二度咲く病




東京の、人の溢れる雑踏の中で、彼の香水の匂いがした。振り向いてしまいそうになるのを抑えて、無理矢理前を向く。これだけ人がいるのだ。同じ香水をつけている人だっているだろう。でも、一般人にはなかなか似合いそうにない香りだけれど。浮かんだ考えを振り払うように、大股でヒールを響かせて歩く。振り向いて、彼の姿を探してしまったら、せっかく前を向こうとした気持ちまで過去に引き摺られてしまいそうだ。
ふと、何もつけられていない左手の薬指に目をやった。ほんの数ヶ月前まで、そこには指輪が輝いていた。それはありふれた、世間一般の幸せの象徴だと信じていた。結婚が女の幸せ、なんて、いつの時代の価値観だと笑われそうだが、地元の田舎では未だにそんな価値観が当たり前なのだ。そして、中高では無理をして娘を東京の名門私立に入れてくれた親も、無理をしてそこに入った自分も、結局そんな価値観からは逃れられていなかった。結果として、典型的なダメ男を捕まえて、徐々に彼も変わってくれると信じて結婚して、あっという間に戸籍にバツがついた。
結婚すれば、幸せになれるってわけじゃないのに。その空虚な薬指を目にする度、わかりきっていたことを改めて実感する。離婚なんて今時ありふれているけれど、実際自分の身に降りかかると面倒でならなかった。結婚するときだって、苗字が変わるのがひどく面倒だったのに。今まで頑張ってきた仕事を寿退社していなかったのが、唯一の救いだ。上司は事情を理解してくれたし、独り身になったことでこれまで以上に仕事に打ち込めるようにはなった。それを救いと思わなければ、ドン底の精神状態から這い上がることなんてできやしない。
しばらく歩いたところで手に持ったスマホが振動し始めて、慌てて電話を取った。今回東京出張することになった得意先だ。打ち合わせは明日の朝からだったはずだが、何か予定の変更でも生じただろうか。電話の向こうの話を聞きながら、道の端に寄ってスケジュール帳を開く。挟まれている万年筆を持つと、自然と胸があたたかくなった。学生時代の、青春の残滓。それに浸っていたのがよくなかったのか、せっかく道の端に避けたというのに、後ろから人にぶつかられた。結構な勢いだったため、手に持った万年筆が吹っ飛んでいく。

「あっ」

大事なものなのに。ぶつかってきたやつ許さん。誰も踏まないでよ、と祈りながら万年筆の行方を追うと、それは誰かの足元まで転がっていた。立ち止まっていたその誰かは、身を屈めて万年筆を拾う。しっかりと磨かれた、いかにも高級品のピカピカの革靴。仕立ての良いスーツには皺ひとつない。足が長くて、スラッとして見えるが体格も良い。まさか。その時点で、もう心臓の音は随分と大きくなっていたけれど。とても見覚えのある色素の薄い髪から、涼やかなアイスブルーの瞳が覗いて、電話口の声が一気に遠くなった。

跡部くん?

驚きのあまり、咄嗟に声が出ない。口が僅かに動くばかりだ。そこにいるのは間違いなく、父親の転勤で東京にいる間に通った名門私立の同級生で。どうしようもなく恋い焦がれた相手だった。

跡部財閥の御曹司で、中等部に入学してすぐ、一年生にして生徒会長とテニス部の部長になった彼を、最初は敬遠していた。一般庶民の感情として、それは当たり前であったと思う。雲の上の人。憧れるとかそういうものを通り越して、自分とは違う世界の人だと思って、あえてお近付きになろうとは考えなかった。その人気っぷりや周りの熱狂ぶりを目にしても、引いてしまうほどに冷める一方だ。毎年十月の彼の誕生日は特に酷かった。これは警察とかを動員した方がよいのではないだろうかと思うほどの、最早暴動と言ってもいいプレゼント合戦。跡部財閥の御曹司が相手だ。彼なら欲しいものは自分で買えるだろう。そんな言葉も、恋に恋する乙女たちには届かない。中等部の最初の二年間は、そういう彼らを華麗に避けながら平穏無事に過ごしていた。
それなのにどういうわけか、中等部三年生の一学期。これといって何の打診もなく、生徒会の書記に任命されてしまったのだった。朝のホームルームで教師によって告げられたその衝撃の事実に、開いた口が塞がらない、という事態を初めて経験した。周りの視線も痛い。生徒会といえば、会長は大人気の跡部景吾で。だからだろうか、通常のような立候補や選挙形式で人を選ぶことがない。立候補が跡部景吾目当てで溢れることは予想に難くないし、その中から選ぶとなっても面倒なことになるに決まっている。彼は意外とそういう面倒なことを嫌っているようだった。それなら目立たなければいいのに、と思うけれど。
とにかく、そんな普通では入り得ない生徒会に選ばれたのだ。女子生徒からの視線が痛いのも当然だろう。どんな裏のコネを使ったのかしら、なんて囁かれても、こちらには使えるコネなどありはしない。ここの学費もギリギリなのだ。それでも強く睨まれたりしなかったのは、ひとえにこの一般的で地味な容姿と、今まで一切跡部景吾に興味を見せてこなかった姿勢のおかげだった。あれなら敵じゃないわ、なんて、自分が一番よくわかっている。敵になるつもりもございませんってなもんだ。
放課後生徒会室に入って、机に座る彼に相対した瞬間のことは今でも覚えている。あんなに近くで跡部景吾を見たのはそれが初めてだった。本当に、遠目で見ても整っていたけれど、近くで見たらますますアイドル並みに整った顔をしている。アイスブルーの瞳が宝石のようだ。見惚れそうになるのをグッと堪えて、声を上げる。

