最初で最後の青春




柳がを初めて見かけたのは、中学二年生のときだった。同じクラスになったことはないが、お人好しだと女子生徒たちが噂しているのを聞いたことがあった。あまり良い意味には聞こえなかったが、廊下ですれ違った際に彼女を見ると、なるほど、人に付け込まれやすそうな温和な顔をしていた。そのときはただそう思っただけで、関わり合いのないのことは、すぐに記憶の片隅に追いやられた。二度目に会ったのは、それから約一年後。図書室を利用したときだった。会う、というのは語弊があるかもしれない。彼女はそのときのことを覚えていないだろう。立海には一般も利用できる大きな図書館がある。それだけではなく、中等部、高等部などにはそれぞれの校舎に小さな図書室が用意されていた。わざわざ図書館まで出向かなくとも、暇潰しの本を探すくらいなら図書室で事足りる。昼休みなどの休み時間は、図書委員が受付で貸し出しの管理をしているのだが、そのときは受付に誰もいないように見えた。それならそれで構わない。図書室は常連だ。貸し出しの管理くらい、自分でもできる。借りようと思っていたシリーズ物の本は、残念ながら一巻が貸し出し中らしく見当たらなかった。仕方なく適当に選んだ本を抜き出して、カードを記入し受付へと近付く。そして、そこに誰もいないと思っていたのが、勘違いだと気付いた。

「……寝ているのか?」

受付には、一人の女子生徒が突っ伏していた。目の前に並んだ、今月の一冊などお知らせの書かれたボードが上手く目隠しになっていたらしい。自分の腕を枕にして、気持ち良さそうに寝息を立てるその横顔には、覚えがあった。人の良さそうな、温和な顔立ち。お人好しと呼ばれていた、あの女子生徒だ。傍らには、おそらく暇潰しに読んでいたのだろう本の、シリーズ物の一巻が置かれていた。柳が借りようとしていたものだった。昼休みに当番のある図書委員は、あまり人気のある委員会ではない。決めるときにはじゃんけんになるのが通例だった。お人好しと噂されるくらいだ。彼女がこの面倒な係を押し付けられたのだろうことは容易に推測できた。図書委員がいるのだから、彼女を起こして貸し出し手続きをしてもらうべきか。柳はしばらくその寝顔を見つめながら考えて、やめにした。ボールペンや印鑑などを拝借し、貸し出し手続きを終える。図書室を出る前にもう一度、彼女の方を振り向いて、全く起きる様子がないことに少しだけ笑ってしまった。
翌日の昼休み、同じように図書室へ向かうと、彼女はまた受付に突っ伏していた。昨日とは僅かに寝相が違うが、相変わらず幸せそうな顔をして寝ている。その傍らには、まだシリーズ物の一巻が置かれていた。柳は仕方なく、別の本を選ぶ。貸し出し手続きを終えて、彼女の寝顔を眺めて立ち去る。そんなことが、二週間近く続いた。彼女は柳が昼食を終えて図書室に来る頃にはいつも眠っていて、その横には、ずっと同じ本が置かれている。二巻に進むこともなく、そもそも栞代わりに使われているらしい貸し出しカードはずっと同じページに挟まれているようにも見えた。

「……いつになったら読み終えるんだ?」

この二週間で、柳は十冊以上の本を読破している。彼女を起こさないようにひっそりと呟きながら、柳はその本に手を伸ばした。やはり栞代わりのそれは、数ページ進んだところに挟まっている。おそらく、毎度数行で挫折しているのだろう。その様子を想像すると笑ってしまう。挟んであった貸し出しカードを手に取って、一番下に書かれている名前を見る。女子らしい丸みのある、丁寧で綺麗な字でと綴られていた。貸し出してから一週間で返却期限だからか、彼女の名前が律儀に二つ並んでいる。この調子では、三つ目が並ぶ日も遠くないだろう。早く読み終わってほしいという思いは、その頃にはもうなくなってしまっていた。本よりも、の方に興味があった。確か、図書委員の受付の仕事は一週間交代ではなかっただろうか。けれど、二週間が経っても彼女がここにいるということは、図書委員の中でも面倒事を押し付けられているのだろう。お人好し。話したこともないが、彼女の人となりはわかるような気がした。それからしばらくは昼休みの図書室通いを続けていたが、部活と生徒会が忙しくなってからは足が遠のいていた。そういえば、生徒会の中で図書室の蔵書整理の話が出ていたな、と思い出す。柳は少しだけ嫌な予感がして、久しぶりに図書室へと足を向けた。そこには案の定、一人で蔵書整理をしているの姿があった。小さな図書室と言えど、この量を一人で、というのはなかなか重労働だ。こんなことまで押し付けられてしまうとは、人がいいのを通り越して彼女は馬鹿なのではないだろうか。生徒会から注意喚起するべきかもしれない、と考えたが、そうはしなかった。むしろ、これはチャンスだと思った。

