情熱的ラブレター




マンモス校でも、縁があれば中学高校の六年間で、何度か同じクラスになる生徒はいる。仲の良い友人であればいいが、そうでないことも多々あるものだ。そして、それだけ生徒がいれば六年続けて同じクラスになるなんてことは奇跡だと言っていい。逆はよくある。これだけの人数をバラバラに配置するのだから、六年間、一度も同じクラスになれないことなんて、よくある。ありふれている。そして、奇跡が自分の上を通り過ぎていくのを、ただ眺めるのだ。生徒会の業務の一環として、机の上の紙を纏めてホッチキスで留めながら、とりとめのないことを考える。もしもこの身に奇跡が起こってくれるのなら。

「何をしている、
「あ、柳」

急に暗くなった手元に視線を上げると、同じ生徒会の一員である背の高い男が、蛍光灯の光を遮っていた。この六年間、一度も同じクラスになったことのない男。柳蓮二は伏せられた睫毛を少しだけ持ち上げた。その細められた双眸の鋭い光に見据えられると、身体の芯をぴり、と電流が走る。柳はうつくしい。艶やかな髪の毛、まあるい頭の形、襟足が少しだけかかる白い首筋、なだらかな肩のライン、細く伸びた手足、綺麗な爪の乗ったしなやかな指。構成するひとつひとつの要素まで、彼は全て整えられている。見惚れるとはこういうことを言うのだろう、といつも思う。太い血管の浮いた手が、纏めた書類のひとつを掬う。こんなに綺麗なのに、ちゃんと男の手だ。

「ああ、これか。これは明日、全員でやるはずじゃなかったか?」
「うん。でも私推薦決まってて暇だし、別にやっちゃってもいいかな、と思って」
「こんな暗くなるまで一人で、か?」
「え、今何時」
「午後六時五十分。あと十分で、最終下校時刻だ」
「うっそ」

そんなに時間が経っていたとは思わなかった。慌ててホッチキス留めを終え、書類の束を机の上に重ねる。柳も一緒に手伝ってくれた。たったそれだけのことでも、胸が高鳴る。柳蓮二は、初恋なのだ。
中学一年生の頃から強豪テニス部のレギュラーで、背が高くて頭が良くて、涼しげな目元が素敵だと、女子生徒の間では密かに人気だった。同じく一年生レギュラーだった幸村や、飄々とした態度で女子生徒の心を攫っていく仁王ほどではないが、彼を狙っている者は多いだろう。その頃から有名だった柳のことは知っていたが、同じクラスでもない男子生徒に対して、よく知りもしないのに恋に落ちることはなかった。中学三年生のとき、押し付けられてしまった図書委員の中で更に仕事を押し付けられ、面倒臭い蔵書整理を一人でやっていた。国語が苦手で、本なんてほとんど読んだりしないのに、その作業は苦痛でしかなかった。新しいシールを貼って、本を所定の場所に戻して。単純作業でも、蔵書の量が多ければ仕事は膨大だ。文句を腹の中に目一杯抱え込んで、本棚の高い場所に本を戻していると、いつの間にか柳が横に立っていた。

「手伝おう」
「え?あ、ありがとう」

それが多分、初めての会話だった。柳はあまり喋らず、隣で黙々と作業を手伝ってくれた。その横顔を盗み見て、うつくしい人だと思った。こんなに整っている男の子を、他に知らない。じっと見惚れていると、不意に視線を上げた柳と、目が合って。薄い唇が、ゆるりと弧を描いた。その微笑みに、ちっぽけな心臓を撃ち抜かれてしまったのだ。
それからずっと、奇跡を待っている。今日は運がいい。柳とこうして喋ることができるのだから。柳は最後の書類の束を重ねると、あのときのように微笑んだ。

