瞼の裏の嘘




朝。まだ早い時間にも関わらず、運動部の声が聞こえる。今まではそこに彼もいたけれど、引退した後はどうしているのだろう。
文武両道を掲げている立海には、いくつもの強豪運動部がある。その中でも、テニス部は中学時代から一際目立っていた。見目の整った部員が多く、またそのほとんどは全国レベルのテニス部でレギュラーの座についている。顔が良くて運動が出来て、校内でも目立った存在である男子生徒の集団ならば、想いを寄せる女の子も少なくはない訳で。それぞれの誕生日やバレンタインなんかは、ちょっとしたお祭りみたいになってしまっていた。クラス分けも悲喜交々の感情が溢れ、同じクラスになったらなったで、今度は席替えでチャンスを狙うことになる。そういった機会を積み重ねながら、なんとか彼らとお近付きになろうと涙ぐましい努力を重ねている女の子の、なんと多いことか。
今日はその、お祭りのようなバレンタインだ。高校最後ということもあって、いつも以上に女の子たちの熱量が高い。朝一番から放課後まで、勇気を出して告白しては散っていく彼女たちを見送りながら、自分はなんて卑怯なのだ、と思わず手の中のチョコレートを握りしめた。一人残った教室の扉が開く。そこにいる人物を目に留めて、ますます胸が痛くなる。

「伝えないのか、仁王に」
「柳くん……」

柳蓮二はこのマンモス校の立海で、唯一六年間同じクラスになった相手だった。それは最早奇跡や運命と呼んでもいいのかもしれない。けれど、そんなこと口に出来るはずもなかった。初めて言葉を交わしたときからずっと、彼には自分の気持ちを偽っているのだから。
彼と初めて同じクラスになって、半年が経つ頃にはもうの心は彼に奪われていた。中学一年生とは思えない落ち着いた所作や仕草、言葉遣い、声のトーンや話し方。大きく感情を揺らさない、穏やかな表情。真っ直ぐで綺麗な黒髪。一見女の子にも思えるような綺麗な顔立ちなのに、少しだけ骨張った手や半袖の下から覗く筋肉質な腕がアンバランスで。そのギャップが一層、彼に惹かれる要因になったのかもしれなかった。
同じクラスになったとは言え、ほとんど話す機会などない上に、意識するとどうしても上手く話すことが出来なかった。彼を見つめていることを知られたくなくて、目が合いそうになったら慌てて目を逸らす。逸らした先には、目立つ髪色をしている仁王がいることが多かった。彼の銀髪は、目を引く。だからだろうか。初めて勇気を出して彼に告白しようと決めたバレンタインの日。彼は、チョコレートを手にしたまま、なかなか告白の言葉を口に出来ないを見て、こう言ったのだ。

「……仁王に渡せばいいのか?」

頭から冷水を浴びたような心地だった。違う、このチョコレートを渡したいのは、好きなのは。言いたいことは何一つ声にならなくて、ギュッとチョコレートを握りしめたまま、目を瞑る。そしてゆっくりと瞼を持ち上げて、は首を縦に振っていた。

「仁王くんには、私からだって、言わないで」
「だが、仁王も誰からのものかわからない贈り物を受け取ったりはしないだろう」
「……そしたら、そのときは、柳くんが貰って。要らなかったら、捨てていいから」

告白しようとしていた相手に、別の人間を想っているのだと勘違いされる確率って、どれくらいなのだろう。ショックではあったけれど、それ以上に告白から逃げた自分の狡さが嫌だった。狡い。けれど、仁王を想っていることにしておけば、きっと今よりは、彼と話すことが出来る。そんなことを瞬時に考えてしまった自分の浅ましさに辟易する。
あのときからずっと、クラスメイトのよしみで彼はの相談に乗ってくれている。時折仁王の情報を教えてくれたり、テニスの応援に行けば仁王を伴って近くに来てくれることがあった。告白しないのか、とは何度も訊かれた。その度、勇気がない、フラれるのが怖いと逃げた。そうして決定的な行動に移すことをしなければ、この、少しだけ近付いた距離を保っていられる。大丈夫、ちゃんと、隠し通せる。クラスが離れればそれで付き合いは疎遠になったのだろうけれど、幸か不幸かクラスは六年間離れることがなかった。高校に入って、またしても同じクラスになったときには、柳も思わず苦笑していた。

「今年も同じクラスか。悪かったな、俺とで」

胸がギュッと締め付けられた。違う、嬉しい、本当は泣き出したいくらい、貴方と同じクラスなのが嬉しいのに。伝えられない言葉を飲み込む。一度瞬きをして、は笑顔を取り繕った。

「嬉しいよ?柳くんは、協力してくれるから」
「そうか」

彼は少しだけ、複雑そうな顔で笑った。中学一年生のあのときから、バレンタインはずっと柳にチョコレートを託していた。誰からのものなのか伝えないで、貰ってもらえなかったら柳が貰って、要らなかったら捨てて。毎年毎年、繰り返す。仁王の手に渡ったのか、柳が貰ってくれたのか、それとも捨てられてしまったのか。それは一度も聞けないままだったし、彼からも教えてはくれなかった。毎年毎年、彼の好みに合うであろうチョコレートを選びながら、気付いてくれないだろうかと淡い期待をかけてみるけれど。気付かれたことは、未だない。
そして、高校三年生、六回目のバレンタイン。今年はちょっとした変化があった。仁王が、義理のチョコレートすら受け取ってくれなくなったというのだ。仁王に想いを寄せていながらも、今まで義理に偽装してチョコレートを渡していた女の子たちは、悉く本命への路線変更を迫られてしまっていた。告白しては散っていく女の子たち。それでも、高校最後のバレンタインだ。勇気を出して告白して、玉砕したとしても悔いはない、と誰かが話しているのを耳にした。確かにそうだ。当たって砕ける相手を本当に想っているのなら、それでもいいに決まっている。でも。

