二度咲く病 2




人の溢れる雑踏の中で、すれ違った彼女に一瞬で気付いてしまったのは、やはり未練だろうか。跡部は道の真ん中で足を止めて振り向いた。後ろを歩いていた中年の男が、急に立ち止まった跡部にぶつかりそうになって舌打ちする。文句の一つでも言ってやろうという表情だったが、跡部の仕立ての良いスリーピースと無駄に整った顔を順番に眺めて、ブツブツと口の中で何かを呟きながら横を通り過ぎていく。そんなものにかかずらっている場合ではない。十数メートルも向こうに彼女の後ろ姿を見つけて、やはりそうだ、と確信を強める。向こうもパンツスーツ姿で、学生時代と違って髪も少し染めている上に、メイクだってしていた。それでも、ほんの一瞬すれ違っただけでわかってしまった。スマホの地図アプリか何かを熱心に見ている彼女は、こちらには全く気付いていないようだが。
跡部はその場で僅かに逡巡して、それでも堪え切れず彼女の後を追った。今度はスマホで何やら電話をし始めた彼女は、道の端へと避けて鞄からスケジュール帳を取り出した。仕事の電話だろうか。声をかけるタイミングを完全に逸して、一度彼女の横を通り過ぎ、数メートル進んで跡部は再び足を止めた。スマホを顔と肩で挟んで、何やらメモを取ろうとしている。そんなことにも気付かない男が、後ろから彼女にぶつかった。彼女はバランスを崩しかけるが、倒れることはない。代わりにその手に持っていたペンが跡部の足元に吹っ飛んできた。見覚えがあるそれに、心臓が大きく脈を打つ。そのペンを拾って、もう一度検分する。間違いない。それは彼女の誕生日プレゼントに、跡部が贈った万年筆だった。拾った相手が誰なのか、ようやく気付いた彼女が大きく目を見開く。

跡部くん?

読唇術なんか心得ていなくとも、彼女が声にならない声でなんと言っているのかよくわかる。一瞬呆けていた彼女は、電話の相手に何度か呼びかけられたのか、慌てた様子でそちらに相槌を打つ。けれど、意識はほとんど跡部の方に向かっていて、チラチラと視線を寄越してきていた。メモを取ろうとして手元にペンがないことにまた慌て、跡部が万年筆を手渡すと、躊躇いながら受け取った。スケジュール帳に並ぶのは、昔と同じ、生真面目そうな整った文字だ。ふと、彼女の左手に目がいって、そして跡部は首を傾げた。風の噂で、彼女は半年前に結婚したと聞いたばかりだ。そんな彼女の左手に、指輪はない。仕事の際には指輪をつけないという人間もいる。さして不思議ではないか、と思い直した。彼女は赤いスーツケースも持っているし、居住地はここから遠く離れた地方のはずだ。おそらくは仕事の出張だろう。彼女はもう人妻だ。誰かのものだ。そう自分に言い聞かせるが、未練がジクジクと喉の奥を刺す。食事くらいなら、いいだろう。誰かに言い訳でもするようにそんなことを考えながら、跡部は名刺の裏にプライベートのスマホの番号を記した。

「ここで会ったのも何かの縁だ。手が空いたら食事くらい付き合えよ」

電話しているのとは逆の耳にそう囁きかけて、名刺をスケジュール帳に挟む。そうして真っ赤に染まった彼女を横目で確認して、まだ、彼女の中に自分は残っている、と安堵した。彼女はもう誰かのものだという事実は変わらないまでも、それは跡部の心のささくれた部分を慰めてくれた。

なんで、結婚なんかしたんだ。

その言葉をなんとか飲み込んで、跡部はようやく雑踏の中に踏み出した。

彼女が学生時代、自分に憧れていることを、跡部はわかっていた。彼女は氷帝学園の生徒会の書記だった。中等部の最初の頃はお互い関わることもほとんどなかったが、跡部はずっと彼女のことを知っていた。生徒会長として、一年生のときからずっと生徒会業務に携わっていれば、その過程で各生徒からの書類を見飽きるほどに見ることになる。特にこの氷帝学園では生徒の自主性が重んじられているので、尚更だ。もっとも、そういう校風をより一層推し進めた形にしたのは跡部であるが。
その幾千幾万の書類を眺める中で、ほんのいくつかだけ、疲れた頭にもスッと入ってくるものがあった。よくよく見てみると、それはどれも同じ人間が書いたものだ。生真面目そうな、綺麗な字。字だけではなく、内容も整然としていてわかりやすい。