「相変わらず人がいいな」

たったそれだけで、こんなにも心臓が煩い。

「そ、そうかな。要領が悪いだけな気もするけど」
「そうとも言える。途中まで送ろう」
「え?」

彼が紡いだ言葉の甘い響きに、思わず目を見開いてしまう。すると柳は、なんでもないような顔で首を傾げた。

「こんなに暗い中、一人で帰りたいのか?」
「ううん!ぜひお願いします!」
「変なやつだな」

今日は、運がいい。頭の中で繰り返す。柳と並んで帰ることができるなんて、そんなこと同じクラスになってもできなかったかもしれない。たとえ、たまたま知り合いの女子生徒が遅くまで居残っていたから、彼が正義感から一緒に帰ることを申し出てくれたのだとしても。偶然、彼がこんな時間まで居残っていたくれたことに感謝しなければならないだろう。そういえば、彼は何故こんな時間まで学校にいたのか。テニス部の練習はとっくに終わっているはずだ。いや、そもそももう引退したのではなかったか。

「柳はなんでこんな時間まで学校いたの?」
「データ整理をやっていた」

間髪入れることなく返された答えに納得する。彼はデータテニスを得意としている。敵のデータも味方のデータも分析して、チームを勝利へと導く。きっと後輩たちのために、今度の練習試合用のデータを集めていたのだろう。柳は大学でもテニスを続けるのだろうか。続けたとしても、今までのように気軽にはその姿を見ることはできないだろう。この恋が続けられるのも、あと何ヶ月か。それを考えて、僅かに胸が痛んだ。進む大学はもう決まっている。噂で知った柳の志望校とは、全然違うところだ。

の志望大学は理系だったか?」
「うん。柳と違って文系得意じゃないから」
「そういえば理系クラスだったな」
「うん。柳は文系クラスだもんね」

高校になったら、志望する学部に合わせてクラス分けがある。文系の柳とは、同じクラスになるはずもなかった。それでも毎回、クラス分けのたび、ほんの少し胸を弾ませた。もしかしたら。もしかしたら、奇跡が起こるかもしれない。そんなこと、ある訳がないのに。

「教科書は全員一緒なのに、文系と理系分ける意味あったのかな」

理解しているのに漏れてしまった恨み言に、柳がこちらを振り向く。

「進度や方針が違うんじゃないか。現代文はどこまで進んだ?」
「え?どこまでだっけ。確か……この辺」

普段ならロッカーに置きっぱなしだが、たまたま持ち歩いていた教科書を開いて見せた。街灯の下、それを覗き込むようにして、柳の顔が近くなる。伏せられた長い睫毛の一本一本まで見えるほど近くなった距離に、顔が熱くなるのがわかる。鼓動も、耳の奥で煩いくらい鳴り響いている。こんなに近いと、聴こえたりしないだろうか。顔が赤いのがバレてしまわないだろうか。柳のうつくしい指が、教科書のページを辿る。彼に触れてもらえる教科書が羨ましい、なんて思っていることが、柳に伝わりませんように。そんな馬鹿みたいなことを思った。

「ああ、やはりな。俺たちはもうここは終わってる。随分綺麗な教科書だな?」
「あはは、まあ、ちょっと国語は苦手で……」
「そうか」

なんとか、普段通りの声が出せたことに安心する。きっと顔も、平常心を装えているだろう。教科書をしまって、何か話さなければと話題を探す。

「柳は、本が好きだよね。何が好きなの?」
「何でも読むが、純文学が多い。夏目漱石とかな」
「夏目漱石!私多分苦手だ……明日から現代文でやるんだよね」
「読んでいけば、奥深いものだぞ。言葉の選び方なんかは、特に」

言葉の選び方。確かに、柳の紡ぐ言葉は綺麗だった。それは贔屓目が多分に入っているのかもしれないけれど。柳の唇から零れた言葉は、どれも耳にすんなりと馴染む。柳は急に立ち止まると、空を見上げた。つられて、視線を上に向ける。

「月が綺麗だな」
「え?」

その言葉はうつくしい響きで、思わず頷きそうになってしまった。見上げた空には、星のひとつも見えない。今日は朝から厚い雲が空を覆っていた。柳の方に顔を向けると、彼もこちらを見つめている。予想外に目が合ったのが気恥ずかしくて、慌てて視線を地面に落とす。

