となり合う幸せと不幸せ




立海のテニス部には3年のマネが二人いる。一人は長い黒髪をいつもポニーテールにして溌剌と笑う、モデル体型の美人。もう一人は黒髪ショートの小さくて、ちょこちょことよく動く、普通のやつ。入部当初、誰もがそうだったように、俺は美人マネの方に憧れた。だけど、三年経った今、俺の目が追うのは、コートの中、幸村の少し後ろを置いて行かれないよう速足でついて行く、小さな背中。


「うん、わかった」

二人は多くの言葉を必要としない。周りの人間が聞いていれば首を傾げたくなるような、そんな会話をする。以前に、よく通じるな、と言ったら、二人には幼馴染だからね、と笑って返された。幸村はいつものあの綺麗な笑みで、彼女は少しの哀しみが混じる複雑な笑顔。それがそのまま二人の関係性を示していて、俺はどうしようもなくやるせない気持ちにさせられる。与えられた雑用をこなしながら、テニスに打ち込む幸村の姿を眺めて、幸せそうにそっと顔を綻ばせる彼女。

「……また見てんのかよ」
「あ?なんか言ったっスか、丸井先輩」
「なんでもねー。練習サボんじゃねぇ赤也。俺と試合しろぃ」
「サボってないっスよ!てか望むところっス」

朝から元気な後輩を捕まえ、コートに降りて行く。U-17の合宿を乗り越え、確実に力がついたことを実感しながら考える。今なら彼女の支えになることができるだろうか。



*****



ー、お前数学のプリントやってんだろぃ。見せてくれぃ」
「ブンちゃん、ちょっとは自分でするとかしよーよ」
「そう言うお前さんじゃって幸村に教えてもらっとるんじゃろ」
「私はちゃんと真面目に教えてもらったんですーもう自分で解けますー」

彼女とは2年連続同じクラスだ。よく動きよく笑う、とても子供っぽくて単純な奴だと思っていた。だからこそ気が合うと思ったし、事実仲は良い。いい友人だった。それが変わってしまったのは、多分去年の冬、幸村が倒れたとき。幸村の病室を追い出された日、夜のコンビニの中から外を歩く彼女を見つけた。

『おい、!』
『ブンちゃん……』
『お前、目ェ腫れて……』

言うが早いか、彼女の目からはぽろぽろと涙が溢れてきた。

『お、おい』
『なんで……なんでせーちゃんなの……?私だったらよかったのに。私だったら……』
『ばかなこと言うんじゃねーよ』
『私だったら、こんな苦しい気持ちになることなんかなかった!』

とても苦しそうに顔を歪めて、まるで自分が幸村と同じ病にかかっているかのように。いや、彼女は幸村がその病に倒れたからこそ、苦しんでいるのだろう。彼女のそれは、大切な幼馴染を心配しているというふうには見えなかった。同じクラスになって仲が良くなってから特に顕著に感じていた違和感が、そこでかちりと音を立てて綺麗にはまった。ずっと見間違いだと思っていた、子供っぽく単純な彼女が時折見せる複雑な表情。幸村の後ろ姿を追う、なにもかもわかっているかのような透明な視線。

『お前……幸村のこと好きなのかよ……』

それらが全て幸村を想ってのことだったのなら、今の彼女のこの取り乱しようも頷ける。はっとしたように顔を上げた彼女の目が揺らぎ、白い頬がさっと朱に染まる。今まで女として意識したことなどなかった彼女は、けれどちゃんとした女の子で、俺の想像が及ばぬほどずっとずっと長い間、たった一人小さな胸の内に大きな想いを秘めていたのだと知った。

『なんでなんだろうね……』
『は?』
『なんでせーちゃんが絶対気付いてくれないこと、ブンちゃんが先に気付いちゃうんだろう』

そう言って泣きながら笑った彼女を見た瞬間に、俺の中で何かが弾けた。目は腫れてるし頬は涙の跡で乾いていたし、決して綺麗でも可愛くもない笑い顔だったのに、抱きしめてやりたくなって、その苦しみから彼女を救いたいと、心から思った。きっとそれは憐情ではなく、恋情、だった。

「ブンちゃんまだ写し終わらないのー?」
「うっせーな。お前の字の解読に時間かかってんの!」
「はーい、プリント没収ー貸さないの刑に処す」
「ばっ、お前マジやめろよ冗談じゃん!」