記名欄に書かれたその名前をなぞる。全校生徒の名前と顔くらいならすぐに記憶から引き出せる。確か、特に目立ったところもない普通の女子生徒だ。黒髪のおさげで、服装にも乱れはなく、部活には入っていない。調べてみれば、成績も良くもなく悪くもなく、極めて平均的。
そして、跡部には全く興味がない。これまで誕生日やバレンタインに彼女から何かを貰った覚えもなければ、テニスコートに近寄っているところも見たことがない。理想的だ、と思った。生徒会の役員に、だ。生徒会の役員は普通選挙などで決まるものだが、立候補に跡部狙いの女子生徒が溢れることは目に見えていたため、ほとんど跡部が自分で選んだ人間を起用していた。全員何かしらの目立った功績は上げていないが、しっかりと仕事の出来る精鋭たちだ。
中等部三年生の春、ようやく跡部の目の前に姿を現した彼女は、大人しそうな外見に反してしっかりと物を言う女だった。それも嬉しい誤算というやつだ。自己主張は弱いより強い方が良い。謙虚なのは日本人の美徳だが、物言いがはっきりしないのは頂けない。

「あの!私生徒会入りたくないんですけど!」
「あん?なんでだ。テメェ部活も委員会も入ってないはずだろ。家もそこまで遠くないから帰宅に時間がかかるわけでもねぇ」

生徒会に引き入れるにあたって、その辺に問題がないかは既に調べてある。各人の能力が秀でているとはいえ、業務量が半端ではないのだ。部活などに取り組みながらそれらの業務をも兼任できるのは自分くらいだろうと、それくらいは跡部もわかっていた。それぞれにキャパというものがあり、出来ることと出来ないことがある。出来ることが出来ればいい。彼女はしばらく抵抗していたが、半ば強引に話を終わらせて席に着くように促すと、渋々それに従った。流されやすいのかお人好しなのか。おそらく両方だろう。

「それじゃあいつもの行事予定についてだが」

進められていく議題を、不服そうな顔で紙に写していく彼女の手元を覗いてみると、やはり思った通りの見やすい書類が出来上がっていた。綺麗な文字で要点を絞って箇条書き、細かな部分は横に脚注、余白も適度に取って、後でそれを見る人間にもすぐ理解できるようになっている。

「ほらな、出来るじゃねーか」
「はい?」
「俺様の目に間違いはねぇんだよ」

そうして選んだ理由を告げてみせると、彼女は眉間に皺を寄せて、視線を手元に落とした。その目元が若干赤くなっていたので、それが照れ隠しのつもりなのだとわかる。普段からあまり褒められ慣れていないのだろう。生徒会にはそういう人間が多い。自分の能力を自分でもよくわかっていないような者たちばかりだ。それを引き出すことが、自分の役割だと跡部は思っている。
それから中等部を卒業して、高等部に入ってからも、彼女は生徒会の役員としてずっとよく働いてくれた。真面目で、お人好しで、少し仕事を抱え込みすぎるきらいもあったが、褒めれば褒めるだけ育ってくれるような人間だったから、部下としては非常に優秀だった。その過程で、いつ頃からか跡部に向けてくる視線に友愛や敬愛以上のものが混ざっていることにも気付いていた。それでも、彼女はそれを決して口にしようとはしなかったので、跡部も彼女を遠ざけることはしなかった。
恋愛沙汰程度のことでゴタゴタして優秀な部下を遠ざけるなんて結末は避けたい。面倒なことはごめんだ。跡部のそんな気持ちを察知したかのように、誕生日やバレンタインといったイベントでも、彼女がそういった感情を表に出してくることはなかった。彼女のそういう部分も好ましく思っていた。
そんな彼女が、高等部三年の跡部の誕生日にプレゼントを用意してきたから驚いた。まさか、今更になってそんなものを渡してくるとは予想していなかった。高等部三年生という、ある意味では区切りになる学年だ。卒業したら彼女は外部の大学に進むということは以前から聞いていた。だから、だろうか。これで最後になるから想いを伝えるというのは、ありふれた動機のように思える。とはいえ、卒業までにはあと半年近くあるのだ。顔には出さないものの、少しばかり気が重くなってしまうのは、どうしようもなかった。