「あの!私生徒会入りたくないんですけど!」
「あん?なんでだ。テメェ部活も委員会も入ってないはずだろ。家もそこまで遠くないから帰宅に時間がかかるわけでもねぇ」
「えっ、なんで知ってんのこわ……いやでも、生徒会の書記なんてそんなのもっと能力のある人が……」
「能力があるかないかは俺が決める。俺は能力があると思ったから選んだ。それだけだ、席につけ」
「えええ」

生徒会に選ばれているメンバーは、総じて地味で仕事熱心な感じの人ばかりだった。メンバー自体も少ないけれど。もしかして地味さで選ばれたのか、と思わないこともない。強引に、席につけ、と言われて渋々座った生徒会の椅子が思いのほか座り心地が良くて、一瞬良いかも、なんて考えが頭をよぎる。良くない良くない。

「それじゃあいつもの行事予定についてだが」

そうして進められていく議題を、仕方なく手元の紙に記していく。

「ほらな、出来るじゃねーか」
「はい?」
「俺様の目に間違いはねぇんだよ」

どうやら彼はクラス毎に提出される行事関係の書類に全て目を通しているらしい。それは各人ごとで書くものもあったはずで、このマンモス校の氷帝学園でそれを行うとなると目を通す書類はひとつで千を下らないはずだ。その中で、特に字が綺麗で内容が整然としていて、目を通しやすい書類があって。それが、どうやら生徒会書記に選ばれた理由らしい。

うわー、そういうの、見てくれる人なんて、いるんだ。

地味で目立たない生活を送ってきた者にとって、誰かの目に留まるということはそれだけで結構な驚きだ。その上、自分でも気付かないような良い部分を見つけてもらえて、認めてもらえて。ぶわっ、と胸に広がる誇らしさみたいなものを、どうにかしなくちゃいけないのに。結局、平穏無事な生活を引き換えにして、生徒会入りを決めてしまったのだった。
近くで仕事をしていれば、今まで見えてこなかった部分も目に入るようになる。たとえば、一般的な中学生が一人で片付けられるとは思えないほどの仕事量を、彼が一人でこなしていることや、学園やそこに通う生徒のことを本当に真剣に考えてくれていること。この人はただ上に立ちたいから立っているんじゃない。自分ならもっと良い環境にできるはずだと信じているから、それを成せる立場に就いているだけなのだ。それに気付く頃には、もうすっかり跡部景吾への苦手意識は払拭されていて。高等部入った頃には、あの日得た誇らしさみたいなものは、どんどん膨らんで形を変えていた。たぶん、彼も気付いていただろう。面倒なことを嫌っている彼のことだ。きっと告白なんかすれば、生徒会のままではいられなくなってしまう。それに下手に告白なんかして、仕事の腕を認めてくれている彼に失望される方が怖かった。
だから、恋心に気付いても、それを意識しないように振る舞った。バレンタインはスルーしようと思っていたところ、生徒会全員が彼から高級チョコレートを貰ったし、ホワイトデーには生徒会全員からささやかにお返しさせていただいた。けれど暴動並みに盛り上がる彼の誕生日だけは。高等部一年目と二年目は耐えたけれど。なんとか最後だけでも祝いたい、という想いが捨てきれず、高等部三年の十月。いつもお世話になっているから、と理由を付けて、彼にプレゼントを押し付けた。

「ふぅん、なかなか気が利いてるじゃねーの」
「高いものじゃないから、跡部くんが使うと逆に浮いちゃいそうだけどね」

この歳ではあまり贈られそうにないもの。幅を取らなくて、ブランド物だけどそこまで高くなくて、高校生のお年玉貯金でもなんとか手の届くもの。彼は包装を解くと、中のプレゼントを取り出して目の前にかざした。きらり、と彼の瞳と同じ色の石が輝くネクタイピン。もちろん、石は宝石じゃない。

「なるほどな」
「無理に使わなくていいからね。ただのお礼だし」
「ふん、使うか使わねーかは俺が決める」

その言い方が、出会った頃と変わらなくて笑ってしまう。

「ふふ。本当に、誕生日おめでとう」
「殊更めでてぇもんでもねぇよ」

そう言って笑う彼に、やっぱり好きだなぁ、と思った。そしてやっぱり、この人を失望させたくない、と強く感じた。だから決して、この恋心を告げたりしない。そう決意を新たにして、その出来事はそれで終わったはずだった。
その、翌日。

