死に逝く星に願っても




「今夜は流星群が見えるんだって」

幸村は机の真横に立って、こちらを覗き込むようにしながらそう言った。それに、そうなんだ、とありきたりな返事をする。突然振られた話題に、はそれ以外何と答えればよいのかわからなかった。放課後、ほとんど誰も残っていない部室の中で、日誌にペンを走らせる。マネージャーの仕事も、全国大会を終えるまで。そう考えると感慨深い。
中等部の頃には、ただ外から見ているだけだった。三年生のときに、三連覇を確実視されていた彼らが負けた。整った顔立ちの男が揃っているテニス部にはファンが多い。ミーハーな友人に連れられて、全国大会決勝の応援に行った。あの日、フェンスの向こう側で見ているだけの自分の胸が、どうしようもなく軋んだことを、よく覚えている。テニスのことはほとんど知らない。でも、目の前の戦いがどれほど凄いものなのか、それだけは伝わった。胸の奥が熱くなって、心臓が激しく脈打って、ただ見ているだけなのに、夏の日差し以上の熱が肌をじりじりと焼くような感覚。けれど、戦っていない者に悔しがる権利なんてないのだ。あのコートで涙を流していいのは、身を削って戦って、最後まであそこに立っている者たちだけ。だから唇を噛んだ。強く噛み締めて、目頭が熱くなるのを必死で堪えた。コートの中で、幸村は泣くことも俯くこともせず、ただ前を見たまま佇んでいた。その彼が振り返って、一瞬、目が合ったような気がしたが、ギャラリーは多かったから気のせいだったのだろう。有名な彼のことは知っていたけれど、彼は同じクラスになったこともない女のことなんて知らないはずだ。

だから高等部ではマネージャーに志願した。最初は彼らに近付きたいという想いで応募してきていた沢山のマネージャーも、あまりの厳しさに一人二人と辞退していき、最終的に残ったのはこの学年で自分一人だった。それは例年のことなのだと先輩たちは笑った。部員の多い、常勝の看板を背負った強豪校。そのマネージャーが、ミーハーな心で務まるわけがない、と。汗だくになって、日に焼けて、女なんて捨てるくらいぐちゃぐちゃに走り回って。でも、フェンスの向こうよりもずっと、一緒に戦っている実感があった。皆が名前を覚えてくれて、ベンチだけれど、仲間として共に汗と涙を流せるだけの時間を共有している。
一年生、二年生と、立海は全国を二連覇し、ついに今年は三連覇に手をかけようとしている。青学は因縁の越前リョーマがレギュラー入りしていて、今年もシードは端と端。当たるとしたら決勝だ。皆練習にはいつも以上に力が入っていて、それはコートの外から見ていてもわかる。幸村もそうだ。そして、そんな彼らは最近練習が終わると疲れ果てているのかすぐに帰っていく。そういう訳で、日誌をつけて、鍵を閉めるのはマネージャーの仕事だった。いつもはデータを纏めるために遅くまで居残る柳も、今日は早い。そう、だから、何故幸村がこんな時間までここにいるのか、ずっと疑問に思っていた。

「ねぇ、。聞いてる?」
「聞いてる。ところで幸村、帰らなくていいの?」
「聞いてないでしょ。今夜は流星群が見えるって」

幸村はの隣の椅子を引くと、拗ねたような顔をして座った。今夜は流星群が見える。確かに、朝のニュースでそんなことを言っていたし、クラスメイトや柳もそんなことを言っていた気がする。けれど、それが何だと言うのだろうか。

「流星群もいいけど、早く帰って、ご飯食べて休んだ方がいいんじゃないの?今日の練習もハードだったし」
「ああ、もういいや。君相手にこんな言い方した俺が悪かった。流星群見えるらしいから、一緒に帰らない?」
「え?」
「こういうのって、一人で見るより誰かと見る方がいいと思わない?」
「ああ、まあ、そうだね」
「よし、決まり。日誌書き終わったね。帰ろう」

流星群。ガーデニングが趣味なのは知っていたが、幸村がまさか星にまで興味があるとは知らなかった。いつになくしつこく話しかけてきたのはそのためだったのか。いや、でも、それなら先に帰って行った真田や柳たちと一緒に見た方が良くないだろうか。そんなことをぐるぐると考えながら机の上を片付けて、部室の鍵を閉める。誘ってきたくせに、幸村はこちらを一瞥もせず、空を見上げて歩いている。コンパスが違うのだから、少しは遠慮してスピードを緩めてほしい。それにいくら歩道とはいえ、足元を全く見ない彼は危なくて目が離せない。

「待って、ゆきむら」
「あ、ほら」

不意に幸村が立ち止まるから、その背中にぶつかりそうになってしまった。マネージャーになってから鍛えられた瞬発力で、なんとかそれを回避する。幸村は空を指差して笑っていた。どうやら、流れ星が見えたらしい。まだ流星群、というには少ない数だけれど、ひとつふたつと次々に星が流れていく。