「伝えないのか、仁王に」
「柳くん……」

そう言って見つめてくる彼に、今更どうして言えるだろうか。ずっと仁王への想いを相談していたけれど、本当は貴方が好きなんです、なんて。真剣に相談に乗ってくれていた相手を馬鹿にしていると思われても仕方がない。

「今年は預かっても、仁王に渡すことは出来ないぞ」
「うん、そうだよね。わかってる」
「……それでも、告白しないのか。高校を卒業したら顔を合わせる機会もほとんどなくなる相手だろう。今が良い機会なんじゃないのか」

高校を卒業しても、立海大へ進む生徒がほとんどだ。そんな中では近隣の違う大学に進学することが決まっていた。だから、卒業すれば、仁王とも柳ともそうそう顔を合わせることはなくなる。今が良い機会なのだ。呆れられたとしても、嫌われたとしても。本当のことを告げて、謝らなければ。が覚悟を決めて顔を上げるのと、柳がその言葉を口にしたのはほぼ同時だった。

、お前は本当に仁王が好きなのか?」

ヒュッ、と核心を突かれて息が止まる。黙りこくってしまったよりも、柳自身の方が余程、自分の口から出た言葉に驚いているようだった。慌てたように右手で口を覆い、首を振る。

「すまない、俺が口出しするべきことではなかったな」
「ううん……あ、あの、私の方こそ、柳くんに謝らないといけないことが、あるの」

今度こそ。は決意を固めて、胸元でチョコレートの包装を握り締める。今度こそ、ちゃんと謝ろう。そう決めたのに。

「私、ずっと……」
「いや、。先に俺から謝らせてくれ」

またしても、彼の言葉がの声を遮る。このままだと、決意が鈍ってしまう。としては断頭台に頭を突っ込んだまま、何度もギロチンを落とされかけている気分だった。早くひと思いに楽になりたい。けれど、柳の言葉にひとつの疑問が過る。謝る。謝らなければならないのは、自分の方なのに。柳がに、何を謝らなければならないことがあるのだろう。柳は彼らしくもなく何度か視線を足元へ彷徨わせ、先程のと同じように覚悟を決めたような表情で顔を上げた。

「申し訳ない。お前のチョコレートを、仁王に渡したことは一度もない」
「え、でもそれは、別に貰ってもらえなかったら仕方ないって」

最初から、受け取ってもらえないだろうと思っていた。むしろ、受け取ってもらえるかどうかなんて、さして気にしていなかった。柳が何も言わないから、きっと受け取ってはもらえなかったのだろうと、胸を撫で下ろすばかりで。けれど、柳は首を横に振る。

「違う……そうじゃない。俺は一度も、仁王に"渡さなかった"んだ」

彼の言葉を上手く飲み込むことができなくて、は頭の中で何度もそれを噛み砕く。渡さなかった。渡して受け取ってもらえなかった訳ではなく、取り次いでさえいなかった。一体、どうして。その疑問に行き着いてしまえば、どうしたって、甘い期待がトロリと溶け出して広がっていく。

「お前の相談に乗るフリをして、協力するつもりは少しもなかった。今日もずっと、早く玉砕して諦めてしまえばいいと……そんなことを考えるような、狡い人間だ、俺は」

自嘲するようにそう言い捨てる柳の顔には、隠し切れないほどの罪悪感が浮かんでいて。それはおそらく、の中にあったものと、少しも変わらない感情であるに違いなかった。

「……狡いのは、私の方だよ」

その罪悪感を生み出した理由も、同じなのだろう。彼の言葉を信じるなら、六年前のあのときから互いにずっと、同じ感情を抱え込んでいたのだ。

「これは、最初からずっと……柳くんへの、チョコレートなの」
「お前は、仁王が好きだったんじゃ……?」
「柳くんと話すために、仁王くんを好きなフリをしてた。ずっと。私の方が、ずるいの。だから、」

真っ直ぐ彼を見つめたままが言い終えるより先に、柳の押し殺したような笑い声が二人の間に転がってくる。

「柳くん?」
「いや、お互い馬鹿らしくなるくらいの遠回りをしていたものだと思ったら、可笑しくてな」

眉尻を下げて、堪えかねたように、どこか困った顔で笑っている。薄っすらと開いたその涼しげな瞳には、優しい光が宿っている。もう六年の付き合いだというのに、そんな表情を見たのは初めてだ。出会ったときより身長が伸びて、髪が短くなって、声が低くなって、すっかりかっこいい男性になってしまったのに、その表情はなんだか可愛らしい。心臓が大きく脈を打つ。反則だ。そんな顔を見せられたら、誰だってときめいてしまう。

「この柳蓮二相手に、上手く隠し通したものだ……いや、きっと、俺が見えていなかっただけなのだろうな」

優しい瞳に映るの顔には、もう一片の嘘も残っていなかった。





(2019/2/14)