。けれど、断り切れずに決まってしまったクラス委員長という肩書きの手前、準備を投げ出す訳にもいかない。準備は時間もかかるし面倒臭くても、文化祭当日になれば皆それぞれ楽しんでくれるはずだ。それだけを信じて、看板に色を塗る。全ての飾り付けを終わらせる頃には、日もすっかり暮れてしまっていた。たまたま、最後まで明かりのついていたクラスを見回っていた彼が見つけて送ってくれたのだ。

「跡部くんに『自分の力量以上に引き受けるのは他のやつにとっても迷惑だ』って言われて、それからはちゃんとセーブしてるつもりだけど」
「よく言うぜ。この前も委員会の雑用押し付けられてただろ」
「な、なんで知ってるの?」
「ハッ」

彼は相変わらず、どこか得意げな、楽しそうな顔で笑う。その笑みに、また胸がきゅっと締め付けられる。

「俺様に知らねぇことはないんだよ」

ああ、やっぱり。彼を忘れるなんて、できないかもしれない。

告白から数ヶ月が経って、あのときの『かもしれない』はとっくに確信へと変わっていた。ふとした瞬間に、あの車での僅かな会話を反芻しては顔を緩ませ、廊下を歩くたびに彼を探して、彼を見かけるたびに胸を高鳴らせる日々。つまり、以前と何も変わっていないし、なんなら症状は悪化の一途を辿っている。恋は不治の病とはよく言うけれど、同じくらいに女の子は失恋からの立ち直りが早いとも言われているはずなのに。一か月前のバレンタインには性懲りも無く無記名のチョコレートを用意してしまった。彼の机の大量のチョコレートの中に埋もれさせたので、誰からのものなのかなんてわからないだろうけれど。
あまりにも彼への気持ちの空回りが過ぎて、一度立ち直るという言葉を国語辞典で引いてみた。立ち直るという言葉には、悪い状態になった人や物事が、もとのよい状態になる、という意味があるそうで。いや、失恋後に元の跡部くん大好き状態に戻ったら意味がない。彼への恋心を抱くそれ以前に戻れるのなら、きっと一番いいのだろうけれど。


「跡部くん?」

彼のことを考えていたまさにその瞬間に、後ろから彼の声がして、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。諦めの悪い恋心を見透かされたりしないかと、慌てて普段通りの自分を取り繕う。振り向いた先で彼は紙袋から一輪の真っ赤な薔薇の花を取り出した。

「受け取れ」
「え?これ……」

彼がホワイトデーのお返しに、一輪ずつラッピングされた薔薇の花を返していることは知っていた。もしかして、無記名でもチョコレートを渡したことはわかるものなのだろうか。驚いて、差し出されたその花を受け取れずにいると、彼もこちらの動揺に気付いたらしい。

「ホワイトデーだからな。お前の告白はバレンタインじゃなかったが、まあいいだろう」
「あ、ありがとう!」

彼への恋心を抱くそれ以前に戻れるのなら、きっと一番いいのだろうけれど。この想いが確かな輪郭を持つ以前の自分が何を考えていて、どうやっていろんな辛いことや嫌なことを乗り越えてきたのか、全く思い出せない。多分大人になっても、跡部くんも頑張っているんだからと思いながら、自分を鼓舞している気がする。けれど、この花を受け取るのなら、彼への想いはもう、仕舞っておかなければ。彼が珍しく眉間に皺を寄せ、どこか迷うように言葉を口にした。

「……お前、まだ」
「うん?」
「まだ俺のことがすきなのか?」
「……ううん!もうちゃんと諦めたよ!」

ちゃんと諦めたのだろうな、と釘を刺された。きっと、彼なりに気を遣ってくれたのだ。ちゃんと諦めていない女の子に花を贈ったりなんてしたら、いつまでもしつこく彼を好きでいてしまうだろうから。だから、この想いは仕舞っておかなければ。薔薇の花をしっかりと胸に抱き締めて、明るく笑って首を横に振る。大丈夫、ちゃんと諦めた。それを彼にわかってもらうために。