、願い事した?」
「え?」
「流れ星に願い事するって、よく言うでしょ」

流れ星に願い事。幸村の口から発せられた言葉に、思わずは彼の顔を凝視してしまった。

「幸村が、まさかそんなロマンチックなこと言うと思わなかった……どうしたの今日。仁王が化けてる?」
「俺にも仁王にも失礼じゃない?」

ぎゅ、と彼の眉間に皺が寄る。美しい顔をしているだけに、不機嫌な笑顔の幸村は嫌な迫力がある。仁王が化けていて、最後にマネージャーの自分をからかっているのではないか。本当はその辺に立海のレギュラーたちが隠れていて、ドッキリ大成功とか書かれた看板を持って現れるのではないか。と、いくつかの可能性を考えてみたけれど、見たところ周りに人影はないし、幸村も仁王の変装ではないようだった。そもそも仁王と幸村は顔立ちが似ていないから、化けようにも簡単にはいかないらしいが。いたずらの可能性がないとして、本当に流れ星に願い事をしたくて、幸村がここにいるのだとしたら、その願い事は決まっている。最後の決戦は目前。彼でもきっと、不安になることくらいあるのだ。

「でもさ、流れ星に願い事って、三回唱えないとダメって言うでしょ。それって、それ自体がもう不可能だよね。だから、その不可能を成し遂げられる力があるなら、どんなことでも叶えられるってことなのかなって、ずっと思ってた」
「ああ、そうかもね」
「幸村は、勝てるよ」

チームの一員として、コートに立てない自分ができること。彼の不安を完全に取り除くことはできないかもしれないけれど、励ますことならできる。

「断定できるの?」
「うん」
「そっか」

幸村は強い。テニスの才能だけでなく、はそう思う。頭脳明晰な参謀の柳ではなく、質実剛健を体現する真田でもなく、一見優しく儚げな印象も受ける幸村が部長としてトップにいるのは、テニスの強さの序列だけではないはずだ。中等部の頃、彼が病に倒れたのは立海の生徒ならほぼ全員知っている。それがテニスを諦めなければならないほどのものだったことは、テニス部以外にはほとんど知られていないだろう。それでもコートに戻ってきた。以前と同じ、いやそれ以上の強さで、あのとき彼はコートに立っていた。テニス部に入部してしばらくして、自分以外のマネージャーがいなくなった頃、先輩マネージャーからその話を聞いた。鳥肌が立った。なんて、強いひとなのだろう。そう思った。そんな強い彼でも不安になることがあるのなら、マネージャーとしてそれを取り除いてあげたかった。

「俄然、勝てる気がしてきたよ」
「幸村でも、弱気になることあるんだ」
「そりゃ、俺も人間だからね」
「神の子なのに?」
「神の子とか呼ばれてても、それが勝ちを保証してくれる訳じゃない」
「そうだね」

神の子。神に愛された才能。けれど彼は、それだけの男じゃない。

「幸村が才能に胡座かいてるだけの人なら、試合を見てるだけの観客があんなに熱くなったりしないもの」
「ああ、そういえば、泣きそうな顔してたよね」

その言葉に、呼吸が止まるかと思った。

「三年前。俺たちが負けた試合、フェンスの向こうで泣きそうな顔してた。唇噛んで、泣くの我慢して、すごく変な顔してたから、よく覚えてる。思わず笑っちゃいそうになったよ」
「失礼じゃない!?」
「たぶん、あのときから」

あのとき。三年前、フェンス越しに目が合ったような気がしたのは、気のせいではなかったのか。あのときのことを、彼も覚えていた。たったそれだけで、胸が締め付けられるほど、嬉しかった。三年間、絶対に表に出さないように、皆と仲間でいるために押し殺し続けた想いが、溢れてしまいそうになる。決して報われることはないと諦めていたけれど。彼の記憶に、そうやって残してもらっているのなら、少しは報われたと思っていいだろうか。幸村はまだ、空を見上げている。

「あ、また流れた」
「幸村、まだ願い事する気なの?」
「うん、まあ、不可能かもしれないけど、一応言っておこうかと思って」

励ましてもなお、立海三連覇が不可能かもしれないと思っているのか。そもそも、自分の言葉はそれほど彼の励ましにはなっていなかったのかもしれない。先程浮上した心は、あっという間に萎んでしまった。そもそもそんなに自信がなさそうにするなんて、幸村らしくもない。そう思っていると、空を見上げていた彼が振り向いた。

「君がすき、って、三回言うくらいなら、流れ星が流れてる間に唱えられそうな気がしない?」

星を見るために、街灯の光があまりないところで立ち止まっていたから、彼の表情はよくわからなかった。叶うかわからない、願い事。今夜は、流星群が見えるんだって。彼の言葉が、全て繋がっていく。

「……それって、願い事じゃなくない?」
「俺の告白に、返す言葉はそれだけかい?」
「だって」

精一杯、普段通りに返した言葉に、彼が子供みたいな拗ねた声を出す。だめだ、もう、泣いてしまう。

「ああもう、唇噛まないでよ。ふふ、変な顔」

たいして見えていないくせに。近付いてきた彼の顔は、やはり美しく笑っていた。彼の向こうで、いくつもの星が命を燃やして光る。叶うはずもないと諦めた願いを、彼らはいくつ叶えたのだろう。





(2018/1/28)