ワールド・プリズム




「済まない、。しばらく図書委員の当番のはずだな?その間、奥の書庫を貸してくれないか」

同じクラスの柳蓮二に話しかけられたのは、昼休みの当番に向かう途中のことだった。いいけど、と答えると、柳はホッとしたみたいな顔でスマホを取り出す。誰かに連絡を入れているようだ。校内では使用禁止のはずなのに、案外彼は規則を重んじてはいない。同じ部活の真田に見つかったら、怒られるんじゃないかなぁ、なんて。そんなことを思っているうちに、図書室に到着する。その扉の前には、一人の男の子が佇んでいた。柳の隣に並んでいるだけで、強い視線が突き刺さる。

「赤也、早いな」
「……時間ないって言ったの、柳先輩じゃないっすか」
「彼女に礼を言っておけよ」

赤也、と呼ばれた男の子が、こちらを見据えたまま軽く頭を下げる。柳先輩、と呼んでいるからには、彼は後輩なのだろう。

「アンタが柳先輩のクラスメイトの図書委員っすか?……あざっす」
「それが礼を言う態度か」
「ええと、それで結局、なんで書庫を使うの?」
「柳先輩言ってないんすか」
「そう易々と我が部の恥を晒せるか」

そうか、彼もテニス部なのか。同じ学年のテニス部の面子は、なんというか、濃い。目立つ。幸村も真田も柳生も仁王も丸井もジャッカルも。柳も目立っているけれど、本好きという共通項もあって、それほど苦手には感じなかった。同じクラスになったのは初めてだけれど、図書室では何度も顔を合わせたことがある。でも、と柳の隣の彼を見つめる。彼を見たのは、初めてだ。図書室には、あまり縁のない人間なのだろうか。視線に気付いたのか、彼がギュッと眉間に力を入れた。それで慌てて視線を逸らす。目力が強い。濃い面子と渡り合っているだけあって、彼も充分に近寄り難かった。

「書庫を借りるのは、コイツの勉強の為だ」

柳がこちらを睨む彼の頭を軽く叩きながら答える。

「勉強の?」
「ああ。コイツの成績が悪すぎてな。次のテストが悪いと試合の日に補習だと教師に言われている」
「へぇ……ってことは、君も試合に出るんだ」
「悪いっすか?」
「そ、そうじゃなくて……強いんだね」

また柳に頭を叩かれていたけれど、やっぱり、なんか怖い。この臆病な性格が、いちいち癪に障るのかもしれない。彼らを書庫へ案内して、早々にそこを立ち去る。図書室のカウンターの中で、やっと大きく息を吐いた。多分、苦手には違いないのに。彼の生意気そうな、強い瞳を思い返す。まるで、野生の獣のような、近付くものを全て切り裂いてしまいそうな眼だった。

「先輩」

彼にそうやって話しかけられたのは、書庫での勉強が始まって四日目のことだった。その日は珍しく柳がいなくて、彼が一人、図書室にやって来た。そういえば、生徒会の集まりがある日だったっけ。柳がそんなことを言っていた気がする。なんだか少し躊躇うように、彼は口を開いた。

「柳先輩、生徒会の集まりで、来れないらしいんすけど」
「あ、そうなんだ。柳抜きでも、別に書庫使ってくれていいけど」

また、ギュッと彼の眉間に皺が寄る。何か答えを間違えただろうか。図書室を見渡しても、助け舟を出してくれる柳はいない。彼は不機嫌そうな顔のまま一度唇を引き結んで、ゆっくりとそれを解いた。

「だから、その……先輩に、勉強教えて、ほしいんですけど」
「え?私?」
「柳先輩が、アンタは頭良いし、教えるのも上手いって」

なんということを言ってくれるのだ。その前にただの本好きで、臆病で人見知りだという注意事項も入れて欲しい。知り合って数日のよく知らない後輩に勉強を教える、なんて、難易度が高すぎる。けれど彼とて不本意な相手に教えを請うているのだ。それは表情を見ればわかる。

「ちなみに……今日は何をする予定だったの?」
「英語」
「そっか。教材ある?範囲は?」
「ここからここっす」

広げられた、少しよれた教科書に頷く。教えられるかどうかはわからないけれど、覚えている範囲だ。他に誰もいないのに潜められた声は、図書室では静かに、という貼り紙をちゃんと意識しているのだろう。ちょっと怖いが、悪い子ではなさそうだ。