「今日、曇りだよ?月、見えなくない?」
「そうだな」
「柳って、たまに変なこと言うよね」
「そうかもしれないな」

そのとき柳がどんな顔をしていたのかは、わからない。少し残念そうでいて、少し面白そうにしている声だった。大通りで柳と別れて、彼の後ろ姿に、また明日、と声をかける。そうして帰路につきながら、ありもしない奇跡のことを考える。もしも彼が、同じ想いを抱いてくれていたら。彼のうつくしい指先が、この平凡な指に触れてくれることがあったとしたら。あのさらさらと流れる綺麗な髪に、この手で触れることができたら。たまに開く鋭い双眸が、自分だけのものになったなら。ありえない、奇跡の話。
家に帰って、教科書を開く。明日の現代文の授業でやる夏目漱石の話を読んでみようと思ったのだ。そうして教科書を開いて、柳の指が辿った、こころの文字を撫でる。結局肝心の本文は、開始数ページで挫折してしまった。

「じゃあ始めるぞ。今日から夏目漱石の『こころ』だ。有名な小説だから読んだことがある者もいるかもしれないが」

現代文の教師の声が朗々と響く。昼休み前の時間帯、意識はとっくに昼食へと向いている。今日の学食の日替わりメニュー、何だっけ。そんなあさっての方向に思考を飛ばしていると。

「夏目漱石がアイラブユーを『月が綺麗ですね』と訳したのは有名な話だが……」
「え?」
「ん?どうした
「あ、いえ、なんでもありません」

思わず声が出てしまった。頭を下げると、教師は不審がりながらも話を続ける。黒板には、アイラブユー=月が綺麗ですね、の白い文字が浮かんでいた。愛してると、ただ単純に訳すのでは日本人らしくない、日本人ならこれくらい奥ゆかしくてちょうどいい。夏目漱石はそう思ったらしい。言葉の選び方。柳との、昨日の会話が蘇る。彼は、もうこの小説は習い終わったと言っていた。もしかしたら、今日この話を聞くことを、彼は予想していたのかもしれない。だとしたら。昨日のあの言葉の意味を、期待した通りにとってしまっても、いいのだろうか。早鐘を打つ心臓をシャツの上から押さえながら、チャイムが鳴るのを待った。こんなに時間が経つのを遅く感じたのは初めてだ。チャイムが鳴り終わった瞬間、席を立つ。昼休み、学食や購買に行くため廊下に溢れる生徒たちをかき分けて、目的の背中を見つけた。その隣には、彼と仲の良い幸村が並んでいる。流石に二人が話しているところには声をかけられなくて、数歩後ろから彼らの様子を伺った。

「何やってんの蓮二。それ、この前のデータ?」
「ああ」
「昨日整理するって言ってなかった?」
「いろいろとあってな。途中で切り上げてしまった」

どくん。盗み聞きするつもりはなかったけれど、聞こえてきた言葉に心臓がまたひとつ、大きく鳴った。部室棟から生徒会室は見えるが、かなりの距離がある。もしかしたら、部室から生徒会室の電気がついていることに気付いた柳はデータ整理を中断して、あそこまで来てくれたのかもしれない。まさか、でも、だけど。期待と不安が混ざり合って、頭の中がごちゃごちゃだ。ありもしないと思っていた奇跡を胸に抱えて、彼の背を追った。幸村と別れて、職員室へ向かう人通りの少ない階段を下っていく。

「柳」

声が上擦った。顔も赤いだろう。もうきっと、想いも何も隠せていない。それでも。数段下の踊り場で、柳が振り向いた。あの、鋭い光を宿した双眸が、こちらを射抜く。アイラブユーを、夏目漱石は月が綺麗ですねと訳した。それと同じように、二葉亭四迷という人は別の訳し方をしたのだと、先程の授業で教師が言っていた。

「私、死んでもいい」
「ふっ」

柳が笑う。薄い唇が、柔らかく、あの日と同じような弧を描く。恋に落ちた、あの笑顔だった。ああ、こちらの訳の方が、よくわかる。

「随分と、情熱的な返事だな」

多分、彼のこの笑みが自分だけに向けられるのなら、死んでもいい。





(2017/9/24)