死に至る恋の病




後悔先に立たず。先人はよく言ったものだ。後になって、どうしてあのとき、と悔やむことは多いだろう。不出来なテストの後の、あのとき勉強していれば。負け試合の後の、もっと練習していれば。何かを失ったとき、手に入れられなかったとき、人は余計にそう思う。仁王はこのときほど過去の自分を恨んだことはなかった。

「はい、仁王くん。プリント回して」

後ろを向いた瞬間、肩にかかる黒髪が翻る。その髪から香るのは、最近しょっちゅうCMをしているシャンプーだろうか。姉が使っているものと、よく似た匂いだ。鼻先をくすぐる香りに目を細め、仁王はプリントを手に取る。受け取るのを見届ける前に、彼女はもう前へと視線を戻している。ほんの数秒。彼女がこちらを見つめる、僅か一瞬。そんなことに一喜一憂しているなど、テニス部の連中が聞けば大笑いすることだろう。飄々として、女心を無駄に掻っ攫っている、あの仁王が。無駄に掻っ攫っているつもりはなかったが、周囲の評価はどうしたって仁王の耳にも届いてくる。だからこそ、誰にも知られたくはない。中等部の頃からの想い人と、高校最後の年にようやく同じクラスになることができた。そして、この席替えでやっと前後の席という幸運も掴んだ。けれど。仁王はここで、過去を悔やまずにはいられない。出来ることなら、自分と彼女の記憶から消してしまいたい。本当に誰にも知られたくないのは、ここからだ。
中等部の頃、しょっちゅう受けた呼び出しのひとつ。当時はそう思っていた。部活の前に引き止められ、部室棟裏の、ひと気のない場所に彼女と二人で向かった。それまでに同じクラスになったことはない女子生徒だった。テニスコートの周りを走っていたから、彼女が同じ学年の陸上部だということは知っていたが、そのときには名前さえ知らない。彼女は同じ学年のと名乗り、すぐ本題に入った。

「仁王くん、好きです。あの、猫……」
「猫?」
「よく部室棟の近くにいる猫。あの子を撫でてるときの、仁王くんの笑顔が、すごくいいなって、思って……それで……」
「あー……悪いが、今誰か一人と付き合う気はないんでの。他当たってくれんか」
「うん……ごめんね」

よくある告白。どの女子生徒も、同じようなことを言う。別に仁王のことなど、大して知りもしないくせに。名前も知らなかった誰かの告白なんて、信じられるわけもない。だから、真剣な告白は全て断っていた。適当に遊んではいたが、特定の彼女はいない。誰かに心動かされることもない。テニスで騙し合いをやっているときの方が、余程楽しい。そのときまでは、確かにそうだった。けれど、彼女が去っていく後ろ姿を見つめながら、あんなことを言われたのは初めてだったな、と思った。好きだとか、付き合ってだとかいうことなら、いつも言われていたけれど。猫を撫でているときの笑顔がいい、なんて、誰にも言われたことはない。その時点で、いつもとは少し、違ったのかもしれない。気付けば、テニスコートの中で、外を走る集団にの姿を探していた。全校集会のときの体育館でも、休み時間の廊下でも。人の多い場所であっても、彼女のことはすぐに見つけることができた。彼女の姿を、つい目が追ってしまう。たまに目が合うと、心臓が跳ねた。肋骨を叩くかのような鼓動に、自分で驚いたことを覚えている。そこに来て、仁王はようやく自分の感情に気が付いた。だが、気付きたくはなかった。これが恋だと、認めたくはなかったのに。認めてしまえばどうしても、過去の自分を殴りたくなる。今更気付いたところで、どうして過去にフッた女に告白できるだろうか。こんなこと、誰だって馬鹿だと思うに決まっている。自分のことでなければ、たとえばこれがテニス部の生意気な後輩の話なら、仁王だって散々馬鹿にしただろう。チャンスはもう、あのときにみすみす逃してしまったのだ。
せめて、同じクラスになることができれば。そうすれば、少しは彼女に近付けるかもしれない。そうすれば、もしかしたらまたチャンスが巡ってくるかもしれない。そんなことも思ったが、高等部に上がって一年経っても二年経っても、二人の距離は一向に縮まらなかった。彼女が陸上をやめて帰宅部になってしまったから、放課後に彼女の姿を見つけることさえ出来なくなった。彼女とは他人のまま、いや、告白の件で気まずい分、他人よりも距離が離れたままだ。このまま卒業してしまうのだろうか。大きく開いた距離と、どうしようもない恋を持て余し続けて。不安と焦燥に駆られ始めた三年の始業式。クラス分けの掲示板を見上げて、仁王はしばし立ち尽くした。そこには、ずっと探していた名前がある。