「これ、誕生日プレゼント」
「ああ、ありがとな」
「いつもお世話になってるから、そのお礼?みたいな感じ。あんまり気負わず受け取ってよ」

差し出された小さな箱を見つめていると、彼女はまるで跡部の内心を見抜いたかのように言葉を重ねた。誰からの、どんな想いがこもった贈り物であろうと、跡部は全て受け取ってきた。想いに応えることは出来ないが、その全てに自分なりに誠実に向き合っているつもりだ。ここで彼女からの贈り物だけ断る理由はない。それがたとえ、どんな意味を持っていたとしても。手渡されたものを開けてみると、出てきたのはシルバーのネクタイピンだった。嵩張らないし、いくつ持っていたとしても困るものではない。

「ふぅん、なかなか気が利いてるじゃねーの」
「高いものじゃないから、跡部くんが使うと逆に浮いちゃいそうだけどね」

高いものじゃないとはいえ、きちんとブランド物だ。彼女の父親は普通のサラリーマンのはずなので、特別家が裕福なわけでもない。自分の小遣いから捻出したとすれば、なかなかに値の張る買い物であっただろう。小さなアイスブルーの石が控えめに輝いている。跡部の瞳と同じ色だ。それをどういう想いで彼女が選んだのか。そして、どういう想いで今日渡そうと思ったのか。ずっと、彼女はそれを表に出しはしなかったのに。考えれば考えるほど、溢れた想いのひとかけらが胸に迫ってくる。

「なるほどな」
「無理に使わなくていいからね。ただのお礼だし」
「ふん、使うか使わねーかは俺が決める」

そう言った瞬間、彼女は少し目を見開いて、花が開くようにふわりと笑った。元々表情はコロコロとよく変わるやつだったが、彼女がそんなふうに笑ったのを見たのは初めてで、自分でも驚くほど動揺したことを覚えている。

「ふふ。本当に、誕生日おめでとう」
「殊更めでてぇもんでもねぇよ」

彼女は告白をしてくることもなく、本当にプレゼントだけを渡して、満足したように帰って行った。その後ろ姿を見送って、手の中のネクタイピンに視線を落とす。アイスブルーの輝きが、目の奥に残って消えなかった。最初は確かに気が重かったはずなのに、こうして想いも告げられないまま去って行かれると、肩透かしを食らったような気分になる。彼女は跡部の望む通り、今の関係のままでいることを選んでくれたのだ。それに何の不満があるというのだ。不満など持ちようがないだろう、と自問自答する。それなのに、何故か、胸が騒ぐ。
おそらくこのときに、気付くべきだったのだ。恋愛感情を向けられるのには慣れていて、自分のそれがどこに向いているのかということには気付かないなんて、全くお笑い種だ。他の人間が相手なら、向けられる好意を断った後のことなど、こんなふうに思い悩んだりしなかった。あのときに、もう少しでも踏み込んで考えていればよかった。もしも、彼女の告白を受け入れていたら、どうなっていたのだろう、と。
いや、そのときに気付かなくとも、チャンスはいくらでもあった。誕生日プレゼントを受け取った帰りのその足で百貨店に寄って、あの赤い万年筆を選んだ瞬間でも、翌日にそれを渡したときでも、いつでもよかったのに。
誕生日プレゼントは、基本貰っても返すことはしないスタンスを貫いていた。膨大な数に上るそれに返すことは吝かではないが、それぞれの誕生日まで把握して返していくというのはなかなかの手間だ。だから、それに則るなら、彼女にも同じようにするべきだ。そうしなかった時点でーー彼女に誕生日プレゼントを贈ろうと考えた時点で、気付いたってよかった。無意識のうちに、彼女を特別視していたことに。よく赤いものを使っていることも覚えていた。誕生日が先月だということも最初から知っていた。それでも自分の想いに気付かなかったというのだから、本当に笑える。
情けないことに、跡部がそのことに気付いたのは、高校卒業後の春休みのことだった。卒業したテニス部のレギュラー陣で集まって、跡部の家のテニスコートでしばらく打ち合った後、滝が家の用事で帰宅して、それからは家の中で他愛もない話を続けていた。忍足が最近見た恋愛ものの映画について語っているときに、ふと思い出したように跡部に視線を向ける。

