君の涙が甘かったから




目の前の彼女は少し目を潤ませていた。手にはいつものようにスポーツドリンク。泣くときには水分補給をした方がいい。できれば、スポーツドリンクが一番いい。幸村の言いつけをひとつひとつ忠実に守っている彼女に、また決めたはずの心が揺り動かされる。

「幸村なら、きっと大丈夫」

見送るための言葉に、幸村は唇を噛み締めた。



*****



「幸村ぁああぁあぁあ!!!」
「うるさいよ、。病室では静かにしなよ、他の患者さんに迷惑だろう」
「あ、ごめん。っじゃないよ!た、倒れたって、真田が……幸村が……っ!」

いつもコートの中をちょこまかと走り回っている元気だけが取り柄のマネージャーは、病室のドアを破壊しかねない勢いで入ってきた。倒れた時、ちょうど彼女はいなかったっけ。幸村はそう思い出しながら、制服がぼろぼろに気崩れた彼女を見つめた。真田にそのことを聞いて、驚いた勢いのままこの病院まで走って来たんだろうな、と予想する。きっと真田は止める暇もなかっただろう。冷静に考えている間にも、彼女は制服の裾で目元を拭いながら、幸村に近づいてきた。

「なに、泣いてるの?」
「だって倒れて救急車で運ばれたって……!誰だってびっくりするでしょうが!」
「大丈夫だよ。今医者がちゃんと調べてるし」
「それ全然大丈夫じゃないから!……ほんとにびっくり、したんだから……」
「わかったよ、ごめん。そんなに泣くなって」

その日は少し目を赤くするくらいで済んでいたのだが。幸村の検査結果が出た日、テニスが出来なくなるかもしれないと聞いて、彼女は一晩泣き明かし、脱水症状で同じ病院に担ぎ込まれてきた。そのときには、流石の幸村も驚いた。知り合いが救急車で病院に運ばれるってほんとに誰でもびっくりするんだな。自分の絶望的な病状も忘れて、呑気にそんなことを思ってしまうほど。他人の心配なんかしていられるわけがないという心理状態を吹っ飛ばして、心配かけてくれた彼女が翌日病室に顔を出した時には、瞼の腫れた不細工なその顔に、笑顔で頭突きを食らわせてやった。

「ほんとは俺をびっくりさせてくれるよね」
「……痛い。マジ痛い、有り得ない、頭割れるんですけど……」
「いいかい、今度俺に同じ類の心配かけたらそんな程度の頭突きじゃ済まないよ?」
「いや、そんな程度って。私あまりの痛みに言葉を失ったからね?」
「今度から泣くときは水分補給を怠らないこと。できればスポーツドリンクを用意すること」
「うん、幸村、言葉のキャッチボールから始めようか」

そうやって幸村の言うことにいちいち突っかかってくるわりにはそれらを全て覚えていて、彼女はその言葉をひとつひとつ大切に胸の中にしまっているのだ。全国大会決勝の最終試合の後に、泣きじゃくる彼女の手の中には幸村用のドリンクがあった。わからないでもない。最終決戦だから幸村のドリンクしか用意されてなかったんだろう。けれど、それを試合を終えた相手に渡す前に飲み干してしまうとはどういうことだろうか、全く。三連覇を成し遂げられなかった悔しさよりも、幸村の顔を見て、自分の手の中を見て、顔を青褪めさせて自販機に直行した彼女を見ていたら、笑いの方が先に出てしまった。その後、ドリンクをおずおず差し出す彼女の頭にデコピンをお見舞いしてやった。

「ほんとは有り得ないよね。なんで俺の分のドリンク飲んじゃうかな」
「痛い……赤也!おまっ、笑ってるけどマジ痛いんだからね!真田の拳骨も目じゃない痛さなんだよ!見てほら、もう腫れてきたでしょ!?だから笑うなっての!」
「人の話を聞きなよ」
「いたたたた!アイアンクローやめて!!ごめんなさいごめんなさい!!」
「まったく……しかたないやつだね、は」