「手伝おう」
「え?あ、ありがとう」

本棚の高い場所に苦労して戻している本を、彼女の手から攫う。これが、初めての会話だった。本を受け取るときに手が触れた。彼女と目が合って、いつも伏せられていた瞼の下にはこの瞳が隠れていたのか、と思う。どくん。心臓の音が、耳の奥で聞こえた。ずっと話しかける機会が欲しかったのだと、柳はそのとき初めて自分の中にあった感情に気が付いた。気付いた途端、心臓の鼓動が大きくなった。脈が速くなる。反対に、いつもは回る頭が急に回転を鈍くしたみたいに、何も言葉が出てこなくなった。緊張しているのか、と柳は自分の内心を冷静に分析する。顔には出ていないだろうか。黙々と作業を進めながら、視線を感じてちらりとの方を見遣る。じっとこちらを見つめる瞳が、今この瞬間だけでなく、自分だけのものになればいいのに。そんなことを考えて、らしくないと自嘲する。それから数日間、二人で作業を終えるまで、少しずついろんな話をした。国語が苦手なこと、本を読むのが遅いこと、理系は得意なこと、すぐにいろいろな仕事を任されてしまうこと。

「人がいいんだろう」
「でも、自分の許容量以上に引き受けちゃうのは、馬鹿だったと思う。柳くんにも迷惑かけちゃったし」
「気にしていない。本は好きだからな」
「柳くん、よく本借りてるもんね。私割とずっとここにいたんだけど、意外と借りに来る時間とか被らないもんだね」
「ふっ……そうだな」

思わず笑ってしまった。彼女は少し不審そうな顔をして首を傾げる。まさか、寝ている間に勝手に借りていたということは伝えられない。そうやって、ほんの少しだけ距離が近付いたものの、高等部に進んでからも文系と理系ではクラスが近付くこともなく、関わりが増えることもなかった。高校三年になって、が生徒会の一員になるまでは。また面倒を押し付けられたのだろうことは想像に難くない。いろいろと雑務に時間を取られることが多い上、私立の立海では自由の幅が広い。それは良いことでもあるのだが、生徒の意見を纏める立場にある生徒会にとっては負担が大きくなることもよくあった。けれど、どれほど時間が取られようと、柳にとっては苦ではなかった。彼女との時間が増える。願ってもないことだ。部室で後輩たちのためにデータを纏めながら、柳は一度コーヒーを飲んで背を伸ばす。

「もう少しだな」

明日は生徒会で書類を整理する日だ。データ整理は今日中に終わらせてしまいたい。もう引退したものの、やはり残していく後輩のことは気掛かりで、こうしてたまにデータを纏めて渡している。最終下校時刻までにはなんとか終わるだろうと、柳は窓の外に目をやった。

「あれは……生徒会室か?」

部室棟から本校舎は遠くてよくわからないが、真っ暗な校舎の中で、ひとつだけ明かりが灯っている。位置的には生徒会室で間違いない。だが、今日は残るような者もいなかったはずだし、急ぎの仕事もなかった。まさか。不意に頭に浮かんだ考えに、柳は溜息を吐いた。ありえる。があそこにいる確率は、限りなく百パーセントだ。纏めかけのデータを掻き集め、鞄にしまう。部室に鍵をかけ、生徒会室までの道を走る。廊下は走らない。そんなルール、今は知ったことか。

「何をしている、
「あ、柳」

生徒会室には、やはりが一人で座っていた。手元にはホッチキス留めされた書類の山。

「ああ、これか。これは明日、全員でやるはずじゃなかったか?」
「うん。でも私推薦決まってて暇だし、別にやっちゃってもいいかな、と思って」
「こんな暗くなるまで一人で、か?」
「え、今何時」
「午後六時五十分。あと十分で、最終下校時刻だ」
「うっそ」

どうせ、そんなことだろうと思っていた。生徒会のメンバーも柳含め、まだ進路の確定していない者が大半だ。彼らの勉強時間を取るくらいなら、一人で進められるところまで進めてしまおうとでも考えたのだろう。

「相変わらず人がいいな」
「そ、そうかな。要領が悪いだけな気もするけど」
「そうとも言える」

だが、これはチャンスだ。

「途中まで送ろう」
「え?」

は、大きな目を見開いた。こんな夜道を、女子生徒一人で帰らせるわけにはいかない。一般的な倫理観に則った行動だ。不審には思わないだろう。

「こんなに暗い中、一人で帰りたいのか?」
「ううん!ぜひお願いします!」
「変なやつだな」

ただ、一緒に帰ってみたかった。そう言えば、彼女はどういう顔をするだろうか。帰り道、並んで歩きながら考える。この数年で変わったことと言えば、呼び方が呼び捨てになったくらいだ。距離は一向に縮まらない。悪い印象は持たれていないだろうが、かといってが自分のことをどう思っているのかも、柳にはよくわからなかった。自分の感情が入ると、予測が客観的なものではなくなる。彼女のことに関しては、自分の希望的観測が入ってしまうことは明白だった。

