踏み潰した白い花




沈丁花が咲いている。朝露に濡れるその花の香りが、嫌いだった。

中等部の、あの冬の出来事は生涯忘れられないだろう。動かなくなる身体、息が苦しい、感覚がどんどん鈍くなっていく。倒れ込んだその場所は冷たく固いコンクリートで覆われていた。

「テニスは諦めてください」

そう、医者が言った瞬間の衝撃。諦める。テニスを。そんな選択肢など、今まで考えもしなかった。テニスは楽しかった。最強と呼ばれ、神の子の名を欲しいままにしても、共に戦う仲間たちと互いを高め合っていける。骨のある対戦相手に恵まれなくとも、部内には強者たちがひしめいていた。立海を三連覇へ。その夢を語り合った彼らとの思い出が急に遠くなる。さっきまで、倒れるその直前まで、確かにそう言い合っていたはずなのに。もうテニスは出来ない。医者は手術を受けて完治しても、日常生活に戻れるかどうかの保証すらないという。だが、テニスが出来ないのなら、そんな手術、受けたってどうしようもないではないか。ただの学生に戻って、普通に学生生活を送って、けれどその横では彼らがいつものようにテニスを続けていて。そんな未来を想像して絶望しては夢に見る。最悪の日々だった。徐々に起き上がることさえ難しくなっていき、細くなっていく手足を見てはどうしようもなく恐ろしくなる。入院先の病院の中庭には沈丁花の花が咲いていて、その香りすらも気に障った。
きっと、あのときの真田との約束がなければ立ち直れなかった。この足で立ち上がることは二度と出来なかっただろう。
成功率五十パーセントと言われた手術を受け、地獄のようなリハビリとトレーニングをこなし、無理だと言われたテニスコートへと戻ってきた。そのときにはもう季節は夏へと移り変わっていて、緑化委員が世話をしているらしい花壇には向日葵が今を盛りと咲き誇っていた。真っ直ぐに太陽に向いて伸びるその姿は眩しかった。けれどある日、向日葵が何本か、心無い誰かに薙ぎ倒されてしまったらしい。花壇の片隅で折られた花を、緑化委員らしい女子生徒が世話している。折られた向日葵があまりに可哀想で、思わず声をかけた。

「それ、酷いね」
「え、ああ、うん。花は何も悪くないのに……」
「……それ、捨てるなら手伝うよ」
「え?ううん!大丈夫!向日葵ってね、すっごく生命力が強いの。ほら、ここ茎が曲がってるけど、繋がってるでしょ?支えをしてあげたら、また太陽に向かって伸びるよ。この子達は、まだ死んでない」

そう言って笑った彼女の言う通り、翌日には向日葵は太陽に向かって伸び始めていた。まだ死んでない。薙ぎ倒されても、折られても、途中で曲がっても、繋がっている限り死んでない。あの夏は苦しかった。リハビリから復帰するまでにも時間を要した上、全国大会の決勝では青学の一年生に敗北を喫した。それでも。いつだって、あの向日葵の姿に励まされた。花は元々好きだったけれど、それがあってますます園芸にのめり込んだ。立海の屋上には庭園があったから、部活を引退してからはテニス部の練習に顔を出す傍ら、その一角を借りてガーデニングにも精を出した。
あれは、中等部卒業を間近に控えた冬だった。ちょうど一年前、病院でただただ絶望感に苛まれていた時期。テニスコートの傍の花壇には、沈丁花が咲いていた。

「これ……」

香りが鼻腔を満たす。あのときの記憶が蘇る。この花は嫌いだ。もがいてももがいても逃れられなかったあの絶望を、思い出してしまう。ぐしゃり。花を握りしめた感覚で、我に返った。白い小さな花たちが、無残に潰され落ちている。手に移った強い花の香りに、自分がそれを握り潰したのだと理解した。あの向日葵を荒らした者のことを責められない。花は何も悪くはないのに。誰にも見られていないことを確認して、幸村は足早にその場を去った。花もガーデニングも好きだけれど、その罪悪感もあって、沈丁花の香りは余計に苦手なものになってしまった。

