泣き顔のジョーカー




気付いてしまったら、おしまいだと思った。報われない想いなど、抱く方が馬鹿なのだ。彼は私を好きにはならない。わかりきってる。少なくとも、幼い頃から一緒にいる私には、わかる。彼は、絶対に私なんかを好きになっては、くれない。だから、私も彼を好きになってはいけない。辛いだけの恋なんか、しない。そう決めて、彼への想いを自覚しそうになった瞬間、彼を避けた。家は隣同士なのに、部活も一緒なのに、もう何年も、まともに会話なんかしていない。恐らく、私と仁王雅治が幼馴染だと知っている人なんか、立海にはいないだろう。それほどまでに彼を避けたのに、どうしてか私の想いは募る一方だった。本当に、救いようがない。だけれど、彼の生活には私がいようといまいと全く変化はなくて、緩やかに流れる河のようで、私はますます彼に近寄れなくなった。彼に、私という存在は、必要ない。

「どうしてそう思うの?」

幸村くんはマフラーを少し下げて溜めていた息を吐き出すと、そう疑問を口にした。週末の練習試合のセッティングの関係で、部長とマネージャーだけが残っていて、自然と幸村くんは私を送る形になっていた。中学の頃から変わらない、彼は優しくて、そうして優しい顔で、私の核心を突く。

「少なくとも、俺は仁王に変化がないとは思えないけどなぁ」
「そうかな。少なくとも、私が見てる仁王くんは変わらないよ」
「そう?」
「うん」

幸村くんはまたマフラーを口の上まで持ち上げた。私も、マフラーに口元を埋める。変わったのは、きっとお互いの呼び方くらいだ。同じ頃に、私は彼を『仁王くん』と呼ぶようになり、彼も『』と呼ぶようになった。私には、それも意味のある行為だったのだが、彼にとっては、きっと瑣末なこと。だって、私が初めて『仁王くん』と呼んだときに、彼はためらいも驚きもなく『』と返してきたのだ。彼にとって、お互いの呼び名なんてどうでもいいことで、むしろ、その方がいろいろ詮索されることもなくて都合がいいと考えたのかもしれない。中学に入って彼の周りには女の子が増えて、いつしか彼の隣には、いつも綺麗な女の子がいるようになった。名前で呼び合うべきは彼女たちであって、私じゃない。

「まあいいけどさ。仁王に好かれるために、努力したりしてる子の方が君より仁王にふさわしいのは当然じゃないかな」
「……幸村くんの正論って心に刺さるっていうか、刺し殺してくるよね」
「別に俺はに好かれたいわけじゃないから、親身にアドバイスしてあげてるんじゃないか」
「日本語おかしいよ」
「仁王に好かれるためのアドバイスなんか、のこと好きだったらしないだろ?」
「ああ。なるほど……でも、仁王くんが私のこと好きになるなんて、ありえないよ」

私が笑うと、幸村くんは不思議そうな顔をした。そう、彼が私を好きになることなんかありえない。だって私は、知っている。

「仁王くんは、私なんかどうでもいいんだよ」
「どうして?」
「……聞いたことが、あるの」

彼は私が聞いていたことを知らない。だからこそ、本音だったと、思う。今でも鮮明に思い出せる。彼と、彼の姉との会話。中学に上がったばかりの頃、休日に、コンビニで彼らを見つけた。一つ棚を挟んでいたので、彼らは気付かなかったが、私はすぐにわかった。そして彼らは私の話をしていた。

『雅治、ちゃん最近遊びに来ないわね』
『は?そうかのう……』
『そうよ。小学生の頃は二日に一回は来てたじゃない』
『まあ中学になって忙しいしの。部活もあるし』
『ああ、部活も一緒なのよね』
『まあの。のことより、早く選んでくれんか、それ』
のことよりって、あんたちゃんのことどう思ってるのよ』
『またか?……しいて言えば空気かの』
『なにそれひどい!』

それ以上は聞いていられなくて、私はコンビニを飛び出した。私は彼にとって、そこまでどうでもいい存在だったとは、思いもしなかった。もともと、彼の好みの顔や体型ではないと、自覚はしていた。だからこそ、幼馴染という関係に、少しだけでも彼との親密さを見いだしていたのに、それは私だけだったのだ。それから私は一気に彼と話が出来なくなった。『雅治』と気安く呼ぶことさえできなかった。空気、と彼がいった言葉にたがわず、彼の生活から私が消えても、彼にはなんの影響もなかった。

「うーん、なるほど」
「幸村くん、笑ってますが」
「他人の不幸は蜜の味だから」
「幸村くんがそんな人だとは知らなかったです、さようなら」
「冗談だよ。でもやっぱり、仁王が変わらなかったとは思えないなぁ」
「だから言ってるじゃない。私から見たら」
「だって、仁王のこと見てないだろ?」

その言葉に、その場から動けなくなった。

?」

見てない。できるだけ視界に入れないように、できるだけ接触しなくてすむように、必死だった。見なかった。それでも、遠目で視界に入る彼は、たまに業務連絡を伝えるときに話す彼は、変わらなかったから。自分がそれ以上どうでもいい存在だと、思い知りたくなかった。見たくなかった。

、ごめん、言い過ぎた?」

幸村くんがうつむいた私を覗きこんでくる。

「なにしちょる」

切羽詰まったような声が聞こえたのは、そのときだった。バッと顔を上げると、何年かぶりにまともに目が合った。銀髪の隙間から覗く瞳は、どこか焦っているようにすら見えた。

「なにしちょる、幸村」
「え、ちょ、何して」

突然の彼の登場に金縛りにあったように動けないでいる私を置いて、彼は幸村くんの胸倉を掴んだ。幸村くんは呆れたように溜息を吐いて、彼の為すがままになっている。慌てて、彼の暴挙を止めなければ、と二人の間に割って入った。

「何してるの仁王くん!」
「仁王。と俺が何してようがお前に関係ないだろう?」
「お前も……」

幸村くんを刺すように睨んでいた彼が、いきなりこちらを向いた。体が強張る。こんなふうに、感情をあらわにした彼を見るのは久しぶりで、どう対応していいのか、わからない。

「お前も、そう思っちょるんか。俺には、関係ないって」
「え……?」
「お前のことは、俺には関係ないんか?」

彼があまりに真剣な顔で言うものだから、言葉に詰まった。関係ない、だろう。ただの、幼馴染。いや、幼馴染とすら言えない関係だ、私たちは。でも、言えなかった。幸村くんが再び溜息をついて、彼の腕を掴み上げる。

「仁王、俺とはただの友達だ。そう言えばわかるかい?」
「幸村……」
「俺は先に帰るよ。二人で腹割って話し合ってみたら?」
「ちょ、ちょっと幸村くん!」

幸村くんはひらひらと手を振って帰っていく。

「と、とりあえず、帰る?」
「いや、帰る前に話したいことがある。あっちに広場があったじゃろ。そこへ行こう」
「え、でも」
「帰さん」

ぎゅ、と彼の手が私の腕を掴む。驚いて見上げると、また目が合ってしまい、思わず目を逸らす。もう逸らすのが癖になってしまっていた。

「……それじゃ」
「な、何?」
「お前、いつから俺の目を見んようになった」
「いつからって……」
「まあ、よか。広場についてから話すとしよう」

そのまま、彼は私を広場まで半ば引きずるように連れていった。そして、ベンチに腰を下ろす。私も、少し離れた場所に腰を下ろした。

「……ずっと、なんでなんかと考えとった」
「え?」
「最初は、ちょっとした違和感じゃった」

目が合わない。合ったと思うと、露骨に逸らされることが増えた。登校時間は同じはずなのに、朝、出会わなくなった。聞けば一本早い電車で登校していると知らされた。気付けばどんどん話すことがなくなって、どんどん二人の距離は離れていった。はっきりと意図的に距離を置かれていると感じたのは自分でも遅いとは思うが、『仁王くん』と呼ばれてから、だった。それでも、中学に上がって、女子の注目も一段と多くなったので、他の女子からのやっかみを避けるための行為だと、信じていた。けれど、遊びに来ることもない、業務連絡でしか話しかけてこない、そして目を見ない。距離は開いていくばかり。何故なんだと、ずっと考えていた。そう、彼は言葉を繋いだ。

「……
「!」

何年振りかに呼ばれる名前に、肩が揺れた。動揺が、身体を走る。

「昔からわかりやすくて、俺はお前のことなら言われんでもわかった。じゃが、今は……お前がわからん。言わんとわからんのじゃ。なんで俺を避ける」
「そ、れは……」

言えるわけがない。それは、告白のようなものだ。好きだと、彼が好きだと告げるようなもの。

「お前に避けられてからずっと……俺は息苦しゅうてならんかった」
「え……」
は、俺にとって空気みたいに、隣におって当然の存在じゃった」
「そ、れ」
「好いとう」

何を言われたのかわからなくて弾かれるように横を向くと、彼はうつむいた顔を手で覆っていた。耳が真っ赤だ。

「嘘じゃなか。幸村に取られとうない。俺のじゃ。幸村だけじゃなか。ブンちゃんも、柳生も、柳も真田も赤也もジャッカルも、お前が俺より親しげに話すたびに、怖かった。がどっかに行ってしまうのが、怖かった。苦しゅうてたまらんかった」
「に、仁王くん!」
「『雅治』。なんで呼んでくれんのじゃ」

呼べなかった。私にとってその名前は、『とくべつなもの』だったから。ずっと、彼のとくべつしか呼べない名前だと、自分に言い聞かせてきたのだ。呼んでもいいのだろうか。胸の奥深くに大事に抱えて、思い出しては苦しくなった。その名前。

「私にとって、仁王くんの名前はとくべつなの」
「……うん」
「呼んでもいいの?」
「お前以外に呼ばれとうない」
「……お姉さんとかおばさんには呼ばれてるけど」
「……それは別じゃろ」

ふ、と空気が緩んだ。懐かしい。昔の、近かった頃の、空気だ。

「まさはる」

久しぶりに口にしたその名前の響きに、声が震えそうになった。ああ、やっぱり、これは私にとってとくべつな名前だ。あっという間に彼への想いが胸に溢れて止まらなくなってしまう。彼は俯いていた顔を上げて、ゆっくりと微笑んだ。

「やっとゆっくり、息ができそうじゃ」

眉の下がった泣きそうな笑顔に、心臓が掴まれる。心の防衛線を保っていた切り札はもう、何も残されていない。





(2015/5/24)