皆が消えた後でぷくっと腫れた額にそっと唇を寄せてやると、彼女は目を見開いて怯えた顔をした。失礼な女だ。男も女も通り越した関係を築いていたようで、その実、彼女に心のどこかで惹かれていたのかもしれない。中学を卒業する頃、二人がどういう経緯で付き合うことになったかはあえて言うまでもないけれど。なんとなく両想いだというのは雰囲気でお互いにわかっていたから、告白なんてものはなかったように思う。世間一般の恋人たちがどのような付き合い方をしているのかは知らないが、一緒に帰ったり休日に出かけたり手を繋いだり。どうしようもない彼女だから、穏やかな時間を過ごしたとは言い難いのだけれど、それでも楽しいときを一緒に過ごすうちに、中学の頃から降り積もっていった小さな愛おしさは、自分でも驚くほど大きなものになっていった。

「幸村は進路どうするの?大学?専門?それともプロ目指すとか?」
は?」
「今の成績でいけるとこ。文学部のあるとこね」
「俺は絵がやりたい、かな」
「あ、そうだね。幸村、絵上手いもんね。てことはやっぱり外部かぁ」
「あんまり驚かないんだね」
「?……だってテニスやめるわけじゃないでしょ?」
「そうだけどさ。蓮二に言ったときは『プロを目指さないのか?』って言われたよ」

もちろん将来のビジョンとしてプロの二文字はある。すぐにそれを目指す気になれなかったのは、テニスに打ち込んでばかりで普通の学生生活というものを十分味わえなかった、というのも理由の一つだが。もう一つの理由は、目の前で笑う彼女だと言っても過言じゃない。きっと彼女はわかっていないと思うけれど。

「そうだねー。なんですぐ目指さないのかは気になるところだけど」
「なんでだと思う?」
「モラトリアム?」
「それもある」
「んー……幸村の考えてること、私が当てられた試しがある?」
「それもそうだね」

核心を突かずに曖昧に終わった会話は、受験の日々の中に消えていった。彼女の志望大学と幸村の目指す大学はそれほど離れてはいなかった。電車で二、三十分の距離。多分そこなら、大学に進んだって、それほど今と変わらない関係を続けていけるだろう。けれど、幸村には黙っていることがあった。

「精市、すまない」
「蓮二、どうしたんだい?そんなに慌てて」
「すまない、もうとっくに話しているものだろうと思っていたんだが……に、海外留学の話が来ていることは黙っていたんだな」
「あー、言っちゃったんだ?」
「ああ」
は、なんて?」
「驚いた顔をした後すぐに怒りの表情になって、走って行ってしまった。てっきり、精市のところへ向かったのかと」

柳は肩で息をしていた。おそらく、彼女がこちらへ向かったものだと思って、急いでこの件を知らせようと走ってくれたのだろう。日頃過酷な運動をしている立海テニス部員が脚力で負けることは有り得ないけれど、彼女はびっくりするほどすばしっこい。特に人混みの中を駆け抜けさせたら、立海のテニス部でも勝てる者はいないだろう。昼休みの廊下なんて、彼女の独壇場だ。だから幸村は柳に気にするな、と告げて、彼女のいるであろう屋上へと向かった。屋上の扉を開けると同時に、昼休み終了のチャイムが鳴る。幸村の予想通り、屋上庭園の真ん中にある東屋に、ぽつんと一人だけ女子生徒が座っていた。

「寒くない?」
「……さむくない」

コートもマフラーもしていない、普通のブレザーにスカートでは絶対に寒いだろうに、彼女は唇を尖らせて幸村から顔を背ける。その体は、ガタガタと震えていた。

「絶対寒いだろ?なんでせめてあったかい飲み物でも買ってから来ないのさ」
「……だって、幸村が」
「俺が?」

彼女の手の中に握られているのは、スポーツドリンクのペットボトルだった。この時期にはいつもあったかいミルクティーばかり飲んでいるのに。だから思い当たった。彼女はまた、泣いていたのか。

「なんで泣いてるの」
「だって!幸村が!」
「ふふっ、さっきからそればっかり」

泣いている彼女を見ると笑ってしまう。これは長年の付き合いで得た条件反射のようなものだろうか。最初の言葉の続きは、だって幸村が言ったから。次は、だって幸村が言わなかったから。言葉にされなくたってわかる。いとしい彼女のことなら何だって。

「ねぇ、。嫌かい?俺が遠くに行くのは」
「ねぇ、何で今名前で呼ぶの!?怒ればいいのか悲しめばいいのか嬉しがればいいのか恥ずかしがればいいのかわかんなくなっちゃうでしょ!?」
「なんとなく苗字呼びのままここまで来ちゃったからさ。呼び方変える良いタイミングかなって」
「ここより悪いタイミングもなかなかないわ!!」