「ほらよ、これ」
「え?なに?」

彼は綺麗な包装紙でラッピングされた細長い箱を差し出しながら、怪訝そうな顔をする。

「お前先月誕生日だっただろ」
「え?そうだけど……」
「だからプレゼントだ。遅れたのは悪く思うなよ。お前の誕生日が早いのが悪いんだからな。昨日のお返しだ」
「え!?」

驚きの疑問符を連発すると、彼は更に眉間の皺を深くする。そりゃ驚くだろう。バレンタインのお返しはホワイトデーに一気に行うものの、流石に誕生日プレゼントは彼も返していないはずだ。何せあれは毎年膨大な数に上るし、どれが誰のものかも判然としない。開封だけでも跡部家の使用人が全員掛かりで行うという。その相手の誕生日にお返しをしようと思ったら、おそらく毎日誰かしらを祝う羽目になる。だから、それにお返しが来るなんて一切期待していなかった。

「さっさと受け取れ」
「ああ、うん、あ、ありがとう」

盛大にどもって若干挙動不審になりながら、彼の手からプレゼントを受け取る。

「開けても?」
「いいに決まってんだろ」

触っただけで、明らかにお高い包装紙とわかる。それを破らないようにしながら慎重に開くと、また一段とお高そうな箱が出てくる。なんだろう、この質感。多分紙なんだろうが、革みたいな。その細長い箱を開けると、中から出てきたのは万年筆だった。絶対お高い。キラキラと輝いている。

「うっわぁ……」
「それは勿論、嬉しい感嘆詞なんだろうなぁ?」
「えっと、ソウデスネ」

恐れ多い、なんて言葉が真っ先に出てきそうになったけれど、それは飲み込む。思わず両手で掲げてしまう。表面の赤い色が綺麗だ。

「綺麗な赤だね」
「お前、よく赤いもん使ってんだろ」
「あ、それで選んでくれたの?ありがとう」

あまり感動を表に出し過ぎないように、たぶんとても自然にお礼が言えたと思う。自分を褒めたい。本当は、泣きそうになるくらいに、嬉しい。今この瞬間に万年筆を胸に抱えて死にたいくらいだ。今日が誕生日じゃないなら、死んで生まれ変わって今日を誕生日にしたい。棺にはこれを入れてください、と頼みたい。
好き、と言いそうになるのを堪える。告白は、しない。したらダメだ。自分に言い聞かせる。彼がこうしてお返しをしてくれたのも、きっとちゃんと、友人としての距離を保ってきたおかげなのだから。

「誕生日、おめでとう」
「……うん、ありがとう」

笑ってそう言ってくれる彼の表情を、声を、記憶に焼き付けて。棺に入れるのは、万年筆と、この記憶だけでいい、とすら思った。
そんな、何も言えないまま終わった恋だった。いや、明確な終わりはなかったから、心は未だに彼を想ったままなのだろう。あれから他の誰かを想うときも、彼のときほど胸を焦がしたりはしなかった。結婚してもそうだった。万年筆はまだ大事に使い続けている。それを見るだけで、いくらでも頑張れるような心地がしたから。そうやって、彼をずっと心の支えにしてきてしまった。

だから、こうして巡り会ってしまったら。きっとまた、あの頃の想いが溢れてしまう。

『……もしもし?もしもーし!あれ?大丈夫ですかー?』

耳元で大きな声がして、一気に現実に引き戻された。そうだ、今は得意先と電話中だった。

「あ、すみません!大丈夫です。えっと、それで何でしたっけ?」

慌ててメモを取ろうとして、手元に万年筆がないことに気付く。それは彼に拾われたのだった。うわ、どうしよう。彼はこちらに近付いてきて、万年筆を差し出した。首だけ動かして礼をして、それを受け取る。その際に漂ってきたのは、懐かしい彼の香水の匂いだった。あれ、やっぱり跡部くんだったんだ、と納得する。恋する女の記憶力、怖い。元旦那の匂いなんて、カケラも覚えていないというのに。

「はい、はい。明日の九時ですね。よろしくお願いします。はい、そちらの資料もお持ちします」

というか、こちらが電話をしている間、彼は一向に動こうとしない。どうしたのだろう。元同級生に久しぶりに会えた懐かしさか。同窓会なんかにも全く参加していないからなぁ、と思っていると、彼はおもむろに名刺に何かを書き記すと、それをこちらの手帳に挟んできた。そして、電話をしているのとは逆の耳に顔を寄せてくる。

「ここで会ったのも何かの縁だ。手が空いたら食事くらい付き合えよ」

叫ばなかったことを褒めて欲しい。それくらいに破壊力のある色気溢れる声が右耳に注ぎ込まれて、耳から直接心臓を握り潰されたかと思った。集中しないといけないのはどう考えても左耳なのに、全神経が勝手に右耳に集中する。顔に熱の集まるのは、どうしようもなかった。手帳に挟まれた名刺には、携帯番号がひとつ走り書きされている。おそらく、彼のプライベートの番号。これをどうしろと。ばくばくと存在を主張する心臓と、まだ終わらない電話を持て余している間に、目の前の彼は満足そうに笑って去って行った。




(2021/6/28)