高等部に進んでも、校舎の屋上には庭園があり、その花壇を借りることが出来た。テニスに本気で打ち込み始めても、昼休みなどに時間を見つけては足を運んだ。季節ごとに咲く花の種類を考えながら、自らの庭を作るのは楽しかった。ただ、隣の花壇を借りている生徒が沈丁花を育てていなければ、もっと良かったのだが。
どうやら隣の花壇を借りているのは園芸部の女子生徒らしく、他にも色とりどりの花を育てていた。園芸部の部員はほとんど庭園の花壇を借りている。朝や放課後が活動時間なのだろう。顔を合わせることはあまりなかった。沈丁花の咲く季節は冬から春だ。特に遮るもののない屋上の寒さも厳しい。冬に咲く花もあるけれど、その季節には出来るだけ庭園に近寄らなければいい。あの冬の、地面に落ちた沈丁花の小さな花を思い出して、幸村は顔を顰めた。
そうして、特に隣の花壇を借りている生徒と顔を合わせることもなく、咲いた沈丁花をほとんど見ることもなく、二年が過ぎた。最上学年となった夏。屋上庭園で枯れた葉を摘みながら、幸村は来たる全国大会へと想いを馳せていた。
組み合わせの抽選では、互いに勝ち進めば決勝で青学と当たることになっていた。あの、三年前の再現。この春から越前リョーマも加わり、あのときのレギュラーメンバーがほぼ揃っている。因縁の決戦が見られるかもしれない、と周囲は勝手に盛り上がっていた。知らず、拳を握りしめる。三連覇の誓いを果たせなかった。勝利のためと言って大事な友に真っ向勝負を捨てさせたくせ、自らは一年生相手に敗れた。その悔しさを晴らせるかもしれない。けれど。また、三年前と同じ結果になってしまったら。

「あ……幸村くん」
「え?あ、あのときの……」

屋上の扉が開く音に顔を向けると、そこには一人の女子生徒が立っていた。いつか、向日葵の世話をしていた彼女だ。

「向日葵、君が言った通り、死んでなかったね」
「あ、覚えて、たんだ」

マンモス校である立海では、近くのクラスにならない限りはほとんど顔も見ることがない。テニス部のレギュラーは有名らしく、クラスが違っていても名前を覚えてくれている生徒が大半だという。彼女もそうなのだろう。あれ以来見かけることがなかったから、近くのクラスではないらしい。夏休みに入ってしまっているが、花の世話に休みはない。特にこの暑い季節だ。水をやらなければ花は枯れてしまう。彼女はジョウロに水を入れると、幸村の隣の花壇へとやって来た。

「ここ、君の花壇だったんだ」
「うん。幸村くんの花壇も、綺麗だね」
「ありがとう。ねぇ、その……沈丁花はなんで植えてるの?」

まだ沈丁花の季節ではないけれど、気になっていた。彼女の花壇には春から夏にかけて花を咲かせるものが多く植えられている。今も花壇は色鮮やかだ。なのに何故、それだけが季節の違う花なのか。彼女は不思議そうな顔で首を傾げる。嫌いな花だと、顔に出てしまっただろうか。幸村は慌てて言葉を重ねた。

「中等部の頃、テニスコートの近くにも植えてあった花だから、気になってさ」
「ああ、あの沈丁花、私が植えたの」
「え、そうなの?」
「うん。立海のテニス部って強いんでしょう?」

その問いが、沈丁花とどう繋がるのかわからなかったけれど、因縁の決戦が頭を掠めて、幸村は返答に詰まった。

「幸村くん?」
「あ、いや。この全国で、青学とまた決勝で当たるかもしれなくてね。立海のテニス部は確かに強いけど、彼らを破らなければ王者の復権は……」

必ず勝つ。そう思っている。仲間たちは常勝を掲げる幸村にずっとついてきてくれた。だからこそ、それに報いるためにも、青学にも誰にも、負ける訳にはいかないのだ。そう、思っているのに。あの敗北した夏が頭を過る。彼女は何か考え込むように黙っていたが、おもむろにハサミを手に取ると、沈丁花の枝を切り取った。それを、幸村の方へと差し出してくる。