「今日は誰もいないし、勉強、ここでもいいかな?一応ここに座ってないといけないの」

カウンターの内側を指し示すと、彼は険しい表情を少し緩めて、素直に頷いた。隣にパイプ椅子を用意すると、そこに腰掛ける。広げた教科書を前に、どう教えたものか、と考えた。

「……今回の問題作る先生って聞いてる?」
「え?確か……学年主任の」
「あー、あの先生か。それなら、こことここ、和訳してみて。わからなかったら教えるから」

文章を指でなぞると、彼がノートを開く。男の子らしい、雑な印象の英語と日本語が並んでいる。単語を何度も書いているページもある。彼なりになんとかしようと一生懸命努力しているのが見て取れる。それでも頭を抱えている様子から、英語を苦手としているのもわかってしまったが。

「あのね、大体はこれとこれの間で文章が区切れるの。だからここで区切って……それで単語を全部和訳してみて?」
「この単語って、何て意味でしたっけ?」
「afraidは恐れてって意味……赤也くんが怖いのは?」
「そりゃ真田副ブチョー、って、名前……」
「あ、ごめん、初日に柳が呼んでたから」
「別に、いいっスけど」

気まずくなった空気を誤魔化すように、口を開く。確かに、あんまり知らない人から名前呼びされたら嫌だよな、あとで柳に苗字を聞かないと。そう考えて、この場で本人に聞けばいいのに、と自分に突っ込む。それが出来たら、最初からこんな性格に育っていない。

「それでえーっと、真田だっけ。I'm afraid of Sanada.で、真田が怖いって意味。そうやって自分に置き換えていくと、覚えやすくならない?」
「確かに……副ブチョーって、英語で何すかね」
「え?えーっと、サブリーダーとかじゃない?」
「真田サブリーダーか。あの人英語似合わなくてなんかウケる」
「赤也くんは、テニス部が大好きなんだね」
「まあ、そっすね」

笑っていた彼の眉間に、またもや力が入る。うっかりまた名前呼びをしてしまった。気を付けなければ。慌てて、次の文章に取り掛かる。笑った顔はなんだか幼くて、少し可愛かった。結局人は来なかったから、昼休みを全て二人きりで勉強に費やすことになってしまった。彼はノートに並ぶ構文を眺めて息を吐く。

「ほんと、教えるの上手いんすね」
「柳ほどじゃないけどね」
「そうすか?英語は柳先輩より分かりやすかったけど。あの人、教えるの上手いんすけど、めちゃくちゃスパルタなんすよね」
「そうなの?意外。私が分からない問題を質問したときは、優しかった覚えがあるけど」
「……先輩は、やっぱ頭の良い男がいいっすか?」

不意の質問に驚いて彼の方を見つめると、彼自身も自分の口から零れた言葉に驚いたみたいに口に手を当てていた。そこから、チッと舌打ちの音が漏れる。相変わらず強い瞳が、ほんの僅か揺れている。どうしたの。そう聞こうとした瞬間、予鈴が校内に響き渡る。

「もう、教室戻らないと」
「あ、そうだね」
「じゃ……あざっした」

なんだったのだろう。もしかして好きな子に、頭の良い男がいいとか、言われたのかな。それは確かにちょっと傷付くかもしれない。ノートを見た限り、お世辞にも彼は頭の良い部類とは言えない。その部分は柳と比べるべくもないだろう。一生懸命やってるんだけどな、と思う。言動も荒っぽいところがあるし、舌打ちもするし、まだ少し怖いけれど、大好きなテニスの為なら大嫌いな勉強も頑張れる。そんなに、悪い子ではないのに。教室に戻ると、既に戻っていたらしい柳が駆け寄ってくる。

「面倒なことを頼んでしまって済まなかったな。赤也はちゃんと勉強していたか?」
「え?うん。すごく一生懸命勉強してたよ」
「それならよかった。迷惑ではなかったか?」
「図書室もそんなに人が来る訳じゃないし、迷惑ってことはないけど。あ、そうだ。赤也くんの苗字って何て言うの?」
「赤也の?切原だが、どうした?」
「ううん、やっぱりそんなに知らない人に名前呼びされるの嫌かなって思って」