奪われたプリントをまた奪い返す。ところどころに似ているけれど彼女のものでない少し硬い字が入ったプリント。それに不快な気分にさせられてシャーペンが思うように進まなかったなんて知られたくない。冗談を言って笑い合いながら、またプリントを写す作業に戻る。ときどき彼女の催促を聞き、それをまた茶化して答え、二人で笑う。そうだ。俺の方がずっと、彼女を笑わせることができる。楽しませることができる。そう思うのに、彼女の視線はプリントの字をなぞり、優しく目元を緩ませるのだ。どうして、そんな綺麗な顔を作らせるのは幸村なんだ。どうして、俺に気付いてくれない。(あ、これコイツの気持ちに近いかも)そのとき、俺の机に慌てた女子が駆け寄ってくる。たしか彼女と仲のいい女。名前は覚えていない。

「ちょ、ちょっと、知ってたの!?」
「え、え?な、なにを……ってかちょっと離し」
「幸村君とテニス部のマネのあの子!昨日から付き合ってるんだって!?」
「はあ!?」

驚いた声は俺のもので、彼女は声を上げなかった。静かに微笑んでいる。それは、もうとっくに、知っていて、いつかそのときが来ることを、ずっとずっと準備していた、彼女だからできる微笑みだった。昨日幸村にプリントの解き方を教えてもらって、そこで聞いたのか。それとも帰り道か、朝の通学路か。どこで聞いたにしても、彼女は今と変わらない微笑みを浮かべて、彼に祝福を送ったに違いない。だって、彼女が望むのは、他の何でもなく、幸村の幸せ、なのだから。

「ああなんかショックだわ……幸村君と付き合いたいとか思ってたわけじゃないけど、憧れてたのになー」
「多分学校の女子の大半がそう思ってるんだろうねぇ」
「もーは呑気なんだからー」
「あ、もう授業始まるよ?」
「ほんとだ。じゃあまたあとでね」

ひらひらと手を振って女が自分の席に戻っていくのを確認して、俺は席を立った。彼女の腕を掴んで。前の扉から教師が入ってくるのも構わず、彼女が何か言っているのも構わず、廊下に出る。仁王が少しだけ驚いた顔をして、でもすぐ興味無さ気に机に突っ伏した。

「コイツ、体調悪いみたいなんで、保健室連れていきます」
「は、え!?ブンちゃん!?」
「お、おお。気をつけてな」

教師が言葉を言い終える前に、廊下を走る。行く先は、保健室ではなく屋上。

「ブンちゃん……どうしたの?」
「っ!どうしたのじゃねぇよ!!お前、なんで……」
「え?え!?どうしてブンちゃん泣いてるの!?」

誰より優しくて誰より喜んでいて誰よりも哀しい目の前の彼女を見ていたら、目頭が熱くなり、言葉よりも先に出てきたのは、涙だった。

「なんで自分の、幸せの、こととか……っ、考えねぇんだよ……!わっけわかんねぇ」
「ブンちゃん……?」

差しのべられた彼女の手を、ぎゅっと握った。やわらかい、女の子の手だった。

「俺はっ……が、好きなんだよ……!」
「!」

こんなことを、こんな流れで言うつもりじゃなかった。もっと彼女の話を聞いてあげて、彼女の中でもっと俺の存在を大きなものにして、幸村に及ばなくても、彼女が俺を必要だと思ってくれるようになるまでは、口にするものかと決めていたのに。彼女はまだ幸村のことが好きで、もしかしたらこの先もずっと幸村のことを好きでいるつもりで、でもそれなら彼女はいつ自分の幸せについて考えてくれるのだろう、いつ、俺の存在に気付いてくれるのだろう。そう思ったら、溢れだした想いが止まらなくなった。口に出して改めて思い知らされる。俺は、本当に、彼女のことが好きなのだと。小さな手を、両手で包む。俺では彼女の支えになれないのだろうか。

「なあ、俺じゃ、だめか……?」
「ブンちゃん……」
「あと何年、あいつのこと……あいつらのこと見てくつもりなんだよ」
「っ……」
「もういいだろぃ?これ以上、辛い思いしなくたってよ」
「ブンちゃん、私は……私、でも……」
「“見てるだけで幸せ?”」

彼女の顔がこわばるのがわかった。今にも泣きそうな顔。幸せなら、そんな顔はしない。いい加減に気付いてくれ。(その先に、お前の幸せはねぇよ、きっと)

「俺はお前に幸せになってほしい。できれば、俺の隣で」
「ブン、ちゃん」
「待つから。お前が俺を見てくれるまで、ずっと待つから。だから、考えてくれぃ」

ここには彼女を抱きしめるための腕がある。彼女の涙を受け止めるための胸がある。彼女のもとへ走っていくための足がある。(俺の全てで、お前の幸せを創るから)

彼女の目から一筋の涙が零れて、手の中にある細い指が、力なく俺の手を握った。

(想い想われない者同士、最初は傷の舐め合いでも、いいだろう?)





(2015/5/24)