「俺、沈丁花は」
「あのね、沈丁花の花言葉は『栄光と不滅』なの」
「え?」
「立海のテニス部が王者って呼ばれてるの、知ってたから。沈丁花の花言葉がぴったりだと思ったの。幸村くんたちなら大丈夫だよ。だってあんなに練習して……あ、えっと、とにかく、私は立海強いと思う!」

真剣な表情でそう話す彼女に、少し驚いた。向日葵の倒れた茎を支えながら、死んでないと笑った彼女を思い出す。栄光と不滅。有名な花言葉は知っている方だったけれど、苦手な花のものまでは覚えていなかった。何も知らずに殺してしまったあの花には、そんな想いが込められていたのか。

「だからこれ、幸村くんにもあげる。挿し木で育つから、どこかに植えてあげて」
「ああ、うん。ありがとう」

幸村の手にその枝を渡して微笑むと、彼女はジョウロを片付けて去って行った。花壇の片隅の空いたスペースに、貰った枝を挿す。あの香りが嫌いだった。絶望感に打ちひしがれた日々を思い出させるようで。でも今は。今、沈丁花と共に頭に浮かぶのは、栄光と不滅という花言葉、彼女の微笑んだ顔、そしてひと握りの罪悪感だった。
全国が終わり、因縁の決戦ではついに青学を打ち破った。王者立海の全国制覇。それは、二学期の全校集会で早速校長の口から伝えられた。部の代表として壇上に上がる。そのときに、真田のクラスの列に彼女を見つけた。皆が促されて拍手をする中、一生懸命に手を叩いている。一瞬目が合った気がして、すぐに視線を他に移した。彼女と目が合った瞬間、何故か心臓が大きく跳ねた。まるでコートを走り回った後のように、鼓動が煩い。自分のクラスの列へと戻って、校長の長い話を聞く間も、彼女の姿を探してしまう自分に気付いて、幸村は溜息を吐いた。思っていたよりも、自分は単純な人間らしい。テニス一筋でそんなことを考える暇などなかったけれど、きっとこれが、恋というものなのだろう。
それから、何かと理由をつけては真田のクラスへ足を運んだ。部活の引き継ぎについて話したり、教科書を忘れたと言って借りに行ったり。真面目で朴訥。こういうことには疎い男だ。案の定、訪問頻度が上がったところで真田が不審がる様子もなかった。真田と話している途中、彼女がクラスメイトと談笑しているのを垣間見る。話しかけるタイミングはないだろうか。いつもそう考えているけれど、なかなか上手くはいかない。昼休みにはほとんど屋上にも行っていないようだから、朝や放課後に屋上に行けば会えるのかもしれない。だが、引退したとはいえテニスをやめる訳ではないのだから、練習は欠かせなかった。あの沈丁花のお礼すらまだきちんと伝えられていない。だからせめて、何かを返したかった。
家に帰ると、母が庭の手入れをしている。彼女も花が好きなのだ。そして、新しく植えるために買ってきた花の中にそれを見つけた。

「母さん、この花、少し貰ってもいいかな」

赤いアネモネ。ひとつだけ貰ったその花を、花壇に植える。彼女は気付くだろうか。この花に込められた意味に。

「あれ?幸村くん、朝にいるの珍しいね。おはよう。それ、新しく植えたの?」
「ああ、おはよう。アネモネをちょっとね」
「アネモネ……そうなんだ。赤いやつ、だね」
「うん。綺麗だろうと思って」