「跡部って、好きなやつおんの?」
「お、侑士、恋バナ!?めずらしーじゃん!」

向日があからさまに表情を輝かせる。別に跡部の恋愛に興味があるわけではない。彼は半年前に付き合い始めた彼女との関係を常に自慢したくて堪らないのだ。

「そういえば俺らももう長いこと一緒におるのに、跡部のそういう話聞いたことあらへんなぁと思ってな。岳人のはよぉ聞くけど」
「へへっ、この前デート行った時の写真見る?」
「もう三回は見たわそれ。で、どうなん?跡部は」
「そういうお前らはどうなんだ?向日以外」
「なんでだよ!俺のも聞けよ!」

忍足は少し視線を彷徨わせ、この話題にも興味を持っていなさそうな男を見た。どうやら自分は答えたくないらしい。

「そういえばジローのも聞いたことあらへんな」
「え〜?俺はまだそういうの興味ないC」
「まだってなんだよ、俺らまさにそういうお年頃だろ!」
「だって好きになるとか分かんないC。友達とかそういうのと、どう違うわけ?」
「そっからかよ!」

話題を振った忍足よりも、向日の方がよっぽど煩い。テニスと丸井と寝ること以外に全く興味のなさそうなジローならば、この歳で恋愛感情がわからないなどと言い出しても頷ける。一体向日はどう返すのだろうか、と思っていると、彼はそのまま隣で黙っていた男に問いかけを丸投げた。

「どう思う?宍戸」
「いやこういうときこそお前の出番だろ岳人!」
「だってお前のがセイジツそうじゃん、そういう答え」
「お前だって彼女には誠実だろ」
「見た目の話だよ見た目の!客観的に見て」
「完全に面白がってるだろうが!」
「どっちでもいいから教えてよ〜!」

二年ほど付き合っている彼女がいる宍戸は、からかわれたくないのか、自分の話をあまりしたがらない。付き合い始めた当初からそうだったから、これはおそらく個人の性格の問題だろう。実際自分の恋愛話を明け透けに何でも語っているのは向日だけだ。ジローに急かされるように見つめられ、岳人にもう一度恨みがましい視線を向けた後で、宍戸は不本意そうに口を開いた。

「……万人に当てはまるかはわかんねーけど」
「うんうん」
「自分の行動が他とは違うって思ったんなら、それは特別だと思う。たとえば、他のやつにしねーことをソイツにだけしたりするなら、それは相手を特別に思ってるってことだろ」

不意に、心臓が跳ねた。その瞬間、頭の中に浮かんできたのは、彼女の顔だ。他の人間にはしないことを、彼女にだけするとしたら。それは彼女が例外ということであり、普通はそれを"特別"というのだろう。それは理解できる。実際、生徒会の貴重な戦力として失いたくない程度には、特別だった。だがそれは、恋情なのか。棚の方に目をやると、そこに飾られたネクタイピンの、明るいアイスブルーの石が光っている。

「えー、他のやつにはしねーことって何!?なんか言い方えろくね!?」
「ちげーよ!たとえば、メッセージの返信待っちまってたりとか、そういう話だ!」
「あー、なるほどなー。確かに宍戸、そういうんレスポンス遅いっちゅーか、既読すらなかなかつかへんもんな」
「あんまりスマホ見ねぇからな」
「そんな宍戸でも、彼女の返信は待ったりするんやな」
「へー、なんか勉強になるC」

跡部の密かな動揺など知るはずもなく、周りは宍戸の話で盛り上がっている。本人はそれが耐えられないのだろう。元々からかわれることを避けて、そういった話はしない人間なのだから。照れ隠しなのか眉間に皺を寄せて、この話題の発端となった忍足を睨む。

「忍足はどうなんだよ!」
「俺?俺はまあ、普通やな」
「なーにが普通だよ!侑士のやつ、跡部のこと好きだった女に惚れて、やっと振り向いてもらったんだぜ!」
「うわ、そんなん跡部の前で言うなや」
「へぇ」

思わず声を上げてしまったが、その話に対して跡部が大した感慨を覚えることはなかった。告白してくる女子生徒や誕生日に貰うプレゼント、バレンタインに貰うチョコレートなどは、多すぎてひとつひとつを記憶するのも難しいほどだ。告白を受け入れたことはないのだから、その中の一人が想いを諦めて他の誰かを想ったところで、祝福こそすれ、他に感じることなどありはしない。だが。頭に浮かんだ疑問に、跡部は内心で狼狽えた。忍足の話が、ちっとも耳に入ってこない。

だが、もしも、彼女が跡部以外に目を向けることがあるとしたら?