「仁王くんは隣のクラスですか」
「ん、ああ、おう」
「どうかしたんですか?」
「いや……なんでもない」

柳生が、眼鏡の奥から不審そうな目を向ける。それも気にならなかった。ゆっくりと拳を握り締める。やっと、ようやく、同じクラスだ。これから何とか挽回できないか。いろいろと考えはしたが、最初の席替えでは仁王が一番後ろ、は前から二番目で、列も大きく離れていたため、話しかけることもできなかった。二回目の席替えも三回目も、彼女とは近くなることもない。幸い、仁王の方が後ろになることが多かった。ずっと視界に彼女の後ろ姿が入っている。授業中の、ふとした瞬間にも、の方に目を向けてしまう。睡魔に負けてうたた寝しているらしい頭の揺れている様子や、真面目に授業を聞くためにピンと伸びた背筋なんかを見るたび、口元が緩んだ。恋とは、こんなにも面倒で、こんなにも幸福なものだったのか。そして、五回目の席替え。祈るような気持ちで引いた紙には、既に紙を引いている彼女の後ろの席の番号が書かれていた。やっと、ようやく。できるだけ感情を顔に出さないように彼女の後ろの席へと移ると、はあからさまに顔を顰めた。

「後ろ仁王くんかー。他の子に恨まれそう」

あのときばかりは、流石に凹んだ。だが、自業自得と言われればそれまでだ。過去の自分が、どう考えても悪い。後ろの席になったからといって、これまでと大して変わることはなかった。彼女からは必要最低限しか話しかけてこないし、仁王自身も何と話しかけていいものかわからない。挨拶を交わしただけで、心臓が大きく脈を打つ。それ以上の会話など、できるはずもない。だというのに性懲りも無く会話のきっかけを探して、今日も彼女の後ろ姿を眺める。

「あ」

髪の毛に、糸くずがくっついている。先程の体育の後の着替えでついたのだろうか。多分、そのうち自然と落ちるだろうけれど。彼女の髪に手を伸ばす。する、とした黒髪が指に触れた。驚いたように、が振り向く。

「え、何?」
「糸くずがついちょった」
「あ、ほんと?ありがとう」

髪に触れた。彼女がお礼を言って微笑んだ。たったそれだけで、心臓が煩い。本当に面倒で、本当に嫌になる。ここから、恋にはならない。彼女の恋は、とっくの昔に仁王自身が終わらせてしまったのだ。部活に入る前にベンチに座って蹲っていると、視界に影が差した。中学のときからまた何センチか伸びた長身が、仁王を見下ろしている。

「なんだ、珍しい顔をしているな」
「……参謀、女ってのは、立ち直りが早いもんか?」
「一般的に失恋から立ち直るのは女性の方が早いと言われているな。ばっさりと相手への想いを断ち切ってしまうことで前向きになるらしい」
「誰も失恋とは言っとらんが……」
「そうだったか?」

惚けたように首を傾げて、笑みを浮かべる。中学のときと変わらず、怖い男だ。どこまで見透かされているのやら。仁王は肩を竦めて、テニスラケットを片手に腰を上げた。ばっさりと相手への想いを断ち切ってしまう。そうだとするならば、断ち切ったのは間違いなく自分だ、と仁王も理解している。理解しているからこそ、悔やむのだ。あのときもし、気紛れに彼女の告白を受けていれば。叶うことのない、もしも。仮定の話を、今も思い描いてしまう。たとえば、彼女が再び自分を想ってくれることがあるのなら。

「あ、仁王くん、いた!」
「な、何じゃ、なんかあったんか?」
「これ、渡さなきゃと思って」
「え」

昼休み、喧騒を避けて辿り着いた校舎裏のベンチで座っていると、がやって来た。普段昼休みは教室で友人たちと過ごしている彼女が、仁王を探してここにいる。それだけでも心臓が早鐘を打つ。しかも、その手にあるのは可愛らしい封筒。仁王にとっては見慣れたものでも、それが彼女から渡されたとなれば、いつもとはその手紙の持つ意味合いが違う。

「お前さんからか?」

わかっている。そんな訳がない。そう思っていたはずなのに。

「そんな訳ないじゃん。とっくにフラれてるのに。二年の子に、渡してって頼まれたの」

彼女の口からばっさりと切り捨てられてしまうと、うっかり期待してしまった心が地面に叩きつけられたように萎んでいく。よく見れば、封筒の宛名の文字は彼女のものとは全く違う。

「そうか」

一応それを受け取って、仁王の手でゴミ箱へと捨てた。彼女は一瞬驚いた顔をして、次に少しだけ、傷ついた顔をした。どうして彼女がそんな顔をするのか。それは彼女からの手紙でもないのに。