貰った苗を昼休みまで放っておく訳にもいかない。朝のうちに植えに来たおかげで彼女とまた会えた。やはり、朝の時間帯に来ているのだ。他にも何人か園芸部の生徒たちが花の世話をしている。本当は、彼女に渡すために育てているのだと伝えられたらいいのだけれど。本人を目の前にすると、言いたかった言葉が何ひとつ口に出せない。赤のアネモネと聞いて、彼女は僅かに視線を泳がせ、そして少し表情を曇らせた。

「どうしたの、さん。体調悪い?」
「え?」
「なんか、顔色が悪い気がして」
「ううん!大丈夫。私花の世話するから、またね」
「あ、うん。また」

恋というのは、こういうものなのだろうか。彼女と話せるだけで嬉しくて、目が合うだけで心臓が大きく脈を打つ。そのくせ話したい言葉は出てこなくて、もっと傍にいたいという想いだけが先走る。結果、大した用事もないのに、真田のクラスへと足が向く。彼女と話せるかどうかもわからないというのに。

「幸村?聞いてるのか?何を見ている?」
「え、何でもないよ。ところで真田、明後日練習試合をするって聞いたかい?」
「ああ、氷帝とらしいな」

真田がこういうことに気付くはずがないとタカを括っていたが、彼は変なところで鋭いらしい。話を逸らしてホッとしていたのも束の間、帰り際、真田のクラスの女子生徒に呼び止められた。残念ながら、ではない。その女子生徒に限らず、年が明けてからは特にそういう呼び出しが多くなった。

「最近、告白してきてくれる女の子が増えた気がする」

参謀と呼ばれる友に相談すると、彼は幸村の方へと顔を向ける。その細い目からは、何を考えているのか読み取ることは出来ない。

「まあ、卒業も近いからな。皆感傷的になっているんだろう。中等部高等部はそのまま進学する者も多かったが、大学部はそうでもない。卒業前に行動を起こさなければ後悔する。そう考えているんじゃないか」
「そうか……そうかもしれないな」

卒業前に行動を起こさなければ、後悔する。それは女子生徒たちに限った話ではない。は、県外の大学へ進学するのだと漏れ聞こえた会話の中で言っていた。今動かなければ、卒業後はその姿を見ることさえ難しくなる。そのことに気付いたからと言って、すぐに行動に移せるのならこんなに苦労していないのだけれど。そう言えば、来週はバレンタインデーだ。彼女は誰かにチョコレートを渡すのだろうか。
翌週、再び足は真田のクラスへと向かう。その途中、よく見知った姿が前を歩いているのに気付いた。

「あれ、蓮二。真田に用かい?」
「ああ。精市もか?」
「ああ、うん。ちょっとね」

彼は幸村のクラスよりも真田のクラスから遠い。そのせいか、そんなに頻繁に真田に会いに来ている様子はなかった。データを纏めればまず幸村のクラスに集まるのが通例だ。以前はそうだった。けれど、最近は。幸村が己のクラスに留まっていることが、あまりない。もしかしたら柳はそれをわかっていて、真田のクラスに向かっているのかもしれない。そう考えると、その真意にまで彼が気付いているのではないかと不安になった。
しかし、真田のクラスまで行ってみると、別段柳はそのことについて触れはしない。はいつも通り、友人たちと歓談しているように見えたが、いつもより落ち着きを失くしているようだ。もしかして、誰かにチョコレートを渡すつもりなのだろうか。登校してから今までの時間でも幾人かの女子生徒たちからそれを渡されたけれど、例年から言えば昼休みや放課後が一番多い。彼女も、誰かに。そう思うと、真田の話も柳の声も、何も耳に入らなかった。とんとん、と柳が真田の机で書類を揃える音で我に返る。

「精市、弦一郎、昼休みは屋上に行かないか」
「ああ、いいけど、寒くない?」
「俺は構わないぞ」
「こう寒ければ人も少ないだろう。この前の練習試合のデータについて、いろいろと話したいことがあってな」