そう言うと、柳は不審げに眉を顰めた。

「赤也がにそう言ったのか?」
「え?違うけど……でも不機嫌な顔になってたから」

彼はようやく合点がいったように、なるほどな、と呟く。なるほどじゃない。人が全然理解していないのに、一人で答えに辿り着いて納得してしまうのは彼の悪い癖だ。

「何がなるほどなの?」
「それはまだ確かではないので俺の口からは言えないな。大体それも苗字も、赤也に直接聞けばいいだろう」
「……それは、そうだけど」

人見知りにそれができたら、今まで苦労はしていない。そうして黙り込むと、柳はクッと喉を鳴らして笑った。

「なに?」
「いや、同じような会話を最近したものでな」
「ふぅん。じゃあ忠告しとくけど、多分その人に性格悪いなぁって思われてるよ」
「むしろ俺は親切な方だと思うぞ?」

柳は変わらず笑みを浮かべたままだ。本鈴が鳴って、教師が入ってくる直前。彼はその笑みのまま、難題を押し付けてきた。

、迷惑ついでにもうひとつ頼みたい。明日も赤也の勉強を見てやってくれ」
「え?」
「頼んだぞ」

迷惑だと思っているなら、断る選択肢を用意して欲しい。別に迷惑とは思っていないけれど。これはもう頼まれたことになるのだろうか。明日も生徒会の仕事あったんだっけ。ぐるぐると思い悩んだものの、敢えて断りを入れるほど嫌だと思っている訳でもなくて、最終的に翌日も彼と二人で図書室のカウンターに並んでいた。

「すんません。なんか柳先輩、用事あるらしくて」
「そっか。また生徒会かな」
「なんか、試合前だからデータ整理があるって」
「そうなんだ……テニスって、いろいろ考えながらやるんだね」
「あそこまで考えてんのは柳先輩くらいっすよ。あー、あと青学にもいるけど……俺は難しいこと考えてテニスしてねぇから」
「じゃあ、何考えてるの?」
「そりゃ、王者立海のNo.1プレーヤーになることっすよ」

一点の曇りも迷いも揺らぎもなく、彼は強い瞳で言い切った。立海のテニス部が強いことは知っている。一昨年も去年も、全国大会で優勝しているらしい。その立役者は、一年生の頃からレギュラーを勝ち取った幸村と真田と柳の三人だ。いかにもな感じの真田が副部長で、一見穏やかそうな見た目の幸村が部長というのが、未だによくわからないけれど、一年生の頃から全国で勝ち続けるくらいだから、彼らは相当な実力者なのだろう。その彼らを倒して一番になる。それはかなり、難しいことのように思えた。こんな英語の問題文なんかよりも、余程。それを迷いなく答えられるのが、きっと彼の強さなのだろうと、そう思えてしまう。

「そっか。すごいね。そうやって、何かに打ち込めるって」
「先輩は、なんかないんすか、そういうの」
「私は……特にないかな。だから勉強だけしてるのかも」
「いや、充分スゲーっしょ、それ。俺できねーし」

それに、人に教えるのも上手いし、と彼は唇を尖らせながら、ノートに向かう。嫌いな勉強でも、大好きなものの為なら頑張ることができる。そんなものは、今まで見つけたことがなかった。見つけようともしなかった。彼の問いかけに、急に自分が空っぽの人間だと思い知らされるような心地がする。けれど、それも凄いことだと、彼は言う。たったそれだけで、途端に心が軽くなってしまった。

「赤也は真面目にやっているようだな」

教室に戻ると、柳は既に席に着いていた。次の授業の準備も万端に整えているその涼しげな顔に、本当に用事があったのか、という疑念が過ったが、それを彼に問い質してもはぐらかされるだけだろう。

「うん、すごく一生懸命だよ。テニス、ほんとに好きなんだね」
「……見に来てみるか?」
「え?」
「練習。放課後、少し覗くくらいの時間はあるだろう?」

なんだか上手く乗せられているような気がする。その後の午後の授業は、あまり頭に入らなかった。

「うわぁ」

初めて近寄ったテニスコートの周りには、女の子たちがひしめき合っている。テニス部のレギュラー陣は皆大人気だと聞いていたけれど、実際に見ると噂以上だ。沢山の人が、毎日のようにここに通っているのだろう。流石にその中には入っていけるような気がしなくて、フェンスから外れた人の少ないところで、コートを見る。仁王や丸井は髪色が目立つからわかりやすい。そして、彼も。

「行くっすよ、丸井先輩!」

大きく動く彼は、一際目立っているように感じた。しなやかな肉食動物のようにコートを駆けて、力強く相手の方に打ち返す。強気な笑みも言動も、部活の先輩たちに見せる明るい表情も、図書室では見たことがないものばかりだ。生意気な口を聞いても、周りは小突くくらいで笑っている。彼がレギュラーの先輩たちを慕い、彼らからも可愛がられているのが見て取れた。好きなことをしているときの彼は、全く違う顔をしている。もっと、見たい。そんな思いが湧いてきて、彼のことばかりを目で追っていたせいか、大きく外れたボールがこちらに飛んできていることさえ気付かなかった。