いつかそんなことになるのは百も承知で、告白などしてくれるなと願ったはずだった。けれど。信頼と敬愛を宿した彼女の瞳に、ほんの僅か混ざる違う色。それを必死に押し隠す様子を、好ましいと思っていた、あの感情が。花が開くように笑った顔に目を奪われた、あの動揺が。告白をすることなく去って行った彼女を見送ったときの、あの胸のざわめきが。

あれら全てが、彼女への恋情から来るものだとしたら?

「……まあそんな経緯もあって、跡部の恋愛的なとこに興味が湧いたんはあるけど」

跡部がハッとしたときには、そこにいるメンバーの視線は軒並みこちらに向いていた。

「で?跡部はどうなん」

忍足の問いかけに答えられるほどの気力は、本当のところほとんど残っていなかった。言葉を口に出来たのは奇跡的だったとすら思う。何故なら、たった今、自分の気持ちに気付いてしまったのだから。

「……俺の一存だけで決められるもんでもねぇしな」
「あー、跡部財閥の御曹司の相手としてどうかっちゅーこと?そんなん、今から考えんでもええやろ。それに恋愛は、そういうんやないやろ」

忍足はそう言うが、実際跡部が学生時代の恋愛ごとに興味を持てなかった理由の大部分はそこにあるのだ。先の見えない関係に相手を巻き込むのは気の毒であるし、遊びで付き合うほど暇でもない。幼い頃から幾人かの由緒正しい家柄の令嬢と見合わされて、跡部の婚約者は実質内定しているようなものだった。勿論、本気で惚れるような女がいれば、それさえも跳ね除けてしまえただろうが。今気付いたのでは遅すぎるし、何よりも、一般庶民である彼女に跡部財閥の御曹司との今後など、考えられるはずもなければ、その覚悟もないに違いない。そんな人間を一時の感情で傍に置くのは、彼女にとっても荷が重い話だ。そこまで考えが及んで、ようやく跡部の頭の芯はスゥッと冷えていった。そうだ、どのみち彼女を傍に置いておくことなど、出来はしない。巨大財閥の内側は、綺麗なだけではないのだから。

「侑士は今の彼女との将来考えてねーの?」

岳人は何故か不満そうに唇を尖らせている。将来のことは今考えなくてもいいだろう、という忍足の言葉が気に食わなかったらしい。ベタ惚れの彼女と別れる想像など、したこともないという顔だ。

「……考えるけど、それは理想やん。現実問題、いろいろあるかもしれへんし」
「お前ロマンチストなくせに変なとこ現実的だよなー!」
「無意識に保険かけてるんかもな。元々付き合えると思うてへんかったし。友達やったら縁も切れんけど、恋人なんか別れたら終わりやんか」
「ったく、夢のないこと言うなよな!」

忍足の言うことの方が、跡部にはよく理解できる。夢を現実にするための努力は惜しまない。それが、跡部の手のみで成せることであるならば。だが、それに彼女を巻き込む気には到底なれない。

所詮、その程度の気持ちだったということだ。

そのときはそうして諦めたフリをして、気付いた想いなど早々に握り潰してしまうつもりだった。それがまさかいつまでも腹の奥底で燻っているなんて、その頃には想像もしていなかったのだから。

雑踏の中、一目で彼女の姿を見つけてしまったあの瞬間。消えたはずの想いはまだここにあるのだと、心臓が主張する。腹の奥底に眠っていた感情が芽吹く。
何がその程度だ。こんなにも強烈に身の内を焼くような想いに、よくも今まで気付かないフリができたものだと、跡部は心からかつての己を嘲笑った。




(2021/6/28)