「読まないの?」
「応えられんのに、読んでも仕方ないじゃろ。自分で渡しに来たんなら、読むくらいはするがのぅ」
「ほんと、仁王くんって酷いんだか、真面目なんだか」

言われた言葉に、驚いた。酷い、と罵られたことはいくらでもある。自分から渡しに来ない手紙を読むことはないし、女子が集団で囲い込んでくるような告白には相当酷い言葉で返した覚えもある。だから、前者は言われ慣れている。けれど真面目なんて、生まれてこのかた、母親にすら言われたことはない。

「モテるし、チャラチャラしてるって言われてるけど、遊びで付き合ったりしてないでしょ?まあ手紙捨てたりとかは、酷いなぁと思わないこともないけど、言ってることはわかるし」

女遊びをすることはあっても、付き合うことはない。そんな適当なところが余計に反感を買うのだということは知っていた。だが、そんなところを、逆に真面目と取る人間がいるとは思わなかった。想いを寄せる相手にそんなことを言われて、舞い上がらない男がこの世にいるだろうか。褒められたからといって、彼女が仁王に好意を持っていることにはならないけれど。今が、チャンスなんじゃないのか。

「あ、この猫。仁王くん追って高等部にまで来ちゃったの?」

仁王の足元にすり寄ってきた猫に、彼女も身を屈ませる。その拍子に、今が伝えるチャンスだと思っていた言葉はあっという間に遠くへと行ってしまった。白く柔らかそうな手のひらが、猫を撫でる。その手のひらに頬を擦り付ける猫に、なんて羨ましいことを、と考えて頭を抱える。猫にまで嫉妬するなんて、どうしようもなく末期だ。

「そうみたいじゃな」
「一途だねぇ。可愛い」
「……俺も、意外と一途みたいじゃ」

ぽろっと、口を突いて出た言葉に動揺した。違う。こんなふうに告白するつもりはなかった。だが、彼女の表情は、仁王をさらに驚かせた。

「仁王くん、好きな子できたの?」

今にも泣きそうな、心の深い部分に爪を立てられたような顔。仁王にフラれたときでさえ、はそんな顔をしなかった。そんな、傷ついたような目はしなかったのに。彼女も自分がどんな顔をしているのか気付いたのだろう。仁王の返事を聞く前に、踵を返して校舎に戻ろうと走り出した。

「待ちんしゃい!」

の腕を掴んで引き止める。細い腕だ。彼女に触れている。そう思うと、情けない想いが全部、溢れてしまう。

「初めてなんじゃ。猫を撫でちょるときの笑顔がいい、なんて言われたのも。告白されてから、コートの外にそいつの姿を探すようになったのも、初めてじゃ。今も、いっぱいいっぱいで……何を話したらいいんか、全然わからん」

どうしようもなく、彼女に惹かれている。あの告白から今までずっと、考えるのは目の前の彼女のことばかりだ。告白を断ってから、のことを好きになったなんて、馬鹿みたいだと思うけれど。今更、受け入れてもらえるなんて期待はしないと覚悟しているけれど。それでも。想いを伝えずにいられなかった。

「ずっと後悔ばっかりじゃ。お前さんに、もう一回好きになってもらうにはどうしたらいいんか、ずっと考えとる」

は目を見開いたまま、仁王の言葉を聞いていた。信じられない、とその目が言っている。それはそうだろう。仁王だって、彼女への想いに気付いたときはそう思った。彼女は何度か視線を泳がせて、そうして仁王へと向き直る。

「私は、そんな簡単に、人を好きになんてなれない」

やはり。期待などしないと決めたはずだったのに、もしかしたらと性懲りもなく浮ついた心が、容赦なく叩き折られる。今度は致命傷だ。も三年前、こんな気持ちでいたのだろうか。諦めなければ、そう思っても、仁王は未だ彼女の腕さえ離すことが出来ずにいるというのに。彼女はこうしてフラれた瞬間、ばっさりと想いは断ち切ってしまったのだろうか。自業自得であっても、流石に凹む。彼女の腕を掴む仁王の手に、白く柔らかい手が重なった。驚いて顔を上げると、彼女は今にも泣きそうな目で、微笑んでいた。

「だから、一回フラれたくらいで、嫌いになんて、ならないよ」

恋とは、なんて面倒なのだ。仁王は改めてそう思う。失恋の痛みも、恋の成就した喜びも、同じくらいに胸が痛くなる。けれど彼女になら、この心臓を握り潰されたっていい。掴んだ腕を引き寄せる。もう後悔などしないように、その勢いのまま、彼女を力一杯抱きしめた。





(2018/2/7)