アン・ドゥ・トロワで恋に落ちよう




気になって仕方のない人間がいる。牛島は未だかつて胸に宿ったことない、執着に似た感情を持て余している。これを喩えようとするならば青葉城西の及川徹に対する感情に一番近い。彼のセッターとしての能力を欲しいと思う、その感情。しかしそれはたとえばこのクラスと隣のクラスと職員室なら、隣のクラスが近いのと同じくらいの感覚で、全く同じというわけではない。似て、非なるもの。その感情にどんな名前がつくかなど、牛島が知るはずもなかった。

「牛島、今日私ら日直だよ」
「ああ」
「牛島背が高いからラッキー。黒板消し、上の方よろしくね」
「ああ」

言われたことに対して、機械的に返答する。人によっては、冷たいだとか興味なさそうだとか、そんなふうに取られかねない言葉も、彼女は全く意に介した様子がない。クラスメイトのは小さい。身長が飛び抜けている牛島からしてみれば、クラスの女子など小さくて当たり前なのだが、それでなくても平均身長より低い部類だろう。ぴょこぴょこと視界の下の方を動く姿は小動物のようで、思わず頭に手を伸ばしそうになったことが何度かある。友人の女子生徒たちにも頭を撫でられている姿をよく見かける。だが、彼女は小動物は小動物でも飄々として人に懐かない野良猫のようで、性格はこざっぱりしていて猫撫で声で甘えるタイプではない。

「……牛島くん、あの、昼休み、ちょっといいかな」

たとえば、こんなふうに頬を染めて、おどおどした調子で、牛島の返答ひとつとっても不安げな顔を見せるような。

「好きです。一年の頃からずっと好きでした。私と付き合ってもらえませんか?」

たとえば、耳まで真っ赤になって、手を震えさせて、涙目になりながら切羽詰まったような声を出すような。そんなの姿は、少なくとも想像がつかない。

「済まないが、バレーに集中している。それ以外のことを考えることはできない」

本心からの言葉だけれど、いつも使う常套句。それを口にして、泣きそうな女子生徒を尻目に牛島は教室へと戻った。まだ昼食をとっていない。席へ戻る途中、小さな背中が机に突っ伏しているのを見つける。昼飯を食べて、満腹で昼寝といったところだろうか。組んだ腕に頭を乗せて、幸せそうな顔で目を閉じている。まるで猫だと、牛島はやはりそう思った。

「若利君でも、そんな顔すんだ」
「天童。どうした」
「これ、監督に渡された今週末の練習試合の対戦表」

意外そうな顔を隠しもしないで、天童は寝ているへと視線を送る。彼の視線にわずかな不快感を抱きながら、牛島は対戦表を受け取った。胸の内にもやもやとした湧き上がるこの不快感の正体も全くわからない。

「そんな睨まないでよー別に俺何もしないからさー」
「睨む?何故俺が」
「え、若利君……無自覚?」

今度は呆れた顔。くるくるとよく表情が変わる。だからだろうか。天童は男女ともに友人も多いように見えた。牛島の周りにも人が絶えないけれど、その周囲の人間はどんどん移り変わっていく。ずっと長いこと傍にいるような人間は、バレーの関係者だけだ。バレーの部員にしても、牛島の後ろをついてこれる者は、ごく僅かだけれど。考えていることがわからない、人の心が読めない、バレーロボット。そんなふうに言われているのを聞いたことがある。言い得て妙だと、牛島は思った。余計な感情など必要ない、バレーをするためのバレーロボット。それで結構だ。

『お前のそういうところ、ほんと腹立つ』

いつだったか、及川徹と話した際に言われた言葉を、唐突に思い出す。及川の能力を認めている。県内最強の、これ以上ないセッターだと思っている。だから、自分が入り、チームとして最高値にある白鳥沢へと誘った。だが、及川から返ってきた言葉はそれだ。何が彼の気に障ったのか、今でもわからない。

「牛島、これ教材室運ぶよー」
「ああ」
「こっち重いから持って」
「ああ」

ちょこちょこと、は相変わらずよく動く。言われることは明快で、わかりやすい。何かを匂わせようとするような、遠回しな言葉は理解に苦しむ。牛島にとって、彼女は一緒にいることが苦にならない。おそらく、そういうところを好ましく感じているから、気になるのだろう。

「牛島、また告白されたんでしょー」
「ああ」
「よくやるよね、牛島、一回も告白オーケーしたことないんでしょ?」
「ああ」
「バレー最優先だもんね」
「そうだな」
「好みとかあるの?」
「好み?」

教材室で授業に使ったものを片付けながら問われた言葉に、思わず彼女の方を見やった。低い棚に教材を片付け、上の方、彼女がギリギリ届くか届かないかの位置にある場所へ教材を戻そうとしているのを、代わりに直してやる。

「あー、やっぱ余裕だねぇ」
「お前は低いところだけやっていろ」
「そうだね、適材適所。牛島高いとこよろしく」

キツイ言い方になったかもしれない、と思ったが彼女はそれを気にする様子もない。好み。好ましいと思う感情。それであれば、今彼女に感じている気持ちに近い。低い棚に顔を半分突っ込んで片付けていたからか、彼女の頭は少し埃を被っていた。視界の端をちょろちょろと動く頭に、牛島は思わず手を乗せる。

「え、牛島?」
「あ、いや、埃が」
「あ、なるほど。そっかーごめんごめん、びっくりしたわー」
「いや、俺もいきなりだった。すまない」

小さな頭を二度三度、撫でるように埃を払うと、彼女は驚いたように目をまるくして。牛島の片手にすっぽり収まるような頭の、黒髪の下に覗く耳まで、真っ赤に染まっていた。どくん。大きく、心臓が跳ねる。彼女は牛島の答えを聞いて、納得したと笑った。教材を片付け終えて、帰宅部の彼女は牛島に手を振って帰っていく。

「なんだ……?」

別に心臓が鼓動を速めるような運動なんてしてはいなかった。なのに、心臓がうるさい。こんなことは初めてだった。少し遅れて部室に行くと、向こうも日直か何かだったのか、天童だけがロッカーの前で着替えている。おつかれー、なんていつもの口調で話しかけてくる天童を尻目に、牛島は部室の中にあるベンチへと腰掛けた。

「天童、俺は何か病気だろうか」
「へ?どしたの、若利君」

いつもとは違う雰囲気に気がついたのか、天童は着替えの手を止めて、牛島の前にやってくる。そういえば、昼休みに彼に感じた不快感を、今は感じない。

「運動してもいたわけではないのに、動悸がする」
「え、それやばいじゃん」
「やはりそう思うか?」
「いつから?」
「さっきまで日直の仕事でと話していたんだが、そのときからだ」
「あー、今日昼休みに寝てた?あー……なるほどそっかー……うん、まあ病気っちゃ病気かな……?」
「どういうことだ?」

天童は要領を得ない言葉を発しながらしばらく唸る。

「うーん、若利君さ……その子のこと好きなんじゃないのー?」
「ああ、好ましく思っているが、それがどうかしたのか」
「……うん、いや、そうじゃなくて」

そんなに頭を抱えるようなことだろうか。どちらかと言えば、頭を抱えたいのはこちらの方なのだが、と牛島は天童を眺めながら思った。その間も、天童は目を逸らしたり首を捻ったりと忙しない。

「えっと、たとえば、その子が若利君に告白してきたら、どうする?」
が……?」

昼休みのことを思い出す。告白してきた女子生徒の顔はもうほとんど思い出せないけれど、それに彼女を重ねて、そのときには想像がつかなくてやめた。けれど、教材室での、あの赤くなった顔が、告白してきた女子生徒に重なる。どくん。胸板の下で、大きく鳴る心臓。体温が上がるような、顔に血が集まるような感覚がする。

「どう、すればいいんだ?」
「へぇ、迷うんだ。若利君、いつも言ってるんでしょ。バレーに集中している、それ以外のことを考えることはできないって。その子には、言わないの?」
「………」
「あー、まあ、現に今部活前なのにその子のこと考えてて、バレーに集中できてないよねー」
「そんなことは」

ない、とは言えなかった。そうだ、病気ではないのなら、早く着替えて、部活を開始しなければならない。天童との会話を切り上げて、お互いさっさと着替え、ボールに触れ始めた頃にようやく牛島は本来の調子を取り戻した。ゆったりと助走に入る。白布がトスを上げる。ネット前で跳躍し、鍛え上げたバネのような全身を使って、左腕一本に力を乗せたボールが、ブロックを全て吹っ飛ばして相手コートへと落ちた。これだ。これが、必要なものだ。最強の白鳥沢高校で、最強と呼ばれるエーススパイカーであるという自負と誇り。それ以外は、全て余計なものだ。ずっと、そう思ってきた。なのに。

「きゃー!牛島くーん!」
「若くんかっこいいー!」

黄色い声援の、女子生徒の集団。普段その声を気にすることなんてなかったのに、彼女に似た声がしただけで、振り返ってしまう。見ても彼女がいないことはわかっている。帰宅部の彼女が帰るのを見送ったばかりだ。普段一度も視線を向けたことのない牛島が振り返ったからか、黄色い声は大きさを増した。集中しなければ。視線をやった体育館の入口に彼女の姿がないことを確認して、牛島はコートへと向き直った。

夏のインターハイが終わり、全日本ユースにも選ばれて牛島が学業に割ける時間はほんのわずかだ。教室にいる時間自体、かなり減っている。ノートのコピーや授業で配られたプリントなんかはクラスメイトのバレー部員が渡してくれるが、との接点は全くない。元々席も近いわけではないし、よく話す間柄でもなかった。だが、気になって仕方がない。

『たとえば、その子が若利君に告白してきたら、どうする?』

天童に問われたあの言葉の答えを、牛島はまだ見つけられずにいる。

「牛島ー、これ」
「っ、なんだ」

後ろから、今まさに考えていた人物に声をかけられ、牛島の肩が跳ねた。その、いつもと違う様子にも彼女は首を傾げるだけで、なんら突っ込んできたりはしない。どうしたの、と問われたら、自分はなんと答えるのだろう。投げかけられてもいない質問の答えを探している間に、彼女は牛島の前に白い封筒を差し出した。そのシンプルな封筒には、これまたシンプルに牛島の名前だけが記されている。どくん。また、心臓の音が大きく聞こえる。けれど、嫌な感じはしなかった。

「手紙」
「お前からか?」
「まさか、違うよ。今預けられたの。一年じゃないかなー。可愛かったよ」
「そうか」

残念に思う気持ちが湧き上がる。手紙の送り主が彼女だったら、と考えて、牛島は困惑した。彼女だったら、一体どうするというのだ。答えは見つかっていないのに。

気になって仕方のない人間がいる。牛島は未だかつて胸に宿ったことない、執着に似た感情を持て余している。廊下を歩く背中を見送りながら、牛島はいつもより早く鼓動を刻む胸の上に手を置いた。手紙を貰えるかもしれないくらいで一喜一憂して、声をかけられれば心が弾む。近くにいるだけで、動き回ったセットの終盤かと思うほど、心臓が脈を打つ。だが、嫌な感じはしない。むしろずっと、傍にいてほしいと思う。好きです、と一生懸命に綴られたその手紙に初めて目を通して、牛島はようやく思い知る。

どうやらこの感情を、世間一般では『恋』というらしい。





(2015/9/6)