感情がいろんなところを行ったり来たりして、眉を下げたり上げたり忙しい彼女の隣に腰掛ける。そして、その肩を抱き寄せた。払い除けられるかと思ったけれど、彼女は意外とおとなしく腕の中に収まっている。

「……遠くに行くのが嫌なのは、幸村でしょ」
「あれ、バレてた?」
「だから怒ってたんだよ」
「なんで?」

彼女は睨み付けるように幸村を見上げて、唇を尖らせる。いかにも不服だ、と言いたげな表情。遠くに行くのが嫌なのは、幸村の方だ。言い当てられて、少しだけ驚いた。怒っていた理由は、想像がつくけれど。

「だってそれって、私のこと信用してないってことでしょ?私が、幸村以外の人を好きになるわけないのに」

想像した通りの理由に、微笑んで返す。怒った表情をしているくせに、言うことはとんでもなく可愛い。こんな彼女を残して遠くに行って、その間に変な虫が寄って来ないとも限らないではないか。友人関係だった頃には、そんなこと、ちっとも心配しなかったのに。むしろ彼女を好きになる男が現れるのか心配していたくらいだったのに。今ではそんな男が自分以外に現れなくてよかったと安堵して、いちいちくだらない心配をしてしまうほど、彼女は大きな存在になっている。

「信用してるつもりだけど、心配は心配だからね。それに、と大学生するのも楽しそうだったから、悪くないかなって思ってたのは本当」
「悪くないのと良いのは全然別だよ」

彼女の言うことは尤もだ。だから幸村も口を噤んだ。彼女は大切だ。他とは比べようもないくらい。けれど。

「本当は、海外留学、したいんでしょ?」
「……なんでわかるの?」
「わかるよ。幸村のことなら少しくらい」

テニスも、幸村の人生の根幹にある。彼女とテニスを天秤にかけることはできない。どちらも大事だ。それでもどちらかを選択しなければならないなら、多分自分はテニスを選ぶ。薄情だ、と思った。比べて選ぶことではないとも思った。それでも、プロを目指すなら今本気にならなければならない。留学の話が来たのは、むしろ僥倖だった。それを受けると決めてやっと、心の迷いは消えたのだ。ただ、彼女に言い出すタイミングは掴めないままだった。相談もなしに、怒るかもしれない、悲しむかもしれない、寂しがるかもしれない。そう思うと、なかなか口に出せなかった。彼女は怒っているような、悲しんでいるような、寂しがっているような目をしていた。けれど、その口元には、無理やり笑みが形作られる。泣きそうなのに、笑っている。その表情に、決めたはずの心が揺れる。テニスが幸村にとってどれだけ大切かをわかっているから、彼女は留学することに対して何も言わない。最初から、わかっていた。

「幸村なら、きっと大丈夫」
「なんでわかるの?」
「幸村のことだから」

遠くに行きたくない。彼女を離したくない。幸村は唇を噛み締めて、肩を抱いた手に力を込める。いっそ連れて行ってしまいたい。どうしよう。全然、大丈夫じゃないかもしれない。泣きそうだけれど、泣きたくはない。幸村は彼女と同じように、無理やり笑みを浮かべる。彼女の方は、もうとっくに涙を零していた。我儘を言われたって困るのに、物分かりが良すぎるのも嫌だ、なんて。そっちの方がよっぽど我儘だ。自分の為に泣いてくれる彼女に、つい、嬉しいという感情が溢れてしまう。

「ふふっ、なんでまた泣いてるの?」
「……幸村、わかってるくせに聞いてるでしょ?ほんといい性格してるよね」
「君の彼氏だからね」

スポーツドリンクのペットボトルが、ぎゅっと握り締められる。そういうときに握り締めるのは、彼氏の手であるべきではなかろうか。肩を抱いてない方の手はガラ空きなのに。仕方がないので空いた手で彼女の顎を持ち上げて、その目尻に口付ける。零れる滴は、まるでスポーツドリンクみたいに、しょっぱくて甘い。

「すきだからだよ、精市が」

本当に、彼女はいつも驚かせてくれる。どうしても笑ってしまうことを止められない幸村の脇腹に、彼女の拳が入るまで、そう時間はかからなかった。





(2019/1/19)