「柳はなんでこんな時間まで学校いたの?」
「データ整理をやっていた」

纏め途中のデータが入った鞄の紐を握り締めながら答える。は柳の答えに納得したように頷いていた。これは嘘ではない。彼女のことが頭を過ぎらなければ、データ整理は終わっていただろうが。

の志望大学は理系だったか?」
「うん。柳と違って文系得意じゃないから」
「そういえば理系クラスだったな」
「うん。柳は文系クラスだもんね」

話を逸らすために振った話題で、は顔を曇らせる。何か、気に障るようなことを言っただろうか。

「教科書は全員一緒なのに、文系と理系分ける意味あったのかな」

少しむくれたように口を尖らせる様子に、心配するようなことはなかったか、と安堵した。習う教科はあまり変わらないが、おそらく進み方と力の入れ方が違う。理系は理系科目に、文系は文系科目に力を入れているはずだ。その証拠に、柳たちは理系科目に関して、ほとんど教科書を浚うだけだった。授業のコマ数も、文系科目に比べて少ない。つまり、理系は逆だろう。

「進度や方針が違うんじゃないか。現代文はどこまで進んだ?」
「え?どこまでだっけ。確か……この辺」

が鞄から取り出した教科書を眺める。あまり手のつけた様子のない、綺麗でまっさらな教科書だ。彼女の指し示すページを捲る。次から夏目漱石に入るようだ。そして、柳はちょうどその部分が終わったところだった。

「ああ、やはりな。俺たちはもうここは終わってる。随分綺麗な教科書だな?」
「あはは、まあ、ちょっと国語は苦手で……」
「そうか」
「柳は、本が好きだよね。何が好きなの?」
「何でも読むが、純文学が多い。夏目漱石とかな」
「夏目漱石!私多分苦手だ……明日から現代文でやるんだよね」
「読んでいけば、奥深いものだぞ。言葉の選び方なんかは、特に」

明日から。彼女のクラスと柳のクラスは、現代文の教師が同じはずだ。ならば、きっとあの話もするだろう。柳はふと思い立って足を止めた。彼女が気付いたならそれでもいい。彼女が気付かなくても、それはそれで構わない。これは一種の賭けだった。見上げた空には、月どころかひとつの星もない。

「月が綺麗だな」
「え?」

心底不思議そうな顔で、はこちらを見上げている。

「今日、曇りだよ?月、見えなくない?」
「そうだな」
「柳って、たまに変なこと言うよね」
「そうかもしれないな」

やはり気付かないか。自分が彼女の反応を残念に思っているのか楽しんでいるのか、柳自身にもわからなかった。さて、彼女は明日には気付くだろうか。だが、教師は理系クラスでは教科書に書かれていない話までしないかもしれない。そして、がそれを柳の言葉に結びつけるかどうかもわからない。そもそも、苦手な国語の授業などまともに聞いていないかもしれない。予測がつかないものだな、と柳は一人になった帰り道で黒一色の空を見上げた。
翌日の昼休み、柳は職員室へ向かっていた。図書室で昨日のデータ纏めの続きをしようと思ったのだが、図書室はまだ開いていない。今の図書委員は少しサボり癖があるようだ。自分で開ければいいだけなのだから、別に困りはしないのだが。むしろ人がいない方が捗るというものだ。

「何やってんの蓮二。それ、この前のデータ?」

廊下を歩いている途中、学食へ向かうらしい幸村と鉢合わせた。

「ああ」
「昨日整理するって言ってなかった?」
「いろいろとあってな。途中で切り上げてしまった」

蓮二にしては珍しいね、と彼は言った。本当は家に帰ってから仕上げようと思っていたが、結局手につかなかったのだ。あと少しで終わるのはわかっているというのに。今日は放課後、生徒会の集まりがある。昼休み中には、なんとしても終わらせよう。そう思いながら、幸村と別れて階段を下りる。

「柳」

ひと気のない踊り場で上から降ってきた声に、顔を上げた。いつもより上擦っている。逆光でもわかるくらいに、顔が赤い。なるほど、教師はきちんとあの話をしてくれたらしい。そして、彼女はそれを柳の言葉に結びつけた。本を読んでも数行で挫折してしまうくらいの彼女が、苦手な国語の授業を聞いていた。一体、何と返されるのか。声のトーンと彼女の表情から、どうしても期待はしてしまうが。は少しだけ息を吸い込んで、泣きそうな声で吐き出した。

「私、死んでもいい」
「ふっ」

それは、柳が予測した言葉のどれとも違う。けれど、一番期待した答えだった。

「随分と、情熱的な返事だな」

死んでもいい。ああ、そうかもしれない。唇が緩む。こちらを見つめる彼女の瞳が、今この瞬間だけでなく、自分のものになるのなら。確かに、死んだって構わない。





(2017/9/30)