祈りと呪いは紙一重




立海大附属中等部の裏門から出て、少し歩いたところに小さな公園がある。ブランコ、滑り台、鉄棒がぽつんぽつんと置いてあるだけの、小さな公園だ。隅っこの方にベンチが二つほど並んでいて、そのベンチの後ろには淡いピンクの花を咲かせる木があった。夏に花を咲かせるその木のことを、柳は数年前、中等部三年生の頃まで知らなかった。元々草花には幸村ほど詳しくはない。花、というにはそれは柳の知る花の形とは大きく違っていた。けれど、一度見れば否応なく心惹かれるほど、その木は美しかった。ねむの木というのだと、教えてくれた声が蘇る。それと同時に、ある小説の一節がいつも頭を掠めるのだ。

ここへ来る汽車の窓に、曼珠沙華が一ぱい咲いていたわ。
あら曼珠沙華をごぞんじないの?
あすこのあの花よ。
葉が枯れてから、花茎が生えるのよ。
別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。

川端康成の掌編小説の一節。この話を読んだそのときにはさして何も思わなかったが、今こうして自身がその立場に置かれてみると、柳はこれを呪いだと思わずにはいられなかった。毎年咲くその花を見るたび、彼女のことを思い出す。そういえば、その掌編小説自体も、彼女から借りたものだった。
彼女、は中等部三年生の頃のクラスメイトだった。大人しそうな女子生徒で、いつも自分の席で本を読んでいた。彼女の読む本は、柳の趣味とも近いものだった。おすすめを教え合うようになって、共に図書室に通うことが増えて、そうして親密なるまでにさして時間はかからなかった。あの頃抱いていた感情は、恋情、とはまた違うものだったような気がする。かと言って友情かと言えば、それもまた違う。友達以上恋人未満、なんて都合よく使い古された言い回しが、何故かぴたりと当てはまる。高鳴る鼓動を感じることも、期待や喜びに胸を踊らせることもあまりなく、共に過ごした時間の多くは落ち着いたものだった。部活が珍しくオフの放課後、近所の図書館に行こうと二人で連れ立って歩いているとき、この公園を通りかかった。

「綺麗」
「ああ、あの木か」

彼女の言葉に柳も頷く。確かに美しい木だった。

「ねむの木ね」
「ねむ?」
「合い歓ぶと書いて、ねむ。柳くん、花はあんまり詳しくないんだっけ?」
「ああ。うちの部長の幸村の方は詳しいが」
「幸村くん、確かに詳しそう」

彼女は口元に手を当てて、静かに笑う。そして、笑みを形取ったまま、真っ直ぐに柳を見据えた。その目はどこかいつもと違った真剣さを宿していた。

「ねむの木の花言葉は、叶わぬ恋なの」

なんとなく、続く言葉が理解できた。

「私にぴったりだと思わない?」
「何故だ」
「叶わぬ恋をしてるから」

ああ、こういう告白の仕方もあるのか、と思った。最初から諦めたような言葉と声音。単純に想いを伝える二文字を、彼女は決して口にしないだろう。

「その恋は、叶わないと?」
「うん。だって柳くんは、私と同じ気持ちじゃないでしょう?」

叶わないと、わかっているから。この胸にある想いは友情だけではない。が、しかし、恋情なのかと問われれば首を傾げてしまう。だから彼女は、決して言わない。けれど、単純な言葉以上に、柳の心の中に小さなささくれを残すような告白だった。彼女は微笑んだまま、一度も表情を崩さなかった。なのに声だけが泣いているように聞こえた。

「だからもう、二人で会うのはこれっきりにする。私ばかり気持ちが大きくなってしまうから」


呼んだ名前に、彼女は答えず踵を返す。反射で伸ばしたものの、何も掴めなかった手が眼前で所在なく揺れる。指を広げて、握る。彼女の小さくなる後ろ姿は、手の中に収まることなく、曲がり角へと消えて行った。一度も振り向かなかった。大人しいけれど、芯の強い彼女らしい。仕方なく図書館には、柳一人で向かった。そこで、彼女が以前に貸してくれた川端康成の掌編小説のことを思い出した。確か、別れる男に花の名前を教えるような、そんな話があった。他に利用者のいない棚の前で佇んで、小説を開く。そしてそれを読みながら、彼女の言葉を何度も反芻していた。
それから高校に入ってクラスが離れて、学校で彼女を見かけることが少なくなっても、ねむの木を見かけるたび彼女を思い出し続けた。それは、正しく呪いであったと思う。それと同時に彼女の願いであったと、公園のベンチに座る彼女の隣に腰を下ろしながら、柳は今更ながら考える。どうか、忘れないで。そんな願いと呪いをかけた彼女は少しだけ驚いたように目を丸くした。

「綺麗だな」
「柳くん」
「ずっと考えていた。合い歓ぶと書いてねむなら、あの花言葉はおかしいんじゃないかとな」
「ふふっ、らしくない。調べたら一瞬でわかることを、随分長く考えていたのね」

本当に、らしくない。あれからねむの木の花言葉を調べるまで、柳は一年ほどを要した。翌年のねむの花を見て、ふと花言葉を調べると彼女の教えた花言葉は全くの嘘だった。歓喜、夢想、安らぎなど、ねむの木の花言葉はその名と見た目から予測できる範囲のものが並んでいた。だからあんな調べたらすぐに分かるような嘘を、あのタイミングで教えてきた彼女の想いに、心の中に残ったままのささくれがまた少しだけチクリと疼いた。

「そう教えたお前の気持ちと……俺自身の気持ちも含めて、いろいろとな」
「それで?答えは出た?」

頷く。あのときの彼女と同じように真っ直ぐに視線を合わせて、柳は口を開いた。

「俺はこの気持ちを、俺なりの恋だと思うことにした」

本当の花言葉を知った翌年、ねむの花を見ながら、柳は自分の胸の中にある彼女の存在が大きくなっていることに気が付いた。あの頃抱いていた感情は、確かに友情とも恋情とも言い難いものだったけれど、数年のうちに大きくなったこの想いは、恋と呼んでもいいのではないか。

「まだ間に合うか?」
「……うん」

小さく聞こえた声に、ほっと胸を撫で下ろして初めて、柳は自分が緊張していたことを知った。ベンチに置かれた彼女の手に自分の手を重ねる。あの日、何も掴めなかった手のひらには、彼女の手が収まっている。鼓動が耳の奥で大きく聴こえる。胸を突き上げる感情のまま、柳は笑みを浮かべた。

「ねむの木の花言葉は、今の俺にぴったりだな」
「どうして?」

あのときの彼女の言葉を使う。きょとんとした顔に、柳は笑みを深めた。

「……秘密だ」

いつか二人でねむの木を見たときに教えようか。高鳴る鼓動を感じても、期待や喜びに胸を踊らせても、彼女と共に過ごす時間が一番安らぐのだと。

ささくれの存在はもう感じなかった。





(2018/7/4)