こういう提案を、彼がするのは珍しい。大抵の話は部室や教室で聞いていたし、周りにいるのは同じ学校の生徒だ。データの話を誰かに聞かれたところで大して困ることはない。むしろ机や椅子がある場所の方が好ましいはずだ。なのに何故。そう思わないこともなかったけれど、それよりもが誰かにチョコレートを渡すのかどうか、そればかりが気になって、深く考えることをしなかった。本当は昼休みも、彼女の様子を伺いに行きたいくらいだ。彼女の交友関係もよく知らない、彼女自身のことも、ほとんど知らない。会話を交わしたのもたった三度。ただ、見つめるだけの恋。クラスも同じになったことはない。自分よりも彼女に近い男はきっと、幾らでもいる。考えれば考えるだけ、気持ちは落ち込んでいった。
四限目の終了を告げるチャイムが鳴って、屋上へと向かおうと教室を出る。移動教室だったから、一度教室へ戻るよりもそのまま屋上へ行った方が早い。わかっていたが、足は真田のクラスへと向かっていた。彼女が教室にいることを確認して落ち着きたかった。真田のクラスは少し早めに授業が終わったようで、既に教室に彼の姿はない。弁当を広げている生徒の中にはもう食べ終わっている者もいた。学食で済ませる者もいるけれど、彼女のいるグループはいつも教室で過ごしている。そのいつものグループの中に、の姿だけがなかった。どくん。心臓が跳ねる。指の先が、スゥッと冷たくなる。もしかしたら、トイレに行っているのかもしれない。何か他の用事かもしれない。花の世話をしに行っているのかもしれない。けれど、もしも、誰かにチョコレートを渡しに行っているのだとしたら。頭に浮かぶ嫌な予感を振り払って、屋上へと急ぐ。花の世話をしに、屋上庭園へ行っている可能性もある。
階段へ差し掛かったとき、踊り場から声が聞こえて立ち止まる。予感は最悪の形で現実になってしまった。の声と、柳の声。何を話しているのかよく聞こえないが、彼女がチョコレートらしき箱を差し出しているのは見えた。二人の接点はよくわからないけれど、おそらく同じクラスにでもなったことがあるのだろう。話している様子からは、それなりに親しいことが見てとれた。これ以上、二人の姿を見ていたくないのに。足が凍りついたように、それ以上先にも進めず、後ろにも戻れない。が悲しむような返答はして欲しくない。だが、二人が上手くいくことも望んでやれない。柳が何と答えても、彼を恨んでしまいそうになる。彼の手は、チョコレートの箱を彼女の方へと押し返した。

「悪いが、それには応えられない」

そう聞こえて、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。

「自分の想いは自分で伝えるべきだろう。花なんかに託さずに、な。そう思わないか、精市」

柳がこちらを見つめてそう言った。彼女が、弾かれたように振り向く。一体いつから、ここにいることに気付いていたのか。いや、それより。一体いつから、幸村の想いに気付いていたのか。その口ぶりからして、幸村が屋上庭園に植えたアネモネの意味にまで気付いている。やはり参謀は恐ろしい。しかも、今、失恋したばかりの彼女に想いを告げろと、彼はそう言っているのだ。二人取り残された階段で、戸惑う彼女の方へと、足を進める。

「……蓮二のことが、好きなのかい?」
「え」
「ああ、いや。今はそれでも構わない」

分かりきっていることを、改めて知ってどうする。の想いがどうであっても、己の気持ちは変わらないのだ。彼女が恋敗れたのなら、これから、新しい恋を始めればいい。今は柳を想っていてもいい。

「でもごめん。それは諦めてほしい」

彼女の悲しむ時間が、少しでも短くなるように。必ず、振り向かせてみせるから。

「俺じゃ、ダメかな?」

沈丁花はそろそろ咲いているだろうか。小さな花を握り潰した、あのときとはもう違う。彼女の胸に咲いた柳への想いは、優しくやさしく摘み取ってあげよう。彼女の悲しみにつけ込む、ひと握りの罪悪感に見ないフリをして、彼女の手に触れた。アネモネの花が咲くのは、もう少し先だ。





(2018/2/14)