だから、あれから三年が経った今、また彼に告白するなんて有り得ない。有り得ないのだ、本当は。三年前にちゃんと諦めたと宣言したというのに、高等部三年になった今でもやっぱり諦め切れませんでした、なんて。胸の奥深くに仕舞った恋心は時間の経過と共に忘れていけるはずだと、軽く考えた過去の自分を呪いたい。時間の経過と共に正比例で大きく育っていった恋心は、もう胸の奥深くに仕舞うには大きくなりすぎて持て余す。ただの片想いだと言うのに、このままではきっと、大人になっても彼のことを忘れられない。諦めるにはもう、彼にきちんとフラれるしかないだろう。
それ以外の解決策が見当たらなくて、また何でもないような日に彼の帰りを待つことにした。既に部活は引退して、彼はテニスコートにはいない。今日は生徒会長としての業務が長引いているらしい。他のメンバーは仕事を終わらせたら早く帰らせて、自分は会長としての仕事を完璧にこなす。そのための努力を惜しまない。テニスも、他の事も、全て。完璧な彼を形作る、そんな影の努力を、彼は決してひけらかさない。そんなところが、やっぱりどうしようもないくらい、すきだった。

「跡部くん」
?お前またこんな遅くまで……」

生徒会室からようやく出てきた彼は、こちらに気付いて少し驚いたように目を見開いた。そりゃそうだ。誰もいないはずの廊下に人が立っていたら、誰でも驚く。彼が驚いている隙に、決心が鈍らないうちに。この想いを吐き出してしまわなければ。

「私、跡部くんがすき」

彼は再び目を丸くした。諦めたと言っていたはずだろう、と顔に書いてある気がする。諦めの悪い女だと、呆れているのかもしれない。

「そうか。諦めたんじゃなかったのか?」
「うん……でも諦め切れなかったみたい。できたらフッてくれると嬉しいかな」
「何故だ」
「えっ、と、諦めをつけたいから?」
「諦めんのか」

彼の言葉に戸惑う。諦めるのか、なんて。諦めるしかないから、そのためにこうして勇気を振り絞っているというのに。それに彼にとっても、それが最善のはずだ。

「諦められんのか?」
「今は諦められる気はしないけど、でも、いつかは思い出にしないといけないでしょう?」
「何故だ」
「だって、このままじゃ一生ずっと、跡部くんを想って死んでしまう」

フッと、彼が唇の端を吊り上げた。

「お前みたいなやつは多勢いる。好きだと告白してくるくせ、最初から諦めた目をした奴。俺が想う相手は別にいるんだと決めつけた目だ。他の奴に関しては正解だからな、別にそれをどうこう言うつもりはねぇが」

そうだ。元より想いが通じることはないと諦めている。想い合うことはないと諦めても、想い続けてしまうことはある。諦め切れないのは、彼を好きだという、その恋心だけ。彼を好きになる女の子なんて掃いて捨てるほどいるけれど、彼が好きになる女の子はたった一人。そう考えれば、彼に想いを寄せる女の子はほとんど皆諦める。そのたった一人に、自分なんかが選ばれるわけがない。それなのに、彼があまりにも真剣な眼差しをこちらへ向ける。アイスブルーの瞳に捉えられて、動けなくなる。

「流石に想う相手から二度もそんな告白されたら腹が立つぜ」
「それ……」
「一生ずっと、俺を想って死んでもらおうじゃねぇか」

まさか、そんなはずはない。何度頭で否定しても、彼の言葉は自分に都合のいいようにしか聞こえない。

「代わりと言っちゃあなんだが、お前を想って死んでやる」

胸の中に隠しておいた、叶うはずのなかった想いが新たな輪郭を持つ。恋のカタチをしたナイフが、あっという間に心臓を刺し貫いた。





(2018/10/4)