「危ない!」

柳の声にハッと我に返って姿勢を正した。その瞬間、高速のボールが顔の横を掠めていく。

「わっ!」

驚いた。前のめりの状態だったら、当たっていたかもしれない。柳の掛け声に感謝だ。後ろの植え込みに突っ込んでいったボールに目を遣りながら、しばし呆然と立ち尽くしていると、急に正面から腕を引かれた。

「先輩、何してんすか!つーか大丈夫っすか!?」

彼だ。図書室ではお互い座っているからわからなかったけれど、こうして向かい合うと彼の背が思ったよりも高いことに気付く。強く掴まれた腕が、熱い。

「だ、大丈夫!ごめん、びっくりしただけ」
「マジで当たってない?……真田副部長!俺保健室行ってきます!」
「え、待って、ほんとに大丈夫」

慌てて怪我も何もないことを主張するが、彼は腕を離してくれないどころか、そのまま保健室の方向へと大股で歩き始めた。リーチが違うせいで小走りになってしまいながら、何か言わなきゃ、と思うが、頭が上手く働かない。コート付近の人たちの視線が集まっているのがわかるのも、気まずい。普段誰かに注目されるような人生を送っていないから、それだけで喉が詰まったように声が出ない。でも、何も聞かれていないのに、別に彼とはそういう関係じゃなくて、ただの先輩後輩なんです、と言い訳するのもおかしな話だ。テニスコートから離れた、人通りの少ない場所に差し掛かって、ようやく声を出すことができた。

「待って、切原くん!」

立ち止まった彼が、ゆっくりと振り向く。その顔はなんだかとても不満そうだった。大事な練習を抜けてきているのだから、それも当然かもしれない。

「私ほんとにボールが掠めただけで当たってないし大丈夫だから。ね?練習戻っていいよ」
「……なんで?」
「え?」
「なんで苗字呼びになってんすか?」

それならそうと早く言えよ、くらいの返事を予想していたら、全く違う言葉が飛び出してくる。なんでって、名前を呼ぶたび不機嫌そうな顔をしていたのはそっちだろう、と言いたい。絶対そんなこと言えないけれど。

「なんでって……切原くんが名前呼びだと嫌かなって……」
「別に、嫌じゃねーし……それより途中で呼び方変わる方が、なんかやだ」
「えっと、じゃあ……赤也くん?」
「なんすか?」
「練習、戻っていいよ?」

そしてこの腕は、いつまで掴まれたままなのだろう。いい加減腕の熱が、頬まで伝わってきてしまいそうだ。もしこんな場面を好きな子に見られたりしたら、誤解されるんじゃないだろうか。そんなことを想像すると、少し胸が軋む。でも、どうして。

「その前に聞きたいことあるんすけど」

しばらく黙り込んでいた彼が、不意に口を開いた。

「何?」
「これからも勉強、教えてくれます?」
「え?」

先程と同じ予想外の質問に、一瞬答えに詰まる。勉強なら、柳の方がいいのではないだろうか。正直、英語以外は柳に敵う気がしない。それでも、こちらを見つめる強い瞳の前に、首は縦に振られていた。

「私でいいなら、いいけど……」
「あと」

彼は僅かに視線を彷徨わせた。いつも真っ直ぐに相手を捉える瞳が、揺れる。彼の口から零れたのは、やはり予想もしない言葉だった。

「あの、名前、教えて欲しいんすけど」

眉間に力を入れた彼の顔を、ようやくしっかり見たかもしれない。目元と、癖のある髪から覗く耳が、赤く染まっている。それが感染したみたいに、頬が熱い。腕に心臓があるんじゃないかと思うほど、彼に掴まれた部分が脈打っているのがわかる。

……」

震える声で、名前を告げた。彼の声がそれを繰り返すように呼ぶ。ずっと付き合ってきた自分の名前が、なんだかまるで、初めて聞くものに思えた。

先輩、今の話全部、柳先輩には絶対内緒っすからね!」

彼の笑顔が、明るい声が、もしかしての期待を加速させる。鳴り止まない鼓動に、胸の内に芽生えた想いを自覚する。あのとき目が奪われたのも、胸が軋んだ理由も。どうして、なんて、わかりきっている。世界の色が、変わって見えた。

多分これが、恋なのだ。





(2019/7/22)