偽りの詐欺師




それは彼女の気持ちを踏みにじる行為だと、わかっていたのに。

どこか浮き足立ったような空気が漂う校内、相方の仁王は彼を探す女子生徒たちの想いから逃れるように雲隠れを決めていた。贅沢なこと、と周りは思うかもしれないが、好意を受ける数が多ければ多いほど、それが真剣な想いであればあるほど、受け取れない心苦しさが積もるのも仕方のないことに思えた。それから逃れたいという彼の気持ちもわからないでもない。しかしそれとこれとは別の話で、仁王がいなければ練習が進まないと、額に青筋をたてた真田に探してくるように頼まれてしまったら、たとえ見つかりたくなくても彼をコートに引っ張っていくしか選択肢はなかった。かくしてこうして校内を見て回っている訳だが、それで見つかるようなら可愛らしく包装したチョコレートを胸に、彼を探している女子生徒たちが未だ校内をうろついているはずがない。切なそうな、さみしそうな目をした彼女らに仁王の居場所を聞かれ、柳生はそのたび申し訳ないような思いをしながら、私も探しているんですよ、と答えていた。

「あ、柳生くん」

その声を聞いただけで相手がわかってしまい、柳生は少しだけ弾んだ胸の内を隠すように眼鏡を押し上げて振り返る。そこには柳生が密かに想いを寄せているクラスメイトが、可愛らしい袋を胸に、先ほどから何度も見かけた切なそうな目をして、立っていた。ああ、その目は知っている。

「柳生くん、あの……仁王くん、知らない?」

その言葉を、彼女の口からも聞くことになろうとは。期待と不安と、諦めが混じったような声。このときばかりは、同情していた仁王を憎らしく思った。口を開いても、思うように言葉が出ない。

「仁王くん、は……」

このまま仁王が見つからなければ、彼女は渡せなかったチョコレートごと、彼への想いを諦めてくれるだろうか。『区切りがつけたいだけなんだよね』彼女の前に仁王の居場所を聞いてきた女子生徒がそう言った。『これ渡して告白してフラれて、自分の気持ちにケリつけたいだけなんだ。もう二年くらい、持ち越してるけど』そんなことを大して仲良くもないような柳生に愚痴りたくなるくらい、彼女は仁王のことを想っていたのだろう。目の前の彼女も同じ気持ちだったら、このチョコレートが渡せなくても彼女の気持ちは変わらないのではないか。それなら。

「私も探しているんですよ」

そう伝え、残念そうにお礼を言う彼女に背を向け、トイレへと駆け込んだ。いつからか、お互い常に持ち歩くようになった変装道具。試合以外で使ったことはなかったが、素早くカツラを装着し、ユニフォームの襟を倒して靴下を下げる。口元に彼の特徴であるホクロを書き足し、上履きの後ろを履き潰す。規範の上で生きてきた、紳士的な自分自身を自らの手で殺していく。眼鏡を仕舞い、コンタクトを入れた。鏡に映った自分がひどく情けない表情をしているのを、柳生は自覚していた。

「仁王くん!」

視聴覚室の前で、先ほどの可愛らしい包みを胸にウロウロしていた彼女は、柳生を見つけるなり駆け寄ってくる。試合ではもう何度も入れ替わり、チームメイトでも騙せるほどお互い変装の腕が上がったにも関わらず、バレてしまうのではないかと冷汗が背中を伝う。しかし、彼女は俯いて真っ赤に染まった顔を上げず、まともに目も合わせないまま、チョコレートをなかば押し付けるように渡してきた。

「あの、これ、貰ってください」

消え入りそうな声でそれだけ伝えて、足早にその場を去って行く。言葉を交わす暇もなく、その場で返事を求められなかったことにどこか安心していた。このまま、この袋ごとなかったことにしてしまえばいい。

「いつから私はこんなに愚かになってしまったんでしょうか……」

こんな詐欺師紛いなことをして。何が紳士だと、そう自分自身を嘲笑ってみても、現実は変わらない。可愛らしい包みは、本来貰うべき人物に渡らず柳生の手の中に収まっている。仁王の想い人を知っている。今年彼が、想い人以外からのチョコを受け取らないと言っていたことも。こんなことをしなくとも、彼女はいつか涙とともに仁王への想いを諦めざるを得ないのだ。それなのに。変装をといて部室に戻ると、女子に追い回されたのであろう仁王が掴み所のない顔で笑っていた。

「やーぎゅ、今日は部活やめとくって真田に伝えてくれんか」
「……逃げ回るのも、大変そうですね。いっそ貰ってあげてはいかがですか。せっかく貴方に用意してくれたものでしょう?」
「気持ちを受け取ってやれんのに、物だけ受け取っても意味なかろう。それに、」

全部受け取ったら、本命とそれ以外を区別してやることもできんじゃろう。自分の決めた相手以外から受け取らないことは、彼なりの優しさ、なのだろうか。たとえ義理だと言われても、今日の彼は断り続けていたようだ。

「柳生は貰ったんじゃな。本命の相手か?」
「……そうですね」

隅に置けんのう。そんな冷やかしも、今は心苦しい。確かに、想いを寄せた相手からのものに違いない。しかしそれは、目の前の彼へと贈られるはずだったもの。罪悪感を抱くくらいなら、最初からこんなことをしなければよかったのに、なんて思ってみてももう遅い。耳まで赤くなった彼女の顔が過って、その日は練習にも身が入らなかった。



自宅に帰って課題を終わらせようと鞄を漁り、その中の可愛らしい包みを見て、柳生は我に返った。結局仁王には何も伝えられないまま、持ち帰ってしまった。これをそのまま置いておいても腐らせてしまう。かと言って彼女が一生懸命選んだものを捨てることはできないし、仁王に渡すという選択肢は、もはや選べない。どうすべきか包みを机の上に置いて一通り悩んだ結果、柳生はリボンに手をかけた。中には一粒一粒個包装されたチョコレートが入っているほかには、手紙の類も見当たらなかった。その一つを手に取り、包装紙を綺麗に剥がして、口に入れた。甘さは控えめで、カカオの独特の苦味もある。舌の上に残るチョコレートの余韻とともに、甘いものが苦手な彼のことを想って選んだ彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。

「……っ」

取り返しがつかない、最低なことをした。人を想う気持ちは、自分だって知っているのに。泣く資格なんて自分にはない。そう思っても、滲む視界はどうしようもなかった。後悔しても、もう遅い。



それから数週間、彼女が仁王に話しかけに行ったりするそぶりはなく、教室で見かける姿もそれまでと変わりはなかった。そのことに安心するが、自分がしてしまった行為に対する罪悪感が消えるわけではない。そうこうするうちに月が変わり、次のイベントが近付いていた。

「お返しとかダリィっスよね〜」
「お前はダルくなるほど貰ってねぇだろぃ」
「う、うるさいっス!丸井先輩は大量に貰ってたけど返せるんスか?」
「お返しとかしたことねーわ」
「うわ!最低だこの人!柳生先輩聞きました?!」
「そうですね、貰った気持ちに対しては、それなりの誠意を示すべきですよ丸井くん」
「相変わらず紳士だな、柳生は」

どこが紳士なものか。そう心の中で思いながらも、口はスラスラと『柳生比呂士らしい』言葉を紡ぐ。お返しに頭を抱えているのは赤也や真田、ジャッカルくらいで、受け取っていない仁王や返す気もないブン太、毎年どの相手にも同じものを渡している柳などはホワイトデーを前にしても落ち着いている。しかし、柳生は落ち着かなかった。仁王として受け取ったのであれば、お返しはしない方がいいに決まっている。彼女から行動を起こすようには見えなかったし、きっと渡せるだけでいいと思っていたはずだ。だから、このまま何事もなかったかのようにしていればいい。

「……」

そう思っていたはずなのに、柳生は次の日曜日、部活の後にわざわざ少し離れた百貨店を選んで立ち寄っていた。ホワイトデーのために用意された区画に、男性女性が入り混じる中を歩く。おそらく彼女がそうしていたように、ひとつひとつの品を見定めて、缶に入ったクッキーを手に取った。平ための缶は可愛らしく、ちょうど机に入れても問題のないサイズ。会計を済ませ、それを持ち帰って改めて考える。仁王としてのお返しなら、しない方がいい。元々想い人以外のチョコを受け取らなかった仁王だ。お返しなんてすれば、彼女に勘違いさせるかもしれない。仁王にも迷惑をかけることになる。そして仁王に直接確認されればすぐに柳生のしたことはバレる。自分の行為を責められるくらいならまだいい。仁王にチョコレートを渡せたと思い、彼からお返しを貰えたと思っていた彼女を二重に傷つけることになる。そんなリスクを負ってまで、自己満足のためにこれを渡すのはいかがなものか。

「どこまでも、身勝手ですね、私は」

結局、一人で罪の意識を抱えていることに疲れたのだ。彼女に責められ詰られた方がいいと思うくらいには。自分がこんな身勝手で愚かな人間だということなど、できることなら知りたくなかった。水色の缶を眺めながら、柳生は何度目になるかわからない溜息をついた。



早朝、まだ陽も昇りきっていない時間帯、朝練が始まる前にクッキーを彼女の机の中に忍ばせておいた。喜んでくれるかどうか、なんて世の男性陣が感じるような期待と不安はなく、ただただ胸が痛んだ。これを見つけた彼女はきっと、仁王に話しかけに行く。真実を知ったら、彼女は失望するだろう。軽蔑されるかもしれない。自らの行動が招いたことで自らが望んだ結果とはいえ、怖かった。

「柳生?何深刻な顔しとるんじゃ」
「……仁王くん」
「らしくないのぅ。もうHR終わったんじゃろ?早よ行かんと、また真田のやつがうるさい」

教室を見渡せば、残っている生徒はほとんどいない。HRがいつ終わったのかさえ、記憶になかった。彼女の姿も、もうない。そして、放課後だというのに、仁王の態度はいつもと変わらなかった。彼女は何も言っていないのだろうか。不思議に思いながらもどこかで安堵していたが、それは昇降口で彼女の姿を見つけるまでの話だった。指先から温度がなくなっていくような感覚。心臓が忙しなく脈を打つ。断頭台に頭を突っ込んでいる気分だ。柳生は覚悟を固め、彼女が仁王を呼ぶ声を待った。

「柳生くん、ちょっといいかな」

予想に反して、彼女が呼んだのは柳生の名前で、それに反応した仁王が「お前さんもやるのぅ」と茶化したがそれに応えられる余裕はなかった。仁王が離れていったのを見送りながら、手に嫌な汗をかいていることを自覚する。

「……柳生くん、これ、」

彼女が鞄から取り出したのは、間違いなく、あの水色の缶で。

「柳生くんだよね?」

確信を得ている目だった。何も答えられずいると、彼女は責めるでもなく、話し始めた。

「……日曜日ね、私もあのお店にいたんだ。柳生くん真剣な目でこれ選んでたよね」
「それ、は……」
「テニスで、二人が入れ替わったりするの、知ってたけど……あの日、私がチョコ渡したの、柳生くんだった?」

何も答えないことを、彼女は肯定に受け取ったようだった。少しだけ笑うと、ごめんね、と彼女は言う。謝るべきは自分なのに。

「ごめんね、間違えたの、私なのに」
「ちが、違うんです、私は……」
「え?」
「貴女が、仁王くんに渡すのを見たくなくて……私は故意に、彼に成りすましたんです。すみません、謝っても、済むことじゃないと、わかっていますが、どうしても、」

気を抜けばあの日流した涙がまた溢れてしまいそうで、泣いてしまうのは卑怯だと、唇を噛みしめる。詰られる、侮蔑される。そう覚悟していたのに、目の前の彼女の表情はひどく優しくて。

「なんで、そんなことを?」

言ってしまっても、いいのだろうか。こんな言葉で自分のした行為が許されるなんて、思っていないけれど。その、答えを待つ柔らかい瞳に、甘えてしまってもいいだろうか。絞り出した声はあまりに頼りなくて、震えないようにするだけで精一杯だった。本当に、彼女の前では、愚かで無様で情けない、ただの男になってしまう。

「……貴女が、好きです」

彼女は、そっか、と微笑んだ。

「……あの日渡せるだけで、私は満足だったんだ。でも柳生くんがこれを選んでるのを見て、『ああ、あんなふうに真剣にお返し選んでもらえるの、いいな』って羨ましくなったの。まさか、私の机に入ってるとは、思わなかったけど。でも、嬉しかった」

私のこと、好きになってくれて、ありがとう。私も貴方を好きになりたいです。そう続く言葉たちに、目眩がした。昇降口に差し込む日差しは、彼女の手と同じくらい、あたたかかった。

もう、春が近い。




(2015/5/24)