溺れた金魚はもとから赤い




幼馴染という関係は近すぎるが故に、私と彼を遠くする。

「せーちゃん、おはよう」
「おはよう、。寝ぐせ立ってるよ?」
「え、うそ!どこ!?」
「ここ。……ちょっと待って」

彼は鞄からハンカチとペットボトルに入った水を取り出すとためらいもなくハンカチを水で濡らし、私の髪に当てる。しばらく撫でるようにハンカチを動かして、そして花が綻ぶように笑う。彼のその笑みに触れるたび、私の胸は切なく甘い鼓動を刻む。

「きれいになった」
「あ、ありがと……」

空がまだ白んだばかりの人の少ない道を、二人で並んで歩いて行く。たまにぽつりぽつりと喋りながら、学校までの見慣れた道のりを進む。ときに沈黙が訪れても気にならないのは、一日違いで生まれて、お隣同士の家で兄弟のように育った、家族に近い気安さがあるからだろう。幼馴染。誰よりも傍にいて、誰よりも、おそらく両親よりも、互いのことをわかっている。二人でやった悪戯も、二人だけの秘密も、数え上げればきりがないくらい、ある。そのひとつひとつの思い出は全て私の胸に大切にしまってあるのだ。彼の半歩ほど後ろを歩きながら、ずっと一緒にいても見飽きることのない横顔をそっと眺める。秋の匂いのする風に、少しだけ目を細めていた。(……あ、微笑った)

「もうすぐ秋だね」
「うん。俺も今そう思ってた」
「秋の匂いがした。せーちゃんが教えてくれたんだっけ」
「よく覚えてるね。えらいえらい」
「ちょっとー、一日生まれたのが遅いからって子供扱いしないで」

テニスをやっているとは思えない綺麗な手が私の頭を撫でる。それだけで私の小さな心臓は破裂してしまいそうだ。誤魔化してむくれて見せると、彼は軽く謝りながら手を引いた。彼の考えてることはほんの些細な表情の変化からだってわかる。それが私のささやかな自慢であり、同時にそのことを思うと切なくなるのだ。だって、彼は知らない。気付かない。私が物心がつく前からずっと彼だけを見つめていることを。

穏やかで優しくて、大好きなテニスのことになると他人にも、でも誰より自分に厳しいひと。

彼が倒れたあの日は、私も目の前が真っ白になって倒れてしまうかと思った。テニスができないかもしれない。テニスを心から愛してる彼からテニスを奪うなんて、神様はなんて残酷なんだろう。病室に見舞いに来た仲間たちに対して、コート以外の場所で声を荒げるなんてこと、彼はそれまで絶対しなかった。そうしてしまった、そうせざるを得なかった彼の気持ちが痛いほど伝わってきて、誰もいなくなった二人だけの病室で、出ていけなかった私は一人で泣いた。悲痛な叫びを上げる彼の隣で、声を上げて幼子みたいに泣いてしまった。

『どうして、どうして俺なんだ。なんでテニスができない……!』
『せーちゃ……』
『なんでなんだよ、!俺はどうしたらいい……!』

きっと後にも先にも、彼があれほど取り乱したことはないだろう。外は暗く、空には星ひとつ見えない。病室の電気は切ったまま。そんな暗がりの中でも、不安に押し潰されそうな彼の表情も、零れた涙も、見える気がした。一生懸命抱きしめた彼の頭を肩に押し当てる。何も言えない。何を言っても彼の慰めにはならない。私には、そうすることしかできなかった。

きっと貴方は知らないのだろう。貴方の苦しみを感じて泣きじゃくりながら、でも心の奥底で私にだけ弱音を見せてくれたことを嬉しく思う、この濁った感情も。

あれから春が来て、夏が来て、そしてもうすぐ秋が来る。初めて一人で通った桜の道は寂しすぎて、そこにいるはずの彼の姿を想って、ひそかに涙ぐんだ。夏の部活帰りに二人でよく通ったアイスクリーム屋さんの前で足を止めなくなった。でも新商品のちらしは取っておいて、彼が戻ってきたら一緒に食べようと計画しながらマネージャーの仕事を頑張った。彼がコートに帰ってきたときには、ちゃんと笑顔で迎えることができた。でも帰り道でちょっとだけ泣いた。そんな私に、彼はほんとは快気祝いで私が奢るはずだった新商品のアイスを買ってくれた。困ったように、でも嬉しそうに笑う彼の顔をしっかりと脳内アルバムに焼き付けた。今、穏やかな彼がここにいる。

「でもはほんとちっちゃくなったよね」
「そんなわけないでしょ!これでも3センチ伸びてるんだから!せーちゃんが伸びすぎなの!」
「入学したばっかの頃は同じぐらいだったのになぁ。もう三年か……」
「ほんとだね」
「でもたった五分の一だ」
「え?」
「濃い三年間だったけど、それでもと一緒にいた時間の五分の一しかないんだなぁと思って」

そうやって穏やかに微笑む、たったそれだけのことで、私の心がどんなに乱されているか、きっと彼が知ることはない。何気なく私に触れる手も、惜しみなく与えられる優しさも、全て特別な感情など籠っていないことを、私はずっと知っていた。

「あ……」

正門付近、朝練に参加するためにやってきて、欠伸を噛み殺す見慣れた面子。ちらほらと散らばるその中に、一人の女の子。中学に入学してから、彼が一途に想っているひと。彼女を見つめるその視線に、私が彼に向ける視線と同じ熱が宿っていることを、私はずっと知っているのだ。

それでも、その綺麗な横顔を私は見つめ続ける。彼が私の視線に気づくことはないと知りながら。

想いが届かなくても、いい。私の思い出にはいつでも彼が居る。眩しいほどに綺麗な思い出たち。これからもきっと増え続けていくだろう。きっと、ずっと。だから私はいつも、ここで。彼の半歩後ろで。